「……
りっちゃんが来たってことは碧が倒れたな。
「すぐに行く。どこかな?」
「森ですっ」
「……は?」
「少し風にあたってくるって出ていったきり戻らないから、迎えにいってみたら倒れてました」
早足で歩きながら教えてくれる。
建築現場からさほど離れてはいない森の中で碧は倒れていた。
周りには数人の部下がいる。
「みんな悪い。俺が病院に連れて行くから現場に戻ってもらえる?」
みんなは碧を気にしつつも持ち場へと戻っていった。残ったのは俺とりっちゃん。
「りっちゃん、現場の指揮を任せられる?」
「大丈夫です」
「それと、碧の仕事がどこまで終わってるのかわかるかな?」
「ざっと二週間分くらいだと……」
「そう……」
ま、夜通し仕事してたしなぁ……。そんなもんだろう。
「そう、って……零樹さんっ!?」
「あぁ、ごめんね」
苦笑いでごまかせるものでもないか。
碧にジャケットをかけ、血の気の失せた頬に触れてから抱き上げる。
「ここのところ食べても戻してたし、夜もほとんど寝ずに仕事してたんだよね」
「っ……!? じゃ、痩せて見えたのって気のせいじゃなかった――!?」
りっちゃんは心配そうに碧の顔を覗き込んだ。
「あぁ、翠葉の調子が良くなくてね。連日病院に運び込まれてる状態なんだ」
「翠葉ちゃんがっ!? でも、碧さん、そんな話全然しなかったし現場ではいつもと変わらずで……」
「んー……そういう人だよね」
そうとしか答えられない。
仕事は仕事――碧はプライドを持って仕事をしているし、責任感だって十二分に持ち合わせている。それでも、母親、なんだよなぁ……。
「少し休ませたら一度幸倉に戻そうと思う。その間、りっちゃんに碧の代わり頼めるかな? たぶん、そうできるくらいには手抜かりなく仕事を済ませてるあるはずなんだ」
「……そんなの、もっと早くに言ってもらえれば」
「碧もさ、色々考えるところがあったんだと思う」
「……零樹さんはやけに冷静すぎます」
むぅ、っとした顔で睨まれた。
年にそぐわない仕草でも、りっちゃんがやるとかわいく見える。
この子は現場のムードメーカー的存在で、若いのに周りからの信頼も厚い。それだけいい仕事、引けを取らない仕事をしてきたのだろう。
で、俺はというと、冷静っちゃ冷静かなぁ……。
「なんていうかさ、慌てても仕方がないことってあるじゃん? でもって、俺は一家の大黒柱なわけだよ。揺るがないでいなくちゃいけない部分はそうでなくちゃだめだよね」
「……もうっ、わかりましたから、早く碧さんを病院に連れていってあげてくださいっ」
「うん。本当に迷惑かけてごめんね」
「私なんて、こんなのの百倍くらい碧さんの足引っ張ってきましたから全然大丈夫ですっ!」
りっちゃんは、がんばると意気込んで建物へ戻っていった。
「ったく……うちの女どもは手がかかる」
どうしてこんなになるまで働いて気を紛らわせようとするかね……。それとも、こうしていないと精神バランスを保てなかったんだろうか。どっちがいいのかわからないから見て見ぬ振りをしていたが……。
碧を抱えたまま駐車場へ行き、山を下りたところにある病院へ連れていった。
「過労ですなぁ……」
年老いた先生に言われ、碧は今、点滴を受けている。
「二時間ほどかかりますがどうします? 付き添われてもいいですし、一度帰られてもいいですよ?」
「じゃ、またあとでうかがいます」
碧の携帯だけ枕元に置いて病院を出てきた。
帰りの車の中で思い出す。
「今日って静が視察に来る日だっけか……」
またいいタイミングで来るっていうか、やなタイミングで来るっていうか……。
「ま、なるようにしかならんな」
ずいぶんと前にタバコはやめた。が、こんなとき、不意に吸いたくなる。
「吸わないけどさ……」
現場に戻ると周防が足早に寄ってくる。
「碧さん、大丈夫なんですか?」
「あぁ……過労だ過労」
周防には娘の状態を一通り話してあった。何かあったとき、現場を任せられるのは周防しかいないから。
「まぁね、心労を隠すためにというか、紛らわすために仕事に走ってたわけですよ。で、夜通し仕事して、日中は現場をきりもり。そんなこと続けてりゃ倒れるでしょ」
