「ツカサ……私は必要な人かな」
翠はカップを見たまま不安そうに口にする。
まだ訊くか――そうは思うけど、こういうのにいちいち答えていくことに意味がある気がした。
「……翠がいないと困るって何度も言ったと思うけど」
「……本当に必要?」
「くどい。……でも、それを聞いて安心するなら何度でも言う」
何度伝えても自信が持てないなら、不安になるたびに訊いてくれてかまわない。その都度、同じ答えを口にするまで。
「必要。少なくとも、俺の中では翠に代わる人間はいない」
翠は一瞬目を見開き頬を緩める。
「……ツカサ、ありがとう」
こういう顔を見たかった。こんな顔をしてもらいたかった。
優太のことを春の日差しみたいと言っていたけれど、俺にとっては翠がそういう存在なんだ。
「ツカサ……私にもツカサが必要だよ。ツカサがいないとすごく困る」
「…………」
「……どうしてそんなに驚いた顔をするの?」
「いや――」
驚くなっていうほうが無理だと思う。
「今年の夏……私、ツカサがいなかったら乗り切れなかったと思うの。もしかしたら生きることを放棄していたかもしれない」
「翠」
そういうことだけは口にしてほしくない。
「わかってるよ。でもね、本当にそのくらいつらかったの。……今、こうしていられることが奇跡に思えるくらい」
俺だって奇跡だと思ってる。
あんなにも衰弱していたのに、一ヶ月でここまで回復して学校に通っている。本人も驚いているけど、周りだって予想外だった。正直、二学期には間に合わないと思っていた。
でも、翠は約束どおり二学期には復帰した。多少、無理をしている感は否めないけれど。
「先生たちも一生懸命治療してくれたけれど、それ以外で――いつでもツカサが側にいてくれたから、だからがんばれたんだと思う。ちゃんとお礼言ってなかったよね。ありがとう……」
「ありがとう」という言葉と共にこちらを向き、
「時々ものすごく意地悪で辛辣なことだって言われるけれど、それが優しさの裏返しなの、ちゃんとわかってるよ? ケンカもするけど、ツカサが大好き。ファンの人たちとは違うよ? ちゃんとツカサが意地悪なのも優しいのも知っていて好きなんだからね? でも、もっとちゃんと知りたいから、だからいっぱいお話しよう? それから、ファンの人たちにも誤解されずに好きになってもらえるといいね?」
翠は言いたいことだけ言ってキッチンを出ていった。
――わかってる。こういう人間だってことは何度となく思い知らされている。
でも、今このタイミングで言うかっ!?
「好き」とか「大好き」とか、さらっと言うな。俺が言いたくてもなかなか言えない言葉をさらっと言ってくれるな。
しかも、俺の「好き」と翠の「好き」は意味合いが違いすぎてムカつく。ファンの好きとは違うと言ったけれど、俺の感情とも違うんだ。ただ、人として好き――そういうことなのだろう。
「俺、翠の言動でどのくらい寿命が縮まるんだろう……」
キッチンから出ると、茜先輩と翠が部屋の音響について話していた。
ここはもともと音楽サロンみたいなつくりになっている。
単に防音が施されているのとはわけが違う。
通常、防音室というのは音の響きを吸音させ、残響をカットするものが主流だが、ここはピアノ以外の楽器でも対応できるようになっている。
たとえば声楽をする人がいても、きちんと声が響く仕様になっているのだ。
スタンウェイはただでさえ響きが豊かだから、それを声楽とセットにしてもバランスがいい音場にするのには苦戦したそうだけど、出来上がりはこの通り。茜先輩が感心するほどにはいい出来のようだ。
「じゃ、軽く発声練習からね」
ピアノの前に座る茜先輩に言われる。
一瞬目が合ってにこりと微笑まれた。
この人は何も訊いてこない。そういう人だ。
一通り発声練習を終えると、割り当てられている歌の練習に入る。
「ツカサと歌う曲だけはどう歌ったらいいのかわからないです」
そんなこと――文句なら俺に言わせろ。
「だいたいにして、なんで俺に女性アーティストの曲が入ってるんですか……」
「いきものがかり」や「ドリカム」、女性ボーカルのものは翠か茜先輩が歌えばいいものを。
「選曲は海斗と佐野くんに一任してたから苦情ならそのふたりにお願いね。でも、すっごくいい歌だと思うよ?」
「いい悪いの問題じゃなくて……」
海斗と佐野か――いつか締める……。
「とりあえず、『あなたと』に関して言うなら、歌詞が載ってないところは歌わなくてもいいや。アアとかラララのフェイクの部分ね」
それは助かる。正直、一番そこが苦痛だった。
朝陽や優太はそこが醍醐味だとか抜かしていたが、俺はふたりとは違う。何がどうして人前でこんなことをしなくてはいけないのか……。
二度とやらない、絶対やらない――
「その代わり、ふたり手をつないで歌って?」
「はっ!?」
「えっ!?」
「当たり前でしょ? そのくらいの対価は払ってもらわなくちゃ!」
翠が絶叫しそうな顔をしているのに、茜先輩はにこりと笑って伴奏を始める。そして前奏が鳴ると、自然と歌を口にずさんでしまったのは俺。
なんというか、そのくらいには何度も歌わされてきた。
でも、翠の前で歌うのは初めてで、若干緊張をしている。けど、口にした歌詞がさっきまでの俺たちみたいで――
そう思いながら翠の歌う部分の歌詞に目をやると、なおさら自分たちのことのようで……。
海斗か佐野、予知能力があったりしないよな、などと現実的ではないことを考えたり。
