彼女が喜びそうな料理が目の前に並ぶ。俺はそれらを美味しいと思うでもなく、ただ口へ運ぶ。
ここに彼女がいたら、きっとそれだけでどんな食べ物も美味しく感じるのだろう。
そんなことを考えていると、携帯ではなくルームコールが鳴った。
「はい」
『澤村です。お食事中申し訳ございません。たった今、楓様が秋斗様のお部屋へ向かわれましたので、ご連絡を入れさせていただきました』
「ありがとうございます」
受話器を置き首を捻る。
「楓、なんの用だろ……?」
時刻はまだ七時を回ったところだし、薬だってまだ数日分はある。楓が来る必要などどこにもなさそうだけど……。
数分後にドアをノックする音が聞こえ、俺はぼんやりとした頭でドアを開けた。
「久しぶり……ってわけでもないよな。ま、どうぞ」
部屋へ招き入れると、楓はテーブルを見て俺に視線を戻した。
「先に食事して」
改めてテーブルに着いてみたものの、非常に落ち着かない。
「今日、休み?」
まるで日本語を忘れたみたいに片言で話す。と、
「出勤前」
同じように片言が返ってきた。
楓が電気ポット周辺を見ていることに気づき、
「コーヒーならないけど?」
親切に声をかけたつもりだったのに、「当たり前」の一言が返される。
「ハーブティーならそこにあるけど」
楓はそれを視界に認めると、ひとつのティーパックを手に取った。
本当に何しに来たんだか……。
「体調は?」
こちらに背を向けたまま訊かれ、
「まあまあかな」
相変わらず片言の会話が続く。
「……翠葉ちゃんが秋斗のことを気にしてる」
箸で掴んだ煮豆が落ちた。コロコロと膳の中を転がり、縁まで行ったらポテ、と止まる。
「……今、なんか言った?」
「……正確には秋斗と栞ちゃんがいないことを気にしてる」
振り返った楓の顔には、「不本意」と大きな字で書かれていた。
「あのさ……それ、どう解釈したらいいの?」
「そろそろ戻り時ってこと」
「……楓と湊ちゃんのお許しが出たってこと?」
あぁ、なんだかやっとまともな会話になってきた。
「許しも何も……翠葉ちゃんが気にしてるんだから仕方ないだろ? もっとも――」
「わかってる……。同じ失敗はしないよ」
皆まで言われなくとも……。
入院している間、翠葉ちゃんのことしか考えていなかった。もう、自分がどう行動すべきなのかなんて答えは出ている。何が正解なのかはわかってるんだ。
「ひとつ、秋斗にも知っていてほしいことがある」
「何?」
楓は言いづらそうに口を開いた。
「翠葉ちゃん、記憶障害が生じることがあるんだ」
は……?
「何、それ……」
やばい、また片言に戻ってしまいそうだ。
「ストレスの窮地に追いやられると、一定期間の記憶が抜け落ちる。雅と会ったあとの彼女の様子は秋斗も見てるんだろ?」
「あ、あぁ……」
ハープを弾いたまま意識が飛んでいたときのことなら記憶に新しい。
「ああいう状態のこと、解離性障害っていうんだ。秋斗と栞ちゃんがいないだけで、その症状が少し出ている気がする」
……栞ちゃんは毎年のこととは言え、時期的には少し早い気がする。
でも、そうか……だから楓が来たのか。
「日曜に戻る。……彼女に会いに行く。でも、楓がそんな顔して心配するようなことはもうないから」
「どう答えを出した?」
「……付き合うっていうのはなしだ。しばらくは見守るよ。それが彼女にはいいんだと思う。俺の中に流れている時間と、彼女が感じている時間の流れはきっと違う。彼女はものすごくゆっくりとした時の中を生きている。それをかき回すようなことをすると、彼女は恐怖感を抱くんだと思う……」
「……ふーん」
「……何、その意味深な『ふーん』」
「いや、秋斗がこうも考えを変えるとはね」
嫌みも忘れずに口にするけど、その口元がわずかに緩んだ。
「司がさ、栞さんはともかく、秋斗だけでもどうにかならないかって言い出したんだ」
「は……? 楓、今日、変だぞ? 明日、雹とか降りそうだからそろそろ冗談はやめてほしいんだけど……」
箸を置いて、思わずテーブルから遠のく。
「いや、真面目な話……。翠葉ちゃんの様子がおかしくなって、そのあと、司が言いだしたんだよ」
「なんだって敵に塩を送るような真似……」
「……秋斗も本気みたいだけど、司も相当本気みたいだ。さて、この従兄弟対決どうなることやら……。俺は高みの見物を決め込むわけだけど、これでほかの男にでも掻っ攫われてみろよ。大笑いしてやる」
俺が彼女の隣に並ばなかったら、そのときは司が並んでいるとばかり思っていた。それ以外の人間が彼女の隣に並ぶだなんて少しも考えなかった。
「この勝敗っていつわかるんだろうな? なんか、全部翠葉ちゃんにかかってる気がする」
すぐに知りたくて、でも、ずっと勝敗がわからなければいいとも思う。
なんだこれ……俺、弱気なのかな。
あとでウォーカーズのクッキーを買ってこよう。それと、蒼樹には手紙、かな。 これはメールや電話ではなく、手紙、という気分。簡単に頼むのではなく、きちんと頼みたいから――直筆の手紙。
それらを詰めて、若槻宛てで送ろう。
若槻には何もないから、せめて開ける瞬間を楽しめるようにクラッカーの仕掛け付きで――
中に入れたものが若槻に末梢されませんように。
Update:2010/02/09 改稿:2017/06/27
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