目の前で悶えているのは海斗。
「往生際が悪い。次のプリント、全問正解じゃなかったら夕飯はないと思え」
海斗はぐちぐち言っていた口を貝のように閉じ、いそいそと問題を解き始めた。
時計を見れば一時を回ったところ。
翠は起きただろうか……。
携帯を手に取りコールすると、
『もしもし……?』
少し頼りない声が聞こえてくる。
「具合は? っていうか、昼は食べられたのか?」
『はい、今食べ終わりました。痛みは少しだけ……』
「今からマッサージしに下りるから」
『でもっ、先輩勉強はっ!?』
「一時間くらい問題ない。じゃ」
携帯を切ると、
「翠葉んとこ?」
「そう。俺が戻ってくるまでに、それ、完璧にしておくように」
「鬼っ」
「いつも三十分のところを一時間やるんだ。優しいくらいだろ?」
「…………」
「夕飯がかかってるんだからできないわけがないよな?」
「……でき得る限りの努力してみようと思います」
海斗は口をへの字にして問題に戻った。
海斗はなんだかんだ言いつつも性根は腐っていないし基本は素直だから教えやすい。間違える場所もわかりやすいし、対策も練りやすい。
根っからのバカを相手にしたことはないが、素地がしっかりしていない人間を教えるのは骨が折れると思う。そんなことを考えれば、俺は絶対的に教師や塾の講師には向いていないと思った。
まず、忍耐力が持つ気がしない。
解答用紙を手に持ち姉さんの家を出ると、外は変わらず雨が降り続いていた。
雨が降り出してどのくらい経っただろうか。
翠の痛みは雨のせいか?
ふと雨空を見上げ、疎ましく思う。
ゲストルームに着くと、翠はリビングテーブルの前で薬と睨めっこをしていた。その様子を兄さんがクスクスと笑いながら見ている。
「とっとと薬飲んで横になれ」
翠は仕方ない、といったふうに薬を飲んだ。そして、俺の手に目をやり、
「……それ、なんですか?」
「今、海斗に解かせてる問題の答え」
「あいつ、今回の数学はやたらめったら出来が悪い」
――翠の頭の中身と海斗の脳みそをミキシングして、それぞれの脳へ戻したい。
「翠と海斗の頭を足して二で割れたらちょうどいいのにな」
割と真面目に口にすれば、翠が「それは無理かと」と苦笑を見せた。
「因みに、翠のテストの出来は?」
「訊かないでください……」
翠は片目をつぶり、右目をわずかに開けてこちらをうかがう。
「二十位切ったら覚えてろよ?」
冷笑を浮かべて見せれば、さっきの海斗と同じように口を噤んだ。
両耳塞いで目を閉じて、口まで噤んで――翠はいつから日光の三猿になったのだろうか。
小動物から猿っていうのは進化したことになるのか? いや、なんていうか……猿は知能は高そうだがかわいいとは言いがたい。ウサギやリスといった小動物のほうが翠らしい。俺的にはそっち希望。
小動物といえば、犬もそれに入るのだろうか。考えてみると、翠は実家のチワワ、ハナと似ている。あの、黒目がちな目がとくに。
ハナは三年前に母さんの希望で飼い始めた白いチワワ。小型犬の性なのか、臆病者でよく吼える。家族以外の人間には懐かず、やっと隣の家の紅子さんや斎さん、秋兄や海斗に懐いた。翠に会わせたらどんな反応をするのかが少し楽しみだ。
場所を翠の部屋へ移し、翠はベッドで眠そうに目を瞑ったり開けたり繰り返していた。
「寝てもかまわない」
今日、どのくらいの時間痛みが続いたのかは知らないけれど、発作が起きたことは聞いていた。激痛発作が起きるとものすごくエネルギーを使うということも聞いている。
きっと身体が疲れているのだろう。そこへ、副交感神経を優位にする薬を飲んだのだ。眠くなって当たり前……。
腰のマッサージが終わり、手を背中へ移動させたとき――
「先輩っっっ」
翠の身体が反射的に逃げた。
「悪い……痛かった?」
「ごめんなさい……そこは痛いから今日は嫌です」
「わかった。……首元に触れる」
少し焦った。
そんな自分を落ち着かせるため、深く息を吸い込んでから擦過傷が治ったばかりの首へと視線を移す。
傷は治っているし痕も残っていない。けれど、どうしてか触れることに慎重になる部分。だから、確認をするように軽く手を乗せた。
「首は大丈夫みたい……」
「少しずつ力を入れるから」
首の靭帯に親指を沿わせる。人間の身体の中で、もっとも医者泣かせと呼ばれる靭帯――頚椎後縦靭帯。
翠の場合はこのあたりの筋肉が硬直して頭痛につながっているのだろう。
