光のもとで

第10章 なくした宝物 28話

 あの日から二日が経っていた。けれどもツカサは来ない。
 毎日、ツカサが来てくれることが日課になっていた。
 朝か夕方、それから時々お昼も……。
 それを普通だとか当たり前なんて思ったことはない。ただ、日課になっていただけ。
 唯一の楽しみで、唯一の拠り所だった。ツカサとの他愛のない会話が好きだった。
「もう、来てもらえないのかな……」
 圏外になっている携帯に視線を向け、再生ボタンを押せば単調な声が聞こえてくる。
 一から十までの数だけではなく、違う声も聞きたいのに携帯はつながらない。
 それはここが病室だから、というわけではなく、ツカサの携帯につながらないのだ。
 つながらない、というよりはコール音が鳴っても出てもらえない。
 一日目は圏外のアナウンスが流れてきた。二日目の今日はコール音は鳴るものの、電話には出てもらえなかった。
 何度電話をかけても出てはもらえない。メールを送っても返事が届くこともない。
 最初は部活中や勉強中なのかもしれないと思った。でも、たぶんそういうのは関係ないのだろう。きっと、私の着信だから出てくれないのだ。
 一度悪いほうへ考え始めたら、通話ボタンを押すことができなくなった。
「私の意気地なし……」
 携帯を見るとどうしてもツカサのことを考えてしまう。だから、私は携帯の電源を落とし、サイドテーブルの引き出しにしまった。
「しばらくは見たくないかも……」
 見たくない、というよりは、必要がない、かな……。
 お母さんと蒼兄と唯兄、毎日三人のうち誰かが来てくれるから、とくに連絡を取る必要はなかった。
 毎日届くのはお父さんからのメール。いつも届くのは変なメール。


件名 :田中さんの食べ終わった弁当箱
本文 :田中さんは卵が嫌いだと思う。


 添付されているのはひとつの写真。
 とてもきれいに食べつくされたお弁当箱に、卵焼きだけがきれいに鎮座していた。
 なるほど、と思った私は「もしかしたら卵アレルギーかもよ?」と返信した。
 こんな他愛のないメールのやり取りは好きだった。
 でも、今は携帯を側に置いておきたくない。見たくないし触れたくない……。
 ――本当は違う。
 携帯が視界に入ると、ツカサのことばかりを考えて、どんどん落ち込む自分を自分がどうにもできなくなるからだ。
 単に目を逸らしたいだけ。
 本当はそれも違うかな。本当はお話がしたい。
 でも、それができないから――


「翠葉」
「蒼兄の声……」
「そう、夕飯の時間だよ」
 そう言って起こされた。
 夕飯ということは五時半……?
 枕元に手を伸ばしたけれど、そこに目的のものはなかった。
「携帯、どうしたんだ? 携帯ゾーンに忘れてきたとか?」
 蒼兄に訊かれてちょっと困る。
 ずっと私の傍らにあったものがなく、起きれば手を伸ばす場所にすら置いていない。不思議に思われても仕方がない。
「……サイドテーブルの引き出しの中」
 ものは見ず、左手でサイドテーブルを指差した。
「……どうして?」
 当然の質問だ。
「ちょっと、見たくなくて……」
 きっと訊かれる。「何かあったのか?」と……。
「翠葉、まずはご飯にしよう」
 蒼兄がベッドの左側にあるスツールに腰を下ろした。
「……訊かないの?」
 蒼兄の顔を恐る恐る見上げる。 と、
「訊いてほしいか?」
「……わからない」
 ただ、訊かれると思っただけ。
「まずはご飯。相馬先生が直々に作ってくれてるんだ。出てきたらあたたかいうちに食べるのが礼儀」
「そうだね……」
 昨日から献立がガラ、と変わった。
 昨日の夕飯から相馬先生が作ってくれているのだ。
 主に変わったのは食材や調理法。
 精製された食材は徹底除去。野菜も生野菜は出てこないし、化学調味料も一切使われていない。砂糖などの糖分はできる限り控えられている。
 飲み物は常温がホットのみ。極力身体を冷やさないための献立。
「女は身体冷やしていいことなんてひとつもないぞ。まずは胃腸のバランスから直すが、それには食事指導も並行してやらないと意味がない」
 今までだって栞さんがそういうことを考えて作ってくれていたはずだった。
 一緒に話を聞いていた栞さんが、「マクロビオティック……?」と口にすると相馬先生はニヤリと笑った。
「考え方としては変わらないが、あそこまでストイックになる必要はない。スイハの身体は陰の気質が強すぎる。それを陽に引っ張るために食事を変えるだけだ」
「先生……日陰っ子って言われた気分でちょっと嫌」
「じゃ、日向に出てこいや」
 栞さんは相馬先生に渡された本を読破するまで出てくるなと言われている。
 あの本の分量を見てしまうと、暗に出てくるな、と言っている気がしてならない。
 それは強ち外れていなかったようだ。
「鍼もカイロも俺ひとりでできる。女は冷やすな、ってのは栞姫にも言えることだ。身体があたたかいほうが妊娠しやすい。ここは空調管理が行き届いていて嫌でも冷気を浴びる。長くいていい場所じゃねぇよ」
 そう言われた栞さんは驚きを隠せないといった顔をした。
 きっと相馬先生は知っているのだ。栞さんが流産してしまったことも、妊娠を望んでいることも。
「栞さん、私は大丈夫です。退院したらお料理教えてください。だから、おうちでお料理のお勉強をして?」
 そんなやり取りをしたのは昨日のお昼過ぎのこと。

