光のもとでT

Side View Story 03



Side View Story 03 19 Side 湊 01話


 お昼を過ぎると珍しい客が訪れた。
 秋斗が私の仕事場に来るのは非常に珍しい。
 このえらく顔のいいもぐら男は、通常図書棟の仕事部屋から出てくることはない。
「お願いがあるんだけど」
「何よ、秋斗が保健室に来るなんて。明日雨でも降るんじゃないの?」
 秋斗はくつくつと笑う。
「さすがにさ、お願いごとするのに電話やメールはよろしくないかと思いまして」
「そのお願いってなんなの?」
「HIVの検査をしたいんだ。ほか、性病関連のね」
「は?」
 今、なんて言った? HIVとか性病の検査って言わなかった?
「だから、湊ちゃんに俺のHIV、その他諸々の検査をお願いしたいんだよね」
「……かまわないけど、そういう恐れがあるってことなの?」
「まったくもってそのつもりはないけれど」
 にこにこと笑顔でお願いしてくることでもなければ、そうそうお願いされることでもない。
 確かにこの男は、何年もの間不特定多数の女と肉体関係を持ってきた。
 一度きりの関係だってかなりあったに違いない。
 けれども、今まで妊娠騒ぎを起こしたこともなければ、そんなヘマをするとも思えない。
 私は戸棚から簡易キットを取り出す。
「これに入ってる検査キットをやって。ポストに投函すれば、郵送で結果が届く」
「ふーん。こんな簡単なんだ?」
 秋斗は簡易キットが入ったパッケージをしげしげと見つめる。
 とくに何か変な兆候も見られなければ、具合が悪いようにも見えない。
 奇妙なことを言い出した従弟をまじまじと見ていると、
「何? そんなおかしいこと?」
「いや、おかしくはないけど……。強いて言うなら奇妙――かしらね」
「理由が知りたいってこと?」
「それ、ぜひとも聞きたいわ」
 水面下のやり取りなど面倒なことはしたくない。
「俺ね、翠葉ちゃんと付き合うことにしたから」
 ……は?
 ――ちょっと待て、少し落ち着け私……。
 翠葉って、あの翠葉よね? 秋斗いくつだっけ?
 楓と同じなんだから二十五よ、二十五。翠葉は司と同い年なんだから、来月で十七になるんじゃなかったかしら?
 秋斗だって夏には二十六になる。
 何をどうしたって淫交罪適用じゃないの……。
「って言ってもお試し期間なんだけどねー」
 言いながらにこにこと笑う頬を抓りたい衝動に駆られる。
「ちょっと秋斗……。翠葉はあんたが今まで相手してきた女たちとは違うわよ? そのうえお試しって何よ。いくら秋斗でも、翠葉で遊んだら怒るわよ!?」
 翠葉は身体が弱いうえ、精神面で不安定な要素も多い。でも、素直でいい子だ。
 普段蒼樹のことをシスコンシスコン言ってはいるものの、蒼樹があそこまで溺愛するのも頷けるほどに。
 そんな子で遊ぶほどにこいつは廃れたか?
「湊ちゃん、それ結構ひどい……。逆だよ、逆。翠葉ちゃんが俺をお試しする期間ってこと」
 ますますもって意味がわからない。
 この秋斗がそんな付き合い方をするとは思えない。
 欲しいものはなんとしてでも手に入れようとする反面、興味のないものには一切関わろうとしない。それがこの男だ。
「できればお嫁さんになってほしいんだよね」
 女が放っておかないような甘い笑顔でそんなことをほざく。
「秋斗……いくら見合い話がわんさか来るからって、見合い避けに翠葉を使うのはどうかと思うけど?」
 確かに、翠葉はメイクをすればいくらかは年をごまかすことができるだろう。
 でも違う。そういう問題じゃない。
 藤宮のごたごたに巻き込むなんてもってのほかだ。
「湊ちゃん、そうじゃないから……。俺ね、ちょっと本気っぽいんだよね」