「……はぁ。全部お見通しだったんですか?」
「あ……今、思い切り呆れたでしょ?」
「……多少ですけど」
と笑う。
「でもさ、確かに碧にしかできない仕事っていうのはあるし、娘の側についていたからといって、娘が良くなるわけでも、何か良い方向に向かうでもないんだよね」
「……難しい病気なんですね」
「うん、ま、そんなとこ。さ、今日はオーナーが来るからさ、足元少しきれいにしてから昼飯にしよう」
俺は休憩室と称した場所で碧のノートパソコンを立ち上げた。進行予定表と碧が作ったファイルを照らし合わせてみて少々驚く。
「りっちゃーん……二週間どころか一ヶ月はいけそうよ」
奥さんの仕事ぶりに少々呆れつつ、はたまた感心しつつ、カレンダーに目を向ける。
もう、梅雨はとっくに明けてるんだよな……。
おにぎりを頬張りつつ現場を出ようとすると、周防に声をかけられた。
「どちらに?」
「日参」
「あぁ、いってらっしゃい。でも、これは持ってってくださいね」
と渡されたのは、スポーツドリンク。
「今日は結構暑くなるみたいなので、念のために」
つくづく気のつく男である。
「ありがとさん」
山の中へと続く小道を歩く。
たぶん、碧もここへ行こうと思ってたんだろうな。
一緒に来たことはない。でも、誰かがきれいにしているのには気づいていた。
山の中にはかなり古びた趣のある祠があった。
ここに毎日来ては翠葉のことを祈る。それが俺の習慣になっていた。
周防に渡されたスポーツドリンクを飲みつつ、娘のバイタルに目をやる。
「いったいどうしてあげたらいいものか……」
蒼樹だってそろそろ限界なはずだ。
ザッザッザッザッ――こちらに人が向かってくる足音。
この歩き方は静だよなぁ……。足音まで偉そうな感じ。
そんなことを考えては笑みが漏れる。
「おい、碧が倒れたと聞いた」
俺の背後に男前が仁王立ち。
「おぉ、来たか」
「来たか、じゃないっ。碧は!?」
「山を下りたところの病院で点滴打ってるぞー。あと一時間ちょっとしたら迎えにいくさ」
「……おまえはこんなところで何してる?」
何、ねぇ……。
「神頼み?」
「……おい、いい加減まともに話さないと怒るぞ」
……っていうか、すでに怒ってるじゃん。
「真面目も真面目、大真面目ですよー。娘のことも碧のことも、神頼み。それ以外に何がある?」
ゆっくりと下から見上げると、静が俺の隣に座った。
「……悪い」
「いや、何も悪くはないだろう?」
「おまえは相変わらずマイペースだな」
「俺からマイペース取ったら何が残るんだよ」
「…………」
「黙るな黙るな……。思い切り肯定されてる気分になるだろーが」
静とこんなふうに話をするのはどのくらい久しぶりだろうか。
「……翠葉ちゃんのことを訊いてもいいか?」
「どうぞ」
「どこが悪いんだ?」
「……どこも?」
「……零樹、いい加減にしろ」
声が低くて真面目に怖い。けど、本当になんて答えたらいいものか……。
「そうとしか答えられないんだ。静は翠葉が発作を起こしているところを見たことがあるか?」
「いや、顔をしかめるくらいに痛がっているところは見たことがあるが……。それでも、まだ自分で歩けるからって抱っこはされてくれなかったな。あれは碧譲りか?」
「いんや、ちょっと違うな」
静の不思議そうな顔がまた新鮮に思えた。
「碧の強がりとはちょっと違う。翠葉のは……数少ないできることを取り上げられるのが怖いだけだ。……あの子は、普段具合が悪いのを悟られないようにする癖がある。激痛発作のときでさえ、涙を流して必死に耐えるだけなんだ。……なんでだと思う?」
「病院が嫌いだから? 注射が嫌だとか……」
「んー……病院は嫌いだろうな。注射は微妙。局部麻酔は嫌いだと思うけど、ほかの注射はそうでもないと思う」
「じゃ、なんで……」
そうだよなぁ、そう思うよなぁ……。
「どこが悪いのかわからないんだ。すごく痛がっているのは目に見えて明らかなのに、血液検査を始め、ありとあらゆる検査に異常が出ない。それじゃお医者さんだってお手上げだよなぁ……。挙句、痛みを抑えるためにモルヒネまがいの薬を使ったり、局部麻酔を使ったり……。根本治療ができないから対症療法。そんなんじゃさ、病院だって嫌いになるだろう?」
