「このあとは学校へ戻られるのですか?」
顔を上げると、末席にいた蔵元が俺の前に立っていた。
「いや、これからマンションに戻る」
「仕事、なさいますよね?」
「小姑だな、ちゃんとするよ。ただ、この時間は翠葉ちゃんがひとりなんだ」
「それでしたら仕方ありませんね。翠葉お嬢様のご容態は……?」
「正直、あまり良くはない。今は身体を起こすこともままならない」
「それは心配ですね……。仕事は少し唯に回しますが、秋斗様でないとできないものもございます」
「わかってる。いつも助かってるよ」
その一言が会話の終わりを示していることに気づき、蔵元が一歩下がった。
席を立ち出口に向かうと、思わぬ人物に待ち伏せされていた。
「じーさん、何してるんですか……」
「会社では会長と呼べと言うておろうが……」
いつものように和服の出で立ちで待ち構えていたのは、紛れもなく藤宮グループの会長だった。
「会長、ご用件は?」
「待てども待てども秋斗が水筒を持って来ぬからじゃろう」
しまった……。
赤い水筒はまだ自宅にある。
「すみません、今週中には持っていきますから」
「そのときは彼女も一緒じゃろうな?」
「っ!?」
なんだよ、水筒がついでで本命は彼女か……。
「それは無理そうです」
「そんな隠さんでもよかろう?」
「いや、隠すというわけではなく――彼女、今具合が悪くて学校も休んでいる状態なので」
「……風邪かの?」
「いえ、持病がある子なので」
「……病院は?」
「うちの病院で湊ちゃんと紫さんが診ています」
「なら安心かのぉ……」
じーさんは何かを考えているような顔をする。
「どうして彼女にこだわるんです?」
「秋斗が藤山に連れてきたというだけでも十分な理由になると思うがの。……それに、わしの陶芸ファンともなれば会いたいに決まっておるじゃろうが」
なるほど……。
「彼女も会いたがっていたので、元気になったら連れていきます」
「それまでは水筒を持ってくるでないぞ? 呼びつける口実がなくなるわ」
じーさんは供の人間を伴って廊下を去っていった。
「秋斗様、会長は何をしにいらしたのでしょうか……」
恐る恐る訊いてくる蔵元に、
「あれは単に俺をからかいに来ただけだから気にしなくていい」
じーさんは時々こうやって現れる。
そのたびに周りの社員は肝を冷やすのだ。
社員がじーさんを見かけると、一斉に社内メールが飛び交う始末。
メールの件名には英数字の「1」のみが記され、本文未記入のメールが社員に一斉に送られるのだから、どれだけ慌てているのかがよくわかる。
そのメールは社長や重役にも届くという。因みに、静さんが来たときには「2」というメールが飛び交うのだから、うちの会社は意外とお茶目な会社だと思う。
「蔵元悪い。あとは頼む」
言い残してすぐに地下駐車場へ下りた。
「これからアンダンテに寄ってマンションに戻ると早くても一時半……」
栞ちゃんからのメールには、お昼に起こしても起きなかったからそのまま寝かせてある旨が書かれていた。
行ったらまずは何かを食べさせないといけないだろう。
栞ちゃんがゼリーを作っているようだけど、ほかにも何かがあって悪くないはず。
翠葉ちゃんにメールを送ってみたけれど返信はなかった。もしかしたら気づかずに寝ているのかもしれない。
平日の日中ということもあり、市外へ抜ける道は混んでおらず、一時半前にはマンションに着いた。
ゲストルームに入ると彼女が使っている部屋のドアが開いていた。
今の季節、エアコンを入れることが多いため、彼女がこの部屋にいるときはドアが閉まっていることが多いはずなんだだが……。
不思議に思いながら彼女の部屋を覗き込むと、翠葉ちゃんの姿はなかった。
急いでリビングへと向かったがどこにも彼女の姿はない。
ピアノの蓋も閉じられている。
念のために蒼樹が使っている部屋も空いている部屋も見たがいなかった。
トイレにも洗面所にもキッチンにもいない。
「……どこにもいない?」
いや、そんなわけはない。玄関に彼女の靴はあったのだから。
もう一度リビングへ戻り、一ヶ所一ヶ所見て回ると、ソファの後ろにいる彼女を見つけた。
「翠葉ちゃんっ!?」
まさか倒れていたのかっ!?