 ご飯が食べ終わり、少しだけベッドを倒す。
 これから消化に血が使われ、脳貧血を起こしやすくなるから。
「さて、携帯がどうかしたか?」
 トレイを下げ戻ってきた蒼兄に訊かれる。
「蒼兄が携帯に出ないのはどんなとき?」
「……あまりそういうことはないけど……。ま、出たくないから出ないんだろうな……。故意的な場合は、だけど」
 故意的な場合――
「意識して携帯に出ないなんて、そうそうすることじゃないだろ? 秋斗先輩はよくやってたけど……。主に仕事方面で」
 秋斗さん……。
「でも、秋斗先輩ってことはないだろうな。今日も俺のところに電話がかかってきて、会いにいっても大丈夫なら会いにいきたいって言ってた。……そこからすると、司、しかいないよな」
「……うん」
「でもさ、あいつ疲れてると思う。インターハイが終わって秋斗先輩の捜索に出て、帰ってきてから昨日、だろ?」
 そうだった……。
 司はインターハイから帰ってくる前も、帰ってきたあとも、ずっと休みなく動いている気がする。
「人間疲れてると余裕がなくなる生き物だからさ、少しそっとしておいてやったら?」
「……そうだよね。とくに、ツカサはそういう自分を見られるのをすごく嫌がるタイプの人だよね……」
「そうだな……。翠葉、よくわかってるじゃないか。司はそういうやつだからさ、少し時間あげてよ」
「……休んだままフェイドアウトとか――」
 ふと口をついた言葉に涙が出てくる。
「ないよ。それはない」
「どうして言い切れるの?」
「……少なくとも、俺は翠葉よりも司との付き合いが長いわけだ。そこからの統計上ってやつかな」
「……そうなら、いいな……」
 最後に送ったメールは長くない。
 ――「ごめんねじゃなくてありがとう、って言いたかった。記憶をなくしてからずっと側にいてくれて、ありがとう」。
 これが最後のメールになったらどうしよう……。
 そう思いながら送った。
 朝に送ってお昼にメールの受信確認に行って、怖かったけれど、もう一度電話して……。
 返信もなく、電話に応じてくれることもなく、怖くなって電源を落とした。そして、病室に戻ってきてすぐにサイドテーブルの引き出しにしまったのだ。
「司はさ、普段怒鳴ったりしないだろ? その司が、あの日大声を出したんだ」
 内容は教えてもらえなかった。でも、どうやら私と静さんが十階へ行った直後のことらしい。
「そのくらいには疲れてるんだよ」
「ん……」
 あの日、私はツカサにありがとうを伝えられないまま意識を手放した。
 どうやら軽い不整脈だったみたい。
 意識を失っている間に紫先生が診てくれたらしく、随時モニタリングされていることもあり、危ない状態ではないことからICUに入ることはなかったのだとか。
「蒼兄……意識を失いたくないと思っていたら、意識を手放さずにいられたらいいのにね」
「それはちょっと難しくないか? ほら、眠くて寝オチ、とかそういう問題じゃないわけだからさ。血圧や不整脈が絡んで意識がなくなるのはどうしようもないだろ? そこまでコントロールしようと思わなくてもいいんじゃないか?」
「……だって……いっつもいっつもいっつもいっつも――倒れたくないときに倒れる。本当は、自分が逃げたくてしょうがないから意識を手放していたりするのかなっ!?」
 ベッドから背を起こすと、突如眩暈が襲う。
「ほら……横になって」
 蒼兄にベッドに押し付けられ、ベッドを完全にフラットな状態にされた。
「翠葉、おまえはさ、そういうことをできる人間じゃないと思うよ」
 流れる涙を蒼兄に拭かれた。
「基本負けず嫌いだろ? そんなおまえがそう簡単に逃げようと思うことはないはずだし、そのくらい頻繁に倒れてるだろ? それに、翠葉はそんな器用な人間じゃないよ」
「そうだな、そらシスコン兄貴が言うことに間違いねぇ」
 ケケケ、と笑いながらやってきたのは相馬先生。
「そんな、逃げたい逃げたくないの気持ちひとつで不整脈が意識的に起こせるようじゃ、医者が困んだよ」
 額にデコピンをされ、ちょっと痛かった。
「何はともあれ、ストレスに身を晒してたらいくらでも不整脈は起こせるし、医者が何人いても足らんがな」
 ストレス、不整脈――
 前に湊先生にも同じようなことを言われた。
 ストレスで人は死ねると。十分命取りになる、と……。
「ストレスってなんだろう……」
「スイハ、おまえさんの場合はまずそこからだ」
 そこ、から……。ここ、から――?



Update:2010/08/09  改稿:2017/07/02



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