「……それ、どうして黙ってた?」
「……言ってもどうにもならないからさ。けど、静には感謝してるよ。静経由で藤宮病院にかからなかったら、紫先生とも出逢えなかったし、今でも病院をたらいまわしにされていただろうさ。それを考えれば、今は見放さないでくれるお医者さんがいるだけでもありがたい」
翠葉が中学の頃は散々だった。あの気丈な碧が鬱になるくらいには……。
「静、お願いがある」
「なんだ?」
「今の碧を幸倉に戻すわけにはいかない。でも、碧には休養が必要だ。静のマンションに置いてもらえないか?」
「こんなときになんだが、仕事のほうは?」
「さっき確認した。先一ヶ月までの仕事を終わらせてあった。あとは現場がそれに添って動くのみ。……あいつ、ここ一週間ろくに寝てないんだ。日中は現場で指揮をして、ホテルに帰ればデスクワーク。食事を摂ってもすぐに戻す……」
「……おまえはそれをずっと見ていたのかっ!?」
「見てる以外にできることはなかったよ。幸倉へ戻せば翠葉が精神的に負担を負う。碧から仕事を取り上げれば碧が精神的に病む。どっちを選択すればいいんだよ」
蒼樹の負担を考えれば碧を戻すべきかとは思ったが、今年の翠葉の状態はどう考えても例年のそれとは違うものだった。
「おまえは大丈夫なのか?」
「さぁね……。ただ、俺まで溺れるわけにはいかんだろ? だから、神頼み」
後ろにある祠に目をやる。
「静……たぶん、数日中に翠葉は入院することになる。そのときは俺も二、三日現場を離れていいかな」
「翠葉ちゃんの現在の状態は?」
「飢餓って言ったらいいのかな? 痛みがひどすぎて経口摂取ができなくなってるらしい。湊先生が点滴をしてくれてるけど、それでも補いきれない状態だそうだ。それが続くと脳障害や内臓に影響が出るんだって。もう落ちる肉もないそうだ」
「っ……おまえ、今すぐにでもっ――」
「……今な、翠葉が入院するのを待ってるところなんだ」
「それは待つところではなく、おまえたちが連れていくところじゃないのかっ!?」
「俺もそう言ったんだけどね、今、無理に入院させたら今後の家族間の関係に悪影響が出かねないって言うんだ。これ以上家族に不調を言わなくなるのは困るからって……」
「湊がそう言ったんだな?」
「あぁ。だから、こぉ……手をこまねいているというのは言い訳かもしれないがな」
ははは、と乾いた笑いでごまかす。
親の役目ってなんだ、と自分を何度も問い質した。親ができること、親がしなくちゃいけないこと
――何度も、何十回何百回何千回と考えた。けれど、翠葉の身体を前にして、親ができることなんて何もなかった。それで、側にいることが負担になると言われたら、その負担を取り除いてやることしかできなかった。
何が正しくて、何が間違っているのか、いつからかわからなくなっていた。
蒼樹から送られてくる音声データを聞くたびに、胸が引き裂かれる思いだった。
こんなにも泣いているのに、こんなにも痛がっているのに、言葉という言葉を発しない娘。ただひたすらに耐えようとする娘。そんな翠葉になんて声をかけられただろう。
「大丈夫」なんて言葉はかけられない。「がんばれ」なんて言葉も言えるわけがない。「良くなる」なんて言葉は無責任すぎる。「つらいな」なんて言葉は救いにすらならない。
いっそのこと、泣き喚いてくれたほうが楽だったかもしれない。
碧がいつか言っていた。
なんで健康に産んでくれなかったんだ、と責められるほうがましだと……。
それでも、碧は健康に産んであげられなかった自分を責めている。
確かに子どもは女から生まれる生まれる。けれど、子どもを作ったのは俺と碧なのに、碧は自分だけを責める。俺にも半分背負わせてほしいのにな――。
Update:2010/04/03 改稿:2015/07/17
ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。
↓コメント書けます*↓