 秋斗は検査キットをテーブルに置いて、「困ったことに」といった顔を見せた。
「は……?」
「くっ、頭の切れる湊ちゃんが、今日は間抜けな反応ばかりだね」
 誰のせいだ、誰のっ。
「本当はさ、お試し期間なんて言わずに付き合っちゃいたいんだけど、あの子、初恋もまだっていうあり得ないくらい純粋培養なお嬢さんでね。だから、自分と恋愛してみないか、って持ちかけた。まだ返事はもらってないけど、もちろんOKしてもらうつもり」
 なんだ、まだ付き合っていないというか、返事すらもらってないのか。
 少しほっとしたけれど、OKをもらう気でいるところが秋斗だろう……。
「で、なんでコレなのよ」
 検査キットを指差すと、
「婚約するまでは手ぇ出すつもりはないけれど、身の潔白っていうの? きちんとしておこうかと思って。別に誰に言うでもないんだけど……一応ね」
 秋斗なりに翠葉を大切にしたいから、ってこと……?
「それは、かなり本気だと受け取っていいのかしら?」
「それはもう……。だって、もうひとつのスマホは早々に解約してきちゃったし」
 もうひとつのスマホとは、女遊び専用回線というふざけたスマホのことだろう。
 その中には、女の連絡先しか入っていないという本当にふざけたスマホだ。
 さらには、そういう女どもに自分の素性は一切明かさずに付き合ってきたというのだから、策士と言わずしてなんと言おうか。
 とりあえず、血縁者に対して「詐欺師」という言葉は使いたくない……。
 まあ、秋斗のことだから、そのあたりはうまく立ち回っているのだろうし、変な女は引っ掛けていないに違いないけど。
「翠葉が傷つくようなことだけはするんじゃないわよ?」
「心得てます」
 あくまでもにこにこと、そしてどこか嬉しそうに答える。
「あのさ、ひとつ訊いてもいいかな?」
「何よ……。言っておくけど、手を出したら立派な淫行罪よ?」
「だから……婚約するまでは我慢するってば。違くて、司のこと。あいつ、お見合いした?」
「あぁ、楓の尻拭いの件ね」
 私には弟がふたりいる。ひとりはこの学園に通う高等部二年の司。そしてもうひとりは、藤宮病院で麻酔科医をしている楓。
 現在の藤宮において、見合い話が来るのは秋斗と楓に集中している。
 秋斗がにべもなく断るのに対し、楓はやんわりと断る。
 もともとが物静かで温和な人間なのだ。
 ただ、物腰穏やかな人間が流されやすいかというとそうでもなく……。
 女のほうは押せば落ちると思うようだが、そんなことはない。
 実際にはやんわりと断り、相手に身を引かせるのが楓のやり方。
 意外とそつなく切り抜けてきていると思っていた。先日までは――
 あれは相手が悪かった。病院の大手取引先、製薬会社の社長令嬢――柏木あやめ。
 どうやら見合いをした途端に婚約者面を始め、病院にまで入り浸りだしたという。
 最初こそいつものように対応していたようだが、それでも目に余る奇行の数々だったのか、楓の堪忍袋の緒が切れた。
 これでもか、というほどに相手の愚行を並べたて、相手両親の顔に泥を塗ることを忘れずに破談にしてきたらしい。
 その噂は瞬く間に広がった。
 こちらからしてみれば、秋斗や楓に見合いを断られる令嬢など珍しくもなんともないわけだが、製薬会社の社長という男はよほどプライドが高いのか、娘を袖にされたこと。そして自分たちまで恥をかかされたことがひどく気に食わなかったらしい。
 結果、その尻拭いをもうひとりの弟、司がすることになってしまったのだ。
 その内容とは――あやめの妹、桜の家庭教師とのことだが、楓と長女の婚姻は諦め、あわよくば次男の司と次女を婚約させようという魂胆だという。
 バカバカらしくてそれ以上の話を聞く気にもならなかった。