彼女は一度目を開け、すぐに閉じる。
彼女の横に膝を付いて屈むと、彼女はとてもゆっくり目を開けた。
「翠葉ちゃん……?」
焦点が合うと、彼女は口を半開きで目を瞠る。
「……あの……あの……どうして白衣じゃないんでしょうか」
白衣……?
「え? あ、服装?」
言われてみれば、今日はスーツを着ていた。
「今日は朝から重役との会議でね、昨夜蔵元にうるさくスーツ出勤を言い渡されてたんだ。着替えてきても良かったんだけど、思っていたよりも遅くなっちゃったからそのまま来た」
言い終わると同時くらい、彼女の顔が真っ赤になった。しかも、その顔を両手で覆う。
「……翠葉ちゃん、そんなに見たくないでしょうか――」
「……見たくないです。白衣の秋斗さんを希望しますっ」
くっ……本当にかわいい反応をする。
失敗したな。携帯を心拍と連動させてバイブモードに替えておくんだった。
もう少しそんな彼女を見ていたい気もしたけれど、エアコンが入っている部屋だ。
日向とはいえ、フローリングの上では冷えるだろう。
「お姫様が床に転がってるのはいかがなものかと思うんだよね。せめてソファの上にしてもらえない?」
抱き上げると、「白衣がいいです、って言ったのに」と抗議されてしまった。
「じゃぁ、どうしてそんなに真っ赤なの?」
「……秋斗さん」
「なんでしょう?」
「私、今、逃げ場がないので――お願いだからいじめないでくださいっ」
彼女をソファに寝かせ、
「そんなに困る?」
訊きながら、自分の格好を改めて見直す。
彼女に視線を戻すも目すら合わせてもらえない。
「しょうがないな……。確かに上着は着てると暑いし……」
ジャケットを脱ぎソファの背にかける。
「これならいい?」
言いながらネクタイを緩め、少し普通に話がしたくて彼女の側に腰を下ろす。
「部屋にいなかったからびっくりした。リビングを見渡してもいないし」
「……空が、見たくて……」
彼女が窓の方に目を向けた。
「空?」
窓を振り返り、なるほど、と思う。
このソファに横になると背もたれで空は半分ほど見えなくなる。だから、向かいのソファの裏側にいたのか。
「あっちのお部屋じゃ曇りガラスで見えなかったから……」
彼女は控え目に教えてくれる。
「そっか。幸倉では翠葉ちゃんの部屋は南向きだもんね」
彼女の家の彼女の部屋は彼女のためだけに作られたこともあり、いろんな意味で居心地が良かったのだろう。
「蒼樹が帰ってきたらここのソファの位置を変えてあげるよ。そしたら床に転がらなくてもいいでしょう?」
「……でも、ここのソファ重いんじゃ……」
確かにひとりでは無理だろう。
コンシェルジュを呼べばすぐにでも移動させることはできる。が、そこまですると彼女が気に病みそうだから……。
「うん、だから蒼樹が帰ってきたらね」
言うと、彼女は少しだけ嬉しそうな顔をした。
「さ、お昼に何か食べなくちゃね。栞ちゃんからメールが届いて、グレープフルーツのゼリーを食べさせてって言われたけれど、食べられそう?」
「はい」
「じゃ、ちょっと待っててね」
Yシャツの袖をまくりながらキッチンへ行く。と、すかさず携帯のモードを替えた。
すごい速い鼓動に思わず嬉しくなる。
冷蔵庫からデザートグラスとお茶のポットを取り出しソファの背面から近寄ると、彼女は深呼吸を繰り返していた。
「なんで深呼吸?」
声をかけると、「きゃぁっ」と飛び上がりそうな声を発する。
そんな彼女がかわいくて仕方がない。
「なかなか降参しないよね?」
「……降参、ですか?」
「そんなに俺のことを意識しているのに、どうして流されてくれないかな?」
「っ……」
「気持ちに流されてしまえば、そんなに困った顔ばかりしなくて済むのに」
上から顔を覗き込めばすぐに赤くなる。
二秒ごとくらいに表情が歪んでいって、終いには眉の形が変わってしまった。
「くっ、眉がハの字型」
からかいすぎたかな。今にも泣きそうな顔をしている。でも――
「……泣いちゃうくらいならさ、俺のところにくればいいのに」
思わず本音がするりと出た。
「……まだ泣いてないですっ」
「でも、目からは零れそうだよ」
「っそれは……」
この辺でやめておこうか。
「……困らせたいわけじゃないんだけどな。身体、起こせる? 無理そうならそのまま横になってて」
きっと無理だろう。それでも彼女は細い腕を支えにして少しずつ身体を起こそうとする。
