光のもとで

第09章 化学反応 29話

 朝起きたら洗顔、朝食、歯磨き、身体を拭いてルームウェアを着替える――それらが終われば何をすることもなくなる。
 音楽を聴くでも、写真集を見るでもなくぼーっとしていると、昇さんが顔を出してくれた。
 きっと、相馬先生が帰国するまではこんな日が続くのだろう。
「調子は?」
「少しずつ痛みだしています。でも、こんなの全然かわいい」
 苦笑を添えて返すと、
「かわいい、か。まだ凶悪なやつじゃないんだな?」
 そんなふうに返してくれる昇さんは、人に話を合わせるのが上手だなと思った。
 昇さん曰く、患者と医師のコミュニケーションをはかるための会話をする。
「外、行くか? 中庭なら暑くないだろ」
「嬉しい! でも、日焼け止め塗るのでちょっと待ってもらってもいいですか?」
「その年から紫外線対策か?」
「対策は対策……。でも美白がどうの、じゃないですよ。私、すぐに赤くなっちゃうから」
「あぁ、そういう体質か」

 中庭に出ると、私の好きな木のもとまで車椅子を押してくれた。
 今日はふたり揃ってその木の根元に腰を下ろす。
 もう太陽は高い位置まで昇っているけれど、大きな木の下には日陰ができており、芝生の上はひんやりとしてとても気持ちがいい。
 吹き抜ける風はビル風に類似するけれど、風景に緑があるだけで、そうとは思わない。
 ここにも少しハーブが植わっている。それを見ていると、お姉さん――唯兄の大切な人を思い出す。
「なんか寂しそうな顔をしているな」
「……ここで何度か会ったことのあるお姉さんが亡くなったって、つい最近知ったんです……」
「そうか、残念だったな……」
 昇さんの曇った表情を見るのは二度目だ。
 そんな昇さんを見て、お医者様だからこそ反応しづらい話題なのだろうと察する。
 手を尽くしても救えない命は救えない。けれど、そのたびに心を砕かれていたら、この仕事は務まらない。そのくらいは何も知らない私でもわかる。だから、話を逸らそうと思った。
「今日はお昼時にお兄ちゃんが来てくれるんです」
「上? 下?」
「下、です。唯兄」
 上下で訊かれたことに笑みが漏れる。
「お仕事が忙しいみたいだけど、合間を縫って来てくれるみたい。色々と相談したいことがあったからすごく嬉しくて……」
「俺や栞に相談してくれてもいいのになぁ……」
 昇さんがどこかいじけているように見えた。
「俺はあらゆる分野に精通しているぞー? 医療の分野では特定の分野だがな……」
 名前の呼び方といい、負けず嫌いな先生だなぁ……。
 そんなことを思いつつ、悩みの一欠片を話すことにした。
「どうしたことか、ツカサを見ていると時々心臓がドキドキして困るんです」
 苦笑して話すと、昇さんの真顔がこちらを向いた。
「で?」
「それがどうしてかわからなくて、微妙に困っています。嫌ではないんですけど、気持ちの名前がわからなくて……」
「……それは素なのか?」
「す……? あの、真面目にわからないから唯兄に相談する予定なんですけど……」
 昇さんは一瞬にして大笑いを始めた。
「なんて奇特な兄ちゃんなんだ」
 心外な反応だけれど、さっきみたいに寂しそうな顔をしていないことに安心した。
「それで心臓壊れたりしないか不安になっていたら、それで死ぬ人はいないって言われちゃいました」
 昇さんはさらにお腹を抱えて笑いだす。
「でもね……前に、湊先生にも同じようなことを言われた記憶があって――でも、ツカサのことで訊いたのかは覚えていなくて、記憶がところどころなくて気持ちが悪いです」
「……記憶っていうのは人の歴史みたいなもんだからな。……思い出せるといいな」
 そう言うと、私の頭に大きな手を置き、
「そろそろ病室に戻るか」
「はい」
 車椅子に戻るとき、左足に痛みを感じた。
「痛いのか?」
「まだ大丈夫。……だって、痛くてもまだ歩ける」
「そうか……悪いな、治療してやれなくて」
「……昇さんは悪くないです」
「そうだよな、相馬が帰国したらふたりで恨みつらみをぶつけような」
「……それはどうしようかな?」
「なんでだ?」
「確かに恨みつらみはなくもないんですけど、これから治療してくれる人に、治療前に文句を言うのは得策じゃない気がします」
 真面目に答えたらまた笑われた。
「なかなか機転がきくな」
 昇さんは言いながら車椅子を押し始める。
 病室に戻っても、昇さんはスツールに腰掛け一向に出ていく気配がない。
「昇さん、お仕事は?」
「時々外科手術をやってる。あとは術前カンファレンスに参加して助言をしたり。まだ本格的には仕事をしていないんだ」
「どうしてですか……?」
「翠葉ちゃんの痛みがいつ襲ってくるかわからないからな。相馬が帰国するまではこっち重視。紫さんや涼さんからもそれでいいと言われてる」
「…………」
「あまり深く考えるなよ? 症例が少ないだけに貴重なデータ収集にもなってる。……って言うと、モルモットか何かみたいに聞こえて嫌だよな」
 先生は少しだけ顔を歪めた。
「……私の身体が何かの役に立てるなら、全然嫌じゃないです」
 それは本音。こんな身体の私でも、何かできることがあると思えるから。
「……君は変に物分りが良くて、時々話してるこっちが困るな」
「え……?」
「……ちょっとやるせなくなるときがあるよ。時には泣き叫んだり、つらいって零していいんだぞ? 病院はさ、我慢する場所じゃない。そりゃ、つらい治療を我慢しなくちゃいけないことはある。でも、翠葉ちゃんが泣き喚いても誰も責められはしない」
 それはそうかもしれない。でも、少し違う。
「私はいい子でいるために我慢してるわけじゃないです。泣き叫んだところで体力を消費するだけだから、泣いても叫んでも状況が変わらないのなら体力温存……。耐えているほうがカロリー使わないですむでしょう?」
「……思考回路がちょっと普通じゃないな。それで心がズタズタになるようじゃ意味がないんだよ」
 言うと、昇さんの手が頭に乗った。



「そんなだから、周りが放っておけなかったり、翠葉ちゃんの意思を尊重しては側に近寄れなくなるんだな」
 それは私にはわからないけど……。
「でも、私は楽になりたいとは思っているし、痛みに怯える日はもう散々……。早くこんな症状とは縁を切りたい」
 そういうふうには思っているんだよ。
「外科手術でどうにかできるのなら、俺が救ってやれたかもしれないのにな……。あいにく、翠葉ちゃんのこれは俺の専門外だ。当面、痛くなったら薬で眠らせるような処置になる……」
 先生は申し訳なさそうな顔をしていた。
「やだな。昇さんが申し訳なく思うことじゃないです」
 軽くパシ、と先生の腕を叩いてみせた。すると、
「いい子すぎるのは考えものだ」
 いつもは低く大きな声で話す人が、小さく小さく、一言だけ零した。



Update:2010/05/16  改稿:2015/07/20



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