 もうひとりの弟司は、度を越して女嫌いときたものだ。
 別にそっちの気があるわけではない。
 ただ、藤宮の名前に集ってくる女どもには容赦の「よ」の字もない。
 その弟が、
「あの兄さんが切れるって相当だと思う。今回だけは後始末をしてもいい」
 と、口にした。
 そうは言ったが、あれは婚約する気など、さらさらないだろう。
 表面上の約束は「夏休み中の家庭教師」であり、それ以上でもそれ以下でもない。
 だから、それさえ終われば確約上は事が済んだことになる。
 それでいいならそれだけはやる、という意味だ。
 きっと、私そっくりの顔できれいな笑みを浮かべ、
「夏休みの家庭教師は勤めましたから」
 とでも言って、あっさりかわしてくるつもりだろう。
 我ながらよくできた弟であり、自分の動かし方を心得ていると思う。
 相手も必死になれば、夏休み中にいかなる手を使ってでも既成事実にこじつけようとしてくるだろう。が、そんな手に司が引っかかるとは到底思えない。
 だから黙認している。
「話的にはそういうことよ」
 口を挟むことなく聞いていた秋斗は、
「なるほどねぇ……」
「こんなこと、私から聞かずとも秋斗の情報網のどっかに引っかかってるんじゃないの?」
「いやいや、湊ちゃんから得る情報に比べたら拙いものだよ」
 秋斗は含みのある笑みを浮かべた。
「まあ、司ならうまくやるんじゃない? ……ただ、その間に俺は翠葉ちゃんをいただくけどね」
 ……そういうことか。
 司はたぶん、翠葉のことを意識しているだろう。もっと言うなら、好きなんじゃないかと思う。
 あの弟が自ら声をかけた女子は、あとにも先にも翠葉しかいない。
 それがどういうことなのか、少し考えればわかること。
「秋斗……あんた九つも下の司に、何本気になってるのよ……」
 そう思うとおかしい。
 今、秋斗が一番気が抜けない相手。それが司なのだ。
「そうなんだよねぇ……。俺もできればふたりにうまくいってほしいと思ってたはずなんだけど……。どうしてこうなっちゃんたんだろう?」
 首を傾げながら話し続ける。
「でもさ、人に譲りたくないもの、絶対に手に入れたいもの。初めて見つけちゃったんだよね」
 まるで宝物を見つけた少年みたいな目で口にする。
 私だって弟はかわいい。けれど、何事にも執着を見せなかったこの従弟が、こんなにも嬉しそうに笑っているのを見ると、心が揺れる。
 早い話、毒気を抜かれてしまったのだ。
 司……あんたおちおちしてると秋斗に全部掻っ攫われるわよ?
 そうは思うがとくに耳打ちするつもりはない。
 ――「欲しいものは自分の力で手に入れろ」。
 それは藤宮の家訓のようなもの。
 藤宮という家に生まれると、たいていのものが手の内にある。
 だからこそ、何か欲することを覚えたなら、自分の持ち得るすべてを駆使してでも手に入れよ、という教え。
 これは意外と的を射ていて、私の知る限り、みんなそのようにして生きてきている。
 二十歳を過ぎればうるさいほどに縁談がやってくる。それをいかにうまく断り最良の伴侶を得るか――
 前者においては面倒くさいことこのうえないが、さほど大変なことでもない。藤宮に育てば、そのくらいの処世術は必然と備わるからだ。が、後者は藤宮ではかなり骨の折れることのように思える。
 うちの一族はありとあらゆるものに対して執着が薄い。きっと、物心がつく前から望むものが手に入る環境に育つからだろう。ゆえに、自己愛が強く、他者に愛情を与えるという行為自体にあまり興味を示さない。
 そんな人間たちの執着は仕事へと向かう。
 その代表に伯父の紫と栞の兄、次期会長の静さんがあがる。そして、楓や司もその傾向が強い。目の前にいる秋斗も例に漏れず――否、例に漏れずだった、と言うべきか……。
 翠葉、厄介なのに気に入られちゃったわね?
 今まで執着心の欠片もなかった男たちが、一度見つけた宝をそうそう逃しはしないだろう。
 しかも、秋斗ひとりでは済みそうにない。
 秋斗と司――自分の感情に気づいたが最後。ふたりはどんな手を使ってでも、自分のものにしようとするのだろう。
 少々気の毒だが、遊びではないことがわかっただけでもいいとする。
 一言申し上げるとしたら――「ご愁傷様」かしら?
 翠葉の先日の知恵熱は、どうやら秋斗が原因らしいし……。
 これから先が思いやられるわね。



Update:2009/06/08  改稿:2020/05/25



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