音楽室のある特教棟手前までくると、茜先輩が振り返る。
「司、翠葉ちゃんのお見舞いに行こう?」
屈託なく誘われた。
そうきたか――
「桃から翠葉ちゃんの状態を聞いたの。今日は痛みとかの症状はないけど、身体を休めるために欠席って」
それは間違いではない。昨日の発作の疲れやCFSの熱を引かせるために身体を休めろ、という話だ。
「昨日、会いに行ったんでしょう?」
行った――行ったけど……。
「ケンカでもした?」
あれはケンカとは言わないと思う。単なる俺の八つ当たり……。
「これは人質よ?」
茜先輩は俺のかばんを顔の高さまで持ち上げると、
「ほら行くよっ!」
と、歩き出す。
翠に会いたくて会いたくなくて、謝りたくて謝りたくない――
どんな顔をして会いにいけばいいのかわからない。
「最近の司はとてもわかりやすいわ。とくに翠葉ちゃんとケンカしてるときとか……」
茜先輩はクスリと笑って何かのリズムを刻むように階段を下りていく。
踊り場手前の一段を下りると、見上げるように俺を見た。
「ケンカしたなら仲直りしたほうがいいと思うよ。じゃないと気持ち悪いでしょう?」
「ケンカじゃない……」
「あら、なら何?」
茜先輩は壁伝いに次の階段を下り始める。
「俺の八つ当たり……一方的に俺が怒っただけ」
「……理由は?」
理由……。
「久しぶりに普通に話すことができたんだ。なのに、また呼び出し云々の話になって、挙句――」
言葉に詰まるのも束の間。
「俺が翠と話すのは、俺が翠を異性だと思っていないからって結論にたどり着いたらしくて……」
言い終わるころには、顔に笑みを浮かべていた。
自分の意に反して表情筋が動く。
口にしない限り、言葉にしない限り、翠が俺の気持ちに気づくことはない。
そう思っているからこそ、わかっているからこそ、俺はこんなにも翠の近くにいられて頼ってもらえる位置にいられたというのに……。それを棚に上げて気づいてもらえない、わかってもらえない、と癇癪を起こしたなんてどうかしている。
秋兄に言われるまでもなく、俺が悪い。
気づけば残り三段を残し、その場に留まっていた茜先輩を通り越して一階に着いていた。
「司?」
後ろ、少し上方から降ってくる声に振り返る。
「翠葉ちゃんの擁護をするつもりはないの。でも、彼女が今呼び出しに応えているのはなんでだと思う?」
なんでって――
「バカだから?」
「……司、殴るわよ?」
珍しく茜先輩が目を吊り上げていた。
「もっと楽な道はあるのっ」
そう言って階段を下りては先に三年の下駄箱へと走っていった。
「……これはついていくしかないのか?」
下駄箱と下駄箱の間を歩き、言われた意味を考える。
「もっと楽な道ってなんだよ……」
昨日の翠の言葉を思い出す。
――「ツカサがもう少し周りの女の子と話をしてくれたらこんなに苦労しなくて済むんだよ?」。
それが何……。つまりは俺のことで苦労していていい迷惑って話じゃないのか?
靴に履き替え昇降口を出ると、空には巻積雲が広がっていた。
ふと、今日は秋晴れだったななどと思い出す。
翠もマンションのリビングから空を見上げているだろうか。
「茜ちゃん、今日はもう帰るの?」
「ううん、これから歌の練習に行ってくるの。北条くんも部活がんばってね」
知らない男と茜先輩の会話。
茜先輩はいたるところから声をかけられ、それに応じる際には必ずその人間の名前を口にする。
「普段関わりのない人間の名前までよく覚えられますよね」
「だって、小中高と一緒だもの。覚えない司のほうがおかしいのよ」
そう言ってスタスタと先を歩く。
覚えられるかどうか、というなら覚えられる。ただ、覚える気がないだけだ。
校門に向かい桜並木を歩き始めると、周囲に人がいなくなった。
「茜先輩が言っていた、もっと楽な方法ってなんですか。翠は俺がほかの女子と話せば自分はこんなに苦労しないって言ってましたけど……」
「……やっぱり司がバカなのよ」
茜先輩には見えていて、俺には見えていないものがある。それは確かなようだ。
「翠葉ちゃんが一番手っ取り早く楽になる方法。それは、司から離れることよ」
っ――!?
「あら、そんなに驚くことじゃないでしょう? それが最も簡単で最も手っ取り早く問題を解決できる一方法」
言われてみれば、確かにそのとおりだった。
「でも、それに似たことならしようとしていたんじゃないでしょうか」
このまま話していたら自虐的になりそうだ。
「俺のことを先輩つきの呼び名に戻そうとした時点で――」
最後まで言う前に、茜先輩の鋭い一言が飛んできた。
「それが何……?」
珍しく、ひどく冷めた声だと思った。
いつもより低く、何かを堪えているような声。
「司は呼称に執着したけれど、たぶん、翠葉ちゃんはそんなことどうでも良かったのよ」
これ以上この話を聞いていたら頭に血が上りそうだ。そんな自分は嫌だし、人に見せるなんて真っ平ごめんだ。
歩みを止め、
「先輩、かばんを返してください」
「嫌よ」
茜先輩は俺にかまわず校門へ向かって足を速める。
奪い取ることなんて簡単で、それをしなかったのは茜先輩の手や指を傷つけないため――というのは言い訳かもしれない。
ただ、その先を聞きたくて聞きたくないからだ。
「司、翠葉ちゃんが離れていくのと呼び名をもとに戻されるの、どっちが良かった? 司ならどっちを選択した? それに答えたら、かばんを返してあげる」
俺は今、何を問われた?
「もう一度言うわよ? 離れていかれることと呼び名を変えられること。司にとってはどっちが嫌なこと?」
呼び名を変えられるのと翠が離れていくのってどこに共通点が――それが楽な方法……?
「目、覚めた?」
「頭を鈍器で殴られた感覚はありますが……正直、まだ茜先輩が言わんとすることは理解できていません」
「……失礼ね、歌姫からの神託よ?」
「姫は姫であって神じゃありませんけど……」
「少しはいつもの司に戻ったかな?」
茜先輩がクスリと笑う。
「私が言えること。それはね、翠葉ちゃんは司から離れるなんて考えはなかったんじゃないかな、ってこと。司と距離を置くだなんて考えもしなかったと思う」
距離――離れる……。
「今の関係でいるためなら呼び方を変えることなんてとてもちっぽけなことだったのよ。呼び出しに応じて一生懸命司のことを説明するのも、司っていう人間を知ってほしいから。自分って人間を知ってほしいから。ただそれだけなんだと思うの」
俺は――呼称にしか執着するものがなくて、呼び方が変わるだけで距離ができてしまうものだと思っていた。しかも、第三者――なんの関係もない人間に言われるがまま呼び方を変えられたことにえらく腹が立った。
でも、翠は……全然違うことを考えていたのか?
「司、かばんは返してあげる」
目の前に差し出されたかばんを受け取ると、
「翠葉ちゃんに会いに行く? 行かない?」
「……行きます。行って、本当にそうなのか、翠の口から聞きたい」
「うん、それがいいと思う。じゃ、電話しよっか」
茜先輩が自分の携帯から翠に連絡を入れた。
校門を出て一般道の近くにいるからマンションまで――翠のいるところまで十分とかからない。
会って――まず最初に何を口にしたらいいだろう。
とりあえず、昨日怒鳴ったことは謝罪するべきだ――
Update:2010/06/02 改稿:2017/07/06
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