光のもとでT

第二章 兄妹



第二章 兄妹 18話


 あれから一眠りすると、次に目が覚めたのは夕方の六時を回ったころだった。
「もう夕方なのね……」
 一日寝て過ごしているのに、時間が経つのが早く感じた。
 体温は何度まで下がったのだろう。
 少し身体を起こしてモニターを覗き見ると、
「三十七度九分……」
 血圧は八十の五十八。
 血圧の数値はいつもと変わらないものの、まだ体温が下がりきってはいなかった。
 確か、午前中に紫先生が三十七度台に落ちれば今日帰ってもいいと言っていたけれど、この数値は際どすぎる。限りなく三十八度に近いわけだけど、果たしてどんな判定が下ることか。
「もう一泊、かな……」
 諦めて窓の外に視線を移す。
 ちょうど夕暮れどきで、空が茜色に染まっていた。
 ここにカメラがあったら写真撮るのにな……。
 残念ながら、カメラもスマホも何もない。
 きれいだなぁ、とぼんやり見ていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
 ドアのほうをじっと見ていると、
「ほら、とっとと入る」
 秋斗さんに背中を押されて蒼兄が入ってきた。
 ちょっと困った顔をしながら、「熱、下がったか?」と訊かれる。
「うん。三十八度は切ったよ」
「そうか……」
 言葉だけを見れば安堵したような響きだけれど、顔を見てしまうとなんとも言えない気持ちが胸に広がる。
 前の気まずさを互いが引き摺っていた。
「熱のせいかな? いつもよりも顔色が良く見えるよ」
 秋斗さんは笑いながら近づいてきた。
「秋斗さん、この装置、ありがとうございました」
 ルームウェアの袖を捲くりバングルを見せると、
「いいえ、お役に立てて何より。……というより、ひとつ謝らないとね」
 秋斗さんは申し訳ないと言った感じで肩を竦めた。
「前、翠葉ちゃんからスマホを預かったとき、無断でGPSを仕込みました。ごめんなさい」
 ペコリ、と腰を直角に折って謝られる。
 私はと言うと、確か湊先生がそんなことを話していたな、というニュアンス。
「でも、一度も起動してないって聞きました。私や蒼兄を心配してのことだったのでしょう? それなら謝る必要ないです。謝らないでください」
「でも、プライバシーの侵害になることだからね。お詫びと言ってはなんだけど、何かひとつ、なんでもお願いを聞くよ」
「でも、こんなすてきなバングルいただいてしまったし……。それでお相子っていうか……」
「こんなことでもないと、翠葉ちゃんからお願いしてもらえる機会はなさそうだし、一ヶ月近く早くなっちゃったけど、そのバングルは翠葉ちゃんへの誕生日プレゼントでもあるから、お相子の対象物としてはいささか相応しくないんだよね」
 そう言われてしまうと悩む。
 お願い、かぁ……。これと言ってとくにないんだけどな……。
 困っていると、蒼兄はベッドから少し離れたソファへ座り、秋斗さんはベッド脇にあるスツールに腰掛けた。
「何かない? どこかに行きたいとか」
 行きたい、場所……。
「それなら……森林浴、かな?」
「……森林浴って、あれだよね? 緑がいっぱいのところで――」
「そうですそれです。晴れた日に森林浴に行きたいです」
「いいけど……。本当にそれでいいの? 遠慮してない?」
 すると蒼兄が口を開いた。
「先輩、何度も話したでしょう? 翠葉の一番の楽しみは森林浴だって……。どこかに連れて行ってもらえたら、ずっと写真を撮ってるか、ハープを弾いているか、ラグで昼寝するか。本当に光合成そのものですから」
「わー……あれ、本当だったんだ?」
 秋斗さんは目を丸くしながら蒼兄から私へと視線を戻した。
「変わった趣味だね?」
 そうは言いつつも、快諾してくれる。
 蒼兄はまだソファに座っていて、こちらに来る様子はない。
 三人で会話するには困らない距離だし、これといった問題点があるわけではない。でも、ふたりきりになったら……?
 ふたりきりになったら、さっきの重苦しい雰囲気になってしまうんじゃないかと不安になる。
「……蒼兄」
 声をかけると、ソファから立ち上がりベッド脇に来てくれた。
「あのね、ケンカしたわけじゃないけど、でも……ちゃんと仲直りしたい」
 蒼兄は無言でベッド脇まで来ると私の身体を起こし、いつものように両腕でぎゅっと抱きしめてくれた。
 蒼兄の腕の中は落ち着く。
 私にとっては何よりも安心できる場所で、この場所を失いたくないと思う。
「なんかさぁ……面白くないなぁ」
 秋斗さんの声が割り込み、私と蒼兄は秋斗さんに視線を移した。
 秋斗さんはとても不服そうな顔をしていて、
「僕だってぎゅってするくらい、いつでもするのに」
 これはなんだろう……。
 拗ねているようにも冗談のようにも聞こえる。
 でも――
「これは蒼兄限定です」
 そう言うと、秋斗さんはさらに面白くなさそうな顔をした。

