光のもとで

第06章 葛藤 14話

「栞さん……マンションで過ごし始めたらコンシェルジュさんや住民の人の名前や顔を覚える必要ってありますか?」
 不安になって訊くと、
「やだ、翠葉ちゃんそんなこと心配してるの?」
 栞さんはびっくりした顔をすぐに崩して笑いだした。
 でも、マンションという場所に住むこと自体が初めてなのだ。
「大丈夫よ。うちのマンションは全部が埋まっているわけじゃないし、コンシェルジュだって覚えなくちゃいけない義務はないもの。それに、コンシェルジュはネームプレートをつけているから、追々顔と名前が一致するようになるわ」
 その言葉に少しほっとする。
「ここには静兄様が気に入った人しか住めないのよ」
「「え?」」
 私と蒼兄の反応がかぶった。
「ここは別名、静兄様の巣、だから」
 ス……!?
「個性の強い人が多いわ。だから、会えばきっと印象が強烈で忘れられなくなるんじゃないかしら?」
 そんな話をしていると、栞さんの携帯が鳴りだした。
「はい。――ありがとうございます。今から下ります」
 栞さんは携帯を切ると、
「薬は持ったしお水もOK……」
 手荷物を確認すると、
「じゃ、行きましょう!」
 その声に蒼兄が動き、横抱きに抱えてくれた。
「大丈夫か?」
 訊きながら、蒼兄はすでに歩き始めている。
「ん……」
「下に下りればすぐ横になれるから」
 けれども、すでに吐き気は始まっていた。
 蒼兄の肩に顔をうずめてそれに耐える。
 冷や汗が伝い始めてもまだエレベーターにすら乗っていない。
 エレベーターホールに着くと、
「葵……?」
 疑問符がついていそうな蒼兄の声に視線を移す。と、エレベーターには背の高い人が乗ってドアを開けてくれていた。
「久しぶり。ま、どうぞどうぞ」
「高崎くん、ありがとう」と言ったのは栞さん。
 私たちが乗り込むと、すぐにドアは閉じられた。
「こちらコンシェルジュの高崎葵くん。コンシェルジュの中では一番の若手よ」
 紹介をされた高崎さんは、「高崎です」と短く挨拶をした。
「御園生です。しばらくお世話になります――ってなんでそんなに他人行儀なんだよ」
「あら、ふたりは知り合いなの?」
「高校の同級生です」
 と、蒼兄が答えた。
 私は、言葉を発するとかそういう問題ではなくなっていて、幾筋もの冷や汗が額を伝っていた。
 一階に着くとすぐ、車に乗せられ横にされる。そして、額の汗を栞さんが拭いてくれた。
「栞さん、血圧が……」
 蒼兄の不安そうな声が聞こえた。でも、そちらを見る余裕はなくて、吐き気から乱れ始めた呼吸を整えるのに必死だった。
「少しこの状態で待ちましょう」
「翠葉、水……飲めるか?」
「ごめ、なさい……。身体、起こせな……」
「あ……ストローを持ってくるんだったわ」
 栞さんの声に違う場所から反応があった。
「私、取ってくるわよ。一階のカフェにあるから」
 その声は元気のいい、さっきの美波さんの声だった。
 ミュールを履いているのか、カランカラン、と去っていく音がする。
 目を開けることも出来なくて、音や声が耳に届くのみ。
 暗い世界に人の声と車のエンジンの音が聞こえる。
「栞さん、彼女寒そうなので……」
 と、先ほどエレベーターで聞いた声がする。
「高崎くん、ありがとう。助かるわ。蒼くん、これかけてあげて?」
 その声のあと、身体に何かがかけられた。
「あたたかい……」
「うん。今、葵がタオルケット持ってきてくれたんだ」
 あぁ、タオルケットか……。
 プールから上がったときにバスタオルに包まれるあの感覚に似ている。
 生あたたかいのにすごく気持ちいい。
 また、カランコロン、という音が近づいてくると、
「はい、ストロー」
「ありがとうございます。翠葉ちゃん、少し飲みましょう?」
 優しい声が顔に降ってきた。きっとすぐ近くに栞さんがいる。
 薄く目を開け、口もとに近づけられたストローを口に含んだ。
「翠葉、少しずつだけど血圧も戻ってきてる」
 その声に、あと少ししたら吐き気が引く、と強く自分に言い聞かせた。
「栞さん、よろしければ今日一、日高崎を使っていただいてかまいませんよ?」
 聞いたことのない声だった。
「そうよそうよ。このままここにいてもね? 引越し業者の時間もあるんでしょう?」
 これは美波さんの声。
「でも、いいのかしら? 手伝ってもらえたら助かるけれど、五時過ぎくらいまでは返せなくなっちゃいますよ?」
「大丈夫です。今日は美波もいますから。こちらの業務には支障ありません」
 とても誠実そうな声がした。
 この人が美波さんのご主人で、「崎本さん」なのかな?
 めぐりの悪い頭で一生懸命考える。
「じゃ、甘えちゃおうかしら……?」
「甘えて甘えて! 翠葉ちゃん。今度ゆっくり会いましょうね」
 声をかけられても私は頷くことしかできなくて、なんだかとても申し訳なかった。
「じゃ、蒼くん行きましょう。高崎くんは私の車でついてきて? ナビに『御園生』って入れると目的地が出るからはぐれても大丈夫よ」
 言うと、あちこちでドアの閉まる音がした。
「翠葉、シートベルトだけはしておこうな」
 と、蒼兄がシートベルトを締めてくれる。
「翠葉ちゃん、きっと二十分くらいで着くと思うけど、それまでがんばろうね」
 栞さんの言葉に、またひとつ頷いた。