首から肩へと手を移動させると、
「い、やっ――」
搾り出すような声で急に身体全体が硬直し始める。俺は咄嗟に翠の身体から手を離した。
「……翠?」
痛みか……? いや、さっきの反応の仕方とは違う。
翠は身体を震わせ、呼吸が一気に荒くなった。
「翠っ!?」
「ごめ、なさい……」
「痛み?」
「違っ――」
やっぱり……。
切れ切れに言われ、とりあえずは呼吸のコントロールを図ることにした。
「……翠、呼吸を落ち着けよう」
うつ伏せの状態から蹲るように横向きに丸くなった翠は、自分の左手で右肩を押さえていた。白い手がうっ血するほどに。
いつかの光景が脳裏によみがえる。学校のテラスで胸元を押さえて痛みに耐えていたあの日を。
しかし、今は痛みではなく恐怖心――たぶん、男性恐怖症的なもの。
「兄さんか若槻さん呼ぼうか?」
俺がだめならそのふたりしかいない。姉さんは学校、栞さんは実家――残るは美波さんか。
頭の中で算段を立てていると、翠が首を横に振った。つまり、人を呼ぶことはない、ということだろう。
それにしても……どうしたらいい? こういうとき、俺はどうしてきた?
――確認、か。
俺は自分の手を翠の前に差し出した。
「……手は?」
翠は涙の溜まった目で俺の手をじっと見て、すぐに右手を重ねた。
「……わかった」
手を重ねてくれた事実より、すぐに動作に移ってくれたこと。そのことに安堵した。
――警戒されていない。
俺が秋兄よりも優位なことはただひとつ。翠に警戒されていないこと、それだけ。
確認が終わったあとでも翠は手を離そうとはしなかった。
俺は手を出しただけで、そこに重ねて手を握っているのは翠自身。
呼吸がそれ以上ひどくなることはなく、薬のせいか、少しずつ少しずつ、翠の瞼は閉じていった。
俺が翠にしてやれることには何があるだろう。
「避難所、かな……」
別にそれでもかまわない。翠が自分から俺に寄ってきてくれるなら。
避難所でもなんでもやってやる。時には暗示だってかけてやる。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十――」
翠、自分をコントロールできなくなったら数を数えろ。一から十まで一定のリズムで、落ち着くまでずっと。人間、何かひとつのことに集中しようとすると、落ち着きを取り戻す。
深く息を吸って吐き出して、十秒数えたら視界が変わる――翠はそんな術を身に付けたほうがいい。
「……長い睫」
閉じられた目を縁取る睫が頬に影を落とす。
……その睫に化粧なんて施すな。ただでさえ大きな目を、それ以上大きく見せてどうするんだ。
全校生徒を巻き込んでの誕生会――あのとき、きれいなんて言えなかった。翠を見た瞬間、ほかの人間に見られる前に隠したいと思った。
知らない人間の前では伏し目がちな翠の目が、化粧によりパッチリとさせられていて、まるで人形のような目をしていた。しかも、頬は紅潮してるかのように化粧を施され、いつもは血色の悪い唇まで赤く熟れた果実のようで……。
こんなに飾り立てたら男がどんな目で翠を見るか、想像に易いなんてものではない。
あのときばかりは嵐を軽く恨んだ。なのに、翠は自信なさそうな顔をしているし――
「だいたいにして、なんで姫になんて選ばれるんだよ……」
球技大会の日、翠は競技には参加せずずっと応援席にいたはずなのに。うちの生徒は抜け目がない、と真面目に思った。
――俺でも気づいたのだろうか。
もし、入学式の日に翠と会わなかったとして、ただ海斗と同じクラスというだけだったならば――気づいたと思いたい。
こんなに血色が悪くて具合の悪そうなやつはそうそういない。こんなのが廊下に転がっていたら間違いなく拾う。
そんなことがきっかけで出逢っていたかもしれない。でも、そのあとは今とさして変わらないのだろう。人間として興味を持ち、惹かれる……。どうしてか、そのことには疑いを持たない。
翠は――?
「……あの日図書棟で会わなかったら、翠の視界に俺はいつ入ることができた?」
問いかけたところで翠からの返事は得られない。
翠の穏やかな寝息を確認してから手を放し、足元に置かれていたタオルケットを胸元までかけて部屋を出た。
Update:2010/01/30 改稿:2017/06/26
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