 コンコンコン――
 蒼兄と秋斗さんがここにいるとなると、病室を訪ねてくるのは湊先生か紫先生しかいない。もしくは看護師さん。
 蒼兄が「はい」と答えると、ステンレストレイを持った湊先生が入ってきた。
「先生、帰ったんじゃ……」
「一度帰ってちゃんと寝てきたわよ?」
 そう言われてみれば、今朝着ていた術着ではない。
 いつもパンツルックなのに、珍しく膝丈のスカートをはいていた。
「スカートはいてればそれなりに女性らしく見えるのに」
 秋斗さんが言うと、湊先生はすかさずその頭をはたく。
「熱は三十八度切ったのね。でも、まだ少し高いか……。秋斗邪魔、点滴変えるからどいて」
 長い脚で秋斗さんを蹴散らすと、
「これ一本であと三時間。……血圧の数値は悪くないし、不整脈も出てない。九時過ぎには帰れると思うけど、どうする?」
 訊かれて困る。
「どうしたらいいでしょう……」
「ま、どっちでもかまわないわよ。ここにいれば明日の朝までは点滴打てるし、そのほうが回復は早いかもしれない」
「じゃ、もう一泊することにします」
 その返答に、蒼兄が驚きを見せた。
 それもそのはず。私はいつだって早く家へ帰ることを望んでいたのだから。
「四日の試合に行きたいから?」
 湊先生に訊かれて、「はい」と頷いた。
 その会話に秋斗さんが入ってくる。
「四日って、司の試合のこと?」
「はい。午前九時からって聞いていて、幸い、会場がうちの裏手にある運動公園の体育館だったので」
「それ、僕も行こうかな? 翠葉ちゃんひとり?」
「いえ、桃華さんが一緒です」
「じゃ、なおさらだ。かわいい女の子をふたりでなんか歩かせられないからね」
 その意図が読めなくて不思議に思っていると、
「ボディーガードになってあげるよ」
 飛び切り甘い笑顔を添えて言われた。
「ボディーガード」の言葉に思い出す。先日、桃華さんが他校の男子に絡まれていたことを。
 私では蒼兄のように追い払ってあげることはできないし、誰か頼れる人が一緒だったら怖い思いをしなくて済むだろうか。
 でも本当に、一緒に来てもらってもいいのかな……。
 不安に思って蒼兄を振り仰ぐ。と、
「秋斗先輩も司の試合を見たいんだと思うよ。それに俺も、秋斗先輩が一緒なら安心」
 言いながら、後ろのソファへと戻る。
 なんとなく――なんとなくだけど、蒼兄との距離を感じる。
 気のせいかもしれないけれど、違和感を覚えてならない。
 その違和感の正体は、「寂しさ」な気がした。
 蒼兄から少し離れようと少し前に奮起したばかりだ。なのに、たかがこれだけのことで寂しいと思うなんて……。
 やっぱり、十六年間ずっと側にいた人から離れるのは容易なことではないのかもしれない。
 でも蒼兄は、どうして私と距離をとろうとしているの……?
 やっぱり、さっきの会話が原因だろうか。
 不安を抱えたまま眠りに落ち、消灯時間前に体温を確認したけれど、熱は三十七度八分までしか下らなかった。
 それでも昨日一昨日のことを考えればずいぶんと下がったし、楽にもなった。
 夕飯には五分粥を食べることができたし、胃のほうも落ち着いてきている。
 具合が悪いときと言うのは、どんなに寝てもまだ眠れるようで、私は不安から逃れるようにして眠った。

 翌朝、六時の検温やバイタルチェックで目を覚まし、七時過ぎには朝ご飯が出てきた。
 消化のいいものがセレクトされていて、全部食べることはできなかったけれど、半人前程度は食べることができた。
 うん、自分でもだいぶ回復したと思える。
 これなら今日おうちに帰っても問題なさそうだ。
 そういえば、たった二日だけれど栞さんに会っていない。
 帰ったら謝らなくちゃ。心配かけてごめんなさい、と。
 スマホも家だし、誰からもメールが届いていないことを祈る。
 私にメールをくれるのは家族とクラスメイトくらいなものだけど、そのどれであっても返信をしなければ心配をかけてしまう気がして、気が気じゃない。
 家に帰ったら、まずはスマホをチェックしよう……。それに、ハープの調弦もしてあげないと……。きっと、また音がすごく狂っているはず。
 でも、体温は三十七度台半ば。今日はまだ、蒼兄のお許しが出ないだろうか。
 そんなことを考えていると、時計は九時を指していた。

 コンコンコン――ノックのすぐあと、蒼兄が入ってきた。
「今日は帰れそう?」
「うん。もう大丈夫」
 普通の会話に思えるけれど、少し違う……。
 いつもなら、「具合はどう?」「大丈夫か?」という言葉が第一声なのに……。
 違和感を気にしていると、湊先生が入ってきた。
 モニターのチェックを一通り済ませると、
「ここまで下ればもう大丈夫ね」
 と、太鼓判を押してくれた。
 点滴の針を抜くと、先生は私の腕を見てため息をついた。
「かぶれづらいテープを使ってたけど、やっぱり少しかぶれたわね」
「いつものことなので……」
 私の肌はとても弱い。
 テープにもかぶれるし、アルコールの消毒薬もだめ。そのため、いつもアルコールの入っていない消毒薬を使ってもらっていた。
 自分で言うのもなんだけど、本当に面倒な身体なのだ。
「もう精算も済んでいるから、いつ帰っても大丈夫よ」
 言われて、蒼兄とふたり「ありがとうございました」と頭を下げた。
「これ、着替え持ってきたから。着替え終わったら呼んで」
 蒼兄はカーテンを閉めて出て行く。
 その後姿を見て思う。
 やっぱり違う、と。
 いつもと同じようで、何か違う。
 それは接し方であったり、「距離」なのかな。
 でも、少しずつこの距離感にも慣れていかなくちゃいけない。
 そう思うと、唇をきつく引き結ばなくちゃいけない程度には「我慢」を要することだった。
 蒼兄を自分から解放してあげたいと思う反面、離れたくないと強く思う自分がいる。
 やっぱり私はわがままで、とても自分勝手なんだ――



Update:2009/06/01  改稿:2020/02/04



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