 自宅へ着くまでに、だいぶ吐き気が楽になった。
 サイドブレーキが引かれることで自宅に着いたのだと察する。
「私、先に入って家の中に風通してきちゃうわ」
「そしたら、翠葉の部屋の窓を開けてもらってもいいですか?」
「了解」
 栞さんが車を降り、バタン、とドアが閉められた。
 駐車場に車を停めると、
「庭から部屋のベッドに運ぶから少しだけ我慢な」
 言われて横抱きにされ、ベッドまで運んでもらった。
「大丈夫か?」
「ん……。蒼兄がぎっくり腰になったら私のせいね」
「あー……でも、それ以上痩せるのはなしな?」
 私と栞さん、蒼兄の笑い声がその場に響いた。
 そこへ、お庭から男の人がこちらをうかがっていた。
「翠葉ちゃん、彼が高崎葵くんよ」
 咄嗟に身体を起こそうとしたら、蒼兄にペシッ、と額を叩かれ怒られた。
「挨拶はさせてやるから寝てろ」
 今身体を起こしたらどうなるのかなんて想像に易い。でも、「つい」ということはよくある。そして、そのたびに怒られるのだ。
「葵、悪いけどベランダから上がってもらえる?」
 その人はどうしようかな、といった感じで栞さんに視線を送る。
「高崎くん、ここには崎本さんはいないから楽にして大丈夫よ」
 その言葉を聞いて、
「お邪魔します……」
 ベッドの近くまでくると、
「高崎葵です」
 改めて自己紹介をしてくれる。その姿や表情を見て誰かに似ている気がした。
「身体起こせなくてすみません。妹の翠葉です」
 高崎さんはパーマか癖っ毛なのか、クルンとした少し長めの髪の毛を後ろできっちりとひとつに結んでいる。
 肌の色は少し黒くて――誰に似ているんだろう……。
「蒼樹、俺の顔何かついてる?」
「あっ、ごめんなさいっ……。ただ、誰かに似てると思ったんですけど、誰なのか思い出せなくて……」
 そう話すと、高崎さんはクスクスと笑いだした。
「弟、かな?」
「え……?」
「翠葉ちゃんのクラスに高崎空太っていませんか? それ、自分の弟です」
 高崎空太くん――本当だっ! そっくり……。
「弟は覚えてもらえてるみたいで良かったです」
「クラスでは斜め前の席ですから――」
 飛鳥ちゃんの前の席の男子で、海斗くんと同じテニス部の人。
 すごく穏やかな人で、最近少しずつだけどお話ができるようになった人。
「あ、れ……? 私、高崎さんにお会いしたことがあるんですか?」
「弟は」という言葉には引っかかりを覚える。
「翠葉は覚えてないかもな。葵も陸上部で一緒にインハイに行ってるんだ。だから、俺が高校のときに一度だけ会ったことがあるんだよ。でも、あのとき翠葉は大泣きしてたからなぁ……」
 あ……。
「肩車してくれたお兄さんっ!?」
「そうです。肩車のお兄さんです」
 うわあああああ……。
 肩車のお兄さんは覚えている。私が泣きやまず困っていたお母さんのところへ蒼兄ともうひとり、背の高い人が一緒に来て、「翠葉ちゃん、初めまして」と声をかけてくれたのだ。そして、
「ほら、肩車してあげるよ」
 と、肩に乗せてくれた。
 お父さんより背の高い人を見るのは初めてで、一生懸命見上げたのを覚えている。
 どんなに顔を思い出そうとしても夕陽の逆光でシルエットしか浮かばない。ただ、すごく背の高くすらっとした人だったことは鮮明に覚えている。そして、お父さんがしてくれる肩車よりも高くてびっくりして、もっと遠くを見られないかな、と遠くで陽が落ちるのを見ていた。
「顔とか名前とか、全然覚えていないんですけど、肩車のお兄さんは覚えています。……やだな、なんだか恥ずかしい――」
「球技大会の日に空太からメールが届きまして、珍しいなと思ったら、『どうだ! かわいいだろっ!』って翠葉ちゃんの写真が添付されてました。『彼女か?』って訊いたら『違う』って。『一緒のクラスになった外部生』って返事がきました」
「あら、かわいいわね? お姉さんの里実さんはマンションで知り合いだけど、弟がいるなんて初耳」
 栞さんが好奇心たっぷりに話す。
 話の成り行きを聞いていた蒼兄が、
「じゃ、その時点で翠葉が藤宮に入ったの知ってたのか?」
「いや、先日名前を聞いてびっくりしたんだ」
「だったらその時点で俺に連絡くれればいいものを……。おまえ、消息不明期間長すぎて水没した俺の携帯からメモリ消えたぞ?」
「……蒼樹ってそんなにドジだったか?」
 言いながら、スーツの内ポケットからカードケースを取り出し、
「ほれ、名刺」
 蒼兄から私へ視線を移すと、
「空太は迷惑かけていませんか?」
「迷惑どころか、私が面倒見てもらっているくらいです」
「そうですか」
 と、にこやかに答える。
「葵さぁ……口調が――」
「まぁ、気にするな。仕事なんだよ、仕事」
 高崎さんは蒼兄と話すときだけ口調が砕けたものになる。
「崎本さんには黙っててあげるわよ?」
 栞さんが言うと、
「んー……職場でボロを出すのが怖いんです。自分まだ新人なんで……」
 崎本さんとはそんなに怖い人なのだろうか。
 さっき声を聞いた限りだと、とても誠実そうな人という印象しか受けなかったけれども……。
 ……高崎さんは空気が高崎くんと同じで柔らかい。
 なんだろう。お日様みたいなあたたかさ。ほかにたとえるなら柔軟剤とか……。
 とにかく柔らかい人。
 きっと、お姉さんのさとみさんという方も同じ空気を纏っているのだろう。