ソファと彼女の角度が三十度くらいになったところで真っ青になった。
「無理はしないほうがいいよ」
身体を支えていた腕を取り横にさせると、窒息しそうなほどソファに顔をうずめた。
髪の毛で顔を隠すとき、こんなときはたいてい泣いている。
「そんなふうに泣かなくていいから」
俺の腕の中で泣いてくれたらどれだけ嬉しいか……。
そんな願いはなかなか叶わない。
ここにいたのが俺ではなく蒼樹ならそうしたのかもしれないと思えば、部下に欲しいほど優秀な後輩だろうと少し憎らしく思えるわけで……。
ハンカチで涙を拭いてあげるも、それはなかなか止まらなかった。
デザートグラスと一緒に持ってきたハーブティーを彼女の前に差出し、
「ほら、泣いたらその分水分摂らなくちゃ」
彼女は素直にストローに口をつけ、少しずつ飲んでくれた。
「少し待ってて」
席を立ち、洗面所でタオルを濡らして戻ってくる。
タオルを彼女に差し出し、
「顔を拭いたらリセットできそうでしょ?」
困った顔も泣き顔も、全部かわいいけど、本当は笑った顔が見たいんだ。なのに、彼女は困った顔のまま。
「あれ? どうしてまた困った顔?」
彼女はタオルに顔をうずめたまま答えた。くぐもった声で、
「秋斗さんが優しいから困る」
「俺が優しいと困る?」
「嬉しいけど困ります」
彼女が持っているタオルを奪い取り、
「じゃ、もう少し困ってもらおうかな」
意識して意地悪な笑みを浮かべてみる。
俺の手にはゼリーが入ったデザートグラス。
「これ、食べてね。食べてもらわないことには俺が栞ちゃんに怒られるんだ」
昨日もスープを飲ませたかった。けど、あの場は若槻に譲るしかなかったからね。
念願叶ったり……と彼女の顔を見ればがっかりする。
「翠葉さん、眉間にしわが寄ってますが……」
俺はあと何度こんな彼女を見たらショックを受けなくなるんだろう。
「ショックだなぁ……。昨日は若槻にスープ飲ませてもらったのに俺はだめ?」
「だめと言うか……恥ずかしいから嫌なだけですっ」
今はその答えで十分。願わくば、目くらいは合わせてもらいたいところだけど。
「でも、苦行だと思ってがんばってください」
口元にスプーンを運ぶと、彼女は条件反射のように口を開いた。
「食べられそう?」
彼女は赤い顔をしてコクリと頷いた。
「良かった。今日はアンダンテでプリンを買ってきたから、それもあとで食べようね」
少しずつ少しずつ彼女の口へゼリーを運ぶ。
たったこれだけの分量――手におさまる大きさのデザートグラスを空にするのに二十分ほどはかかっただろう。
「はい、完食。薬を持ってくるね」
立ち上がると、クン、と引っ張られる感触があった。
視線を落とすと、彼女がスラックスをつまんでいた。
「どうかした?」
「あの……食べさせてくれてありがとうございます」
きちんと俺の目を見て言ってくれた。
そんなことがひどく嬉しいと思う。
「……どういたしまして。昨日、若槻にこの役取られたからね。今日は翠葉ちゃんを独り占めさせてもらうよ」
そう言うと、すぐに視線を逸らされてしまう。
彼女の頭を軽くポンポンと叩き、
「どんな君でも好きだって言ったでしょ?」
本当は抱きしめたいところだけど、彼女はそれどころじゃないだろうから、妥協してサラサラの髪に触れたんだ。
ずっと速いままの鼓動。
大丈夫なのかな、とは思うものの、やっぱり自分の行動や言葉に一挙一動してくれるのが嬉しくて、つい意地悪をしたくなる。
翠葉ちゃん、君は俺を好きだよね?
だからそんなにも動揺したり赤面したり、目を合わせられなかったりするんだよね?
そろそろ降参してくれないかな。
いつまでも待っているつもりだけど、どうしてか君はあの日以来ずっとつらそうなんだ。
顔を合わせれば困った顔しかしなくなった。
それを見ていて俺がつらい、というよりは、君の負担になっている気がするんだよね。
気持ちのままに俺のところへ来てくれたらそんな顔はしなくなるんじゃないか――と、つい驕った考えをしてしまうくらいに、君は俺を意識してくれてると思うんだけど……。
それは、俺の勘違い――?
Update:2009/09/09 改稿:2017/06/17
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