「さ、荷物まとめちゃいましょう! 高崎くんは蒼くんを手伝ってね」
 栞さんの言葉に、蒼兄がものすごく嫌そうな顔をした。
 露骨に嫌な顔をするなんて珍しい……。
「頼む……葵、おまえだけは部屋に入ってくれるな」
「蒼樹、相変らずひどいな。俺だって少しは進歩するんだ。最近じゃ十回中五回くらいには減ったんだ。その成果を見たいと思わないのか?」
「思わない。十回中五回って、つまりは二分の一の確率じゃんか」
「……なんの話?」
 私と栞さんが顔を見合わせていると、
「葵が触ると機械が壊れるっていうジンクスがある。実際に何度やられたことか……」
 と、両手を使って数え出す。
「まぁ、それはすごい統計の持ち主ね? 高崎くん、とりあえず玄関と表を掃いてきてもらえるかしら?」
 栞さんの笑顔と同時に屋外退去を命じられた高崎さんは、渋々外へ出ていった。
 窓の外で靴を履くとこちらを振り返り、
「外の植物に水をあげてもいいですか?」
「はい、お願いします……」
 高崎さんは少し嬉しそうに笑ってお庭へ出た、
「彼ね、グリーンコーディネーターなのよ。だから、植物が気になってしょうがないのね。さ、持っていきたいものを片っ端から言ってちょうだい。全部詰めるから」
 腕まくりをした栞さんはとても頼もしかった。



Update:2009/08/24  改稿:2017/06/16



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