このとき、初めて歌詞の意味を考えた気がした。
翠と初めて会った日。こんなふうに手をつなぐ日がくるとは思わなかった。
翠と手をつなぐ、というよりは、自分が誰かの手を取ることなどないと思っていたし、誰かに助けてもらいたいなどと思うことはなかった。
ただ、翠の側にいたいという思いから少しはみ出してしまった自分の想い。
歌詞は人の言葉であり、俺の言葉ではない。けど、気持ちをこめて歌えば伝わるのだろうか……。
翠が歌う部分の歌詞に自分がかぶる。
俺は翠を傷つけたくない、困らせたくないと言いながら逃げてるのではないだろうか。
歌い終ると、茜先輩が満足そうに笑う。
「ふたりとも声の相性いいのね? これにはちょっとびっくり! 欲を言えば、翠葉ちゃんの声がもっと出るといいなぁ……。ま、このあたりは本番までがんばって練習して、どうにもならない部分はミキサーのほうで調整してもらおう」
歌い方に指摘が入るのかと思っていたけれど、そんなことはなく、翠とはもる部分や伴奏との兼ね合いでどのくらい溜めるとか、その程度のことだった。
そのあと、忘れ去られていたお茶を飲むことになる。
黄緑色の液体だったものは時間を置いて茶色く退色していた。
先輩はソファに腰掛け、翠は定位置のラグに座る。
翠は耐熱ガラスのカップを嬉しそうに両手で持ち、冷めたお茶を美味しそうに口にした。
「ふたりとも、今日はちゃんと歌詞に気持ちがのってたね?」
気持ちがこもっていたというか――
感情移入、仮想現実、そんな感じかもしれない。
海斗と佐野、本当にふざけるな……。
「……歌詞、いつもは読むだけで想像が追いつかなかったんです」
翠はとんぼ玉をいじりながら答える。
「今日は想像が追いついたの?」
「はい、少しだけ……」
翠ははにかんで答えた。
「一緒に歌うのがツカサだからわかったのかな」
翠は小首を傾げる。
落ち着け俺……。
翠のあの顔――自分が何を言ってるのかよくわかってないに違いない。いや、むしろそんなことを言われて俺が動揺するなんて微塵も思っていない顔だ。
翠はこういう人間なんだ……。知っていて好きになったんだろっ!? なら落ち着け――
鈍感鈍感鈍感鈍感鈍感――どこまでスルーすれば気が済むんだ。翠の鈍感は底なし沼なのかっ!?
落ち着け、俺――
「ほかの歌も同じだよ。歌は気持ちをこめて口にすると、想いが伝わるの」
茜先輩がほかの歌詞を取り出し翠に見せる。
今日はこの人にしては珍しい表情ばかり見ている気がする。
茜先輩は何を思っていつも歌っているのか。
ただ、歌が好きだから歌っている――そう思っていた。でも、今の表情と言葉は誰かに何かを伝えたくて――そんな表情に見えた。
茜先輩が気持ちを伝えたい相手は会長……?
でも、会長なら毎日のように茜先輩に好きと言っていそうだし、言わなくともあの行動だし……。
それにこの人が気づいていないわけもなく、相変わらずよくわからない関係のふたりだ。
休憩のあとは翠が伴奏する俺の歌だった。
歌詞の意味を考えてしまうと、口にするのも恥ずかしくなる。でも、そんなことは気づかれたくなくて普通を装おう。
恥ずかしいと思っている自分を見られるのはたまらなく恥ずかしい。
なんだこれ――
翠の向こう側にいる茜先輩からの視線が痛すぎた。
なんとなくわかった……。
この紅葉祭、俺に対する「何か」だ。即ち、生徒会総動員のトラップ――
なんだか最近はやられっぱなしだ。
ふざけるな、と思う気持ちは嘘じゃない。
でも、腹が立つとかムカついてどうにもならないとか、そういう気分ではない。変な感じ――
茜先輩の携帯が鳴り、翠が部屋の時計に目をやった。つられて自分も時刻を確認する。
あと少しで七時。
「久が下まで迎えに来てくれてたから、私は帰るね! お茶と歌、ごちそうさまでした!」
茜先輩の爆弾発言に絶句する
翠は意味がわからずに首を傾げた。
そのまま俺に視線を向けるから、「何」と訊き返しながらも顔を逸らしてしまう。
そんなやり取りをしていると、
「今日、あと三回は練習してね!」
茜先輩はそう言い残して帰っていった。
ふたりそろってリビングへ引き返す途中、翠の携帯が鳴り出す。
「はい。――ちょっと待ってくださいね」
翠が通話口を押さえて俺を見上げた。
「栞さんがあとどのくらいかかる? って。十階でツカサの分のご飯も用意してくれているみたいなんだけど……」
もう少しふたりでいられるだろうか……。
歌を歌うのは不本意だけど、一緒にいる理由にはなる。
「……あと三回。だから三十分くらい」
「了解。……栞さん、あと三十分くらいで上がります」
翠がピアノの椅子に座ると、右端に少しスペースができる。俺はその部分に体重を預けた。
自分の背後に翠がいる――
翠が入院していたとき、窓の方を向いてベッドに腰掛けるとこんな距離感だった。
今はそのときよりも若干近くにいる。
もっと近くに行くにはどうしたらいい? もっと翠を知るにはどうしたらいい?
確かに、「御園生翠葉」なんて教科書はない。あるのは目の前にいる実物のみ。
「観察」から得られるものには限度がある。「察する」という行為は多々憶測に終わる。
ならば、やっぱり「話す」しかないのだろうか。
練習を終え、ふと口をつく。
「明日、秋兄とブライトネスパレスに一泊って聞いた」
何が訊きたいのか、自分でも把握しきれていない。ただ、ふたりということが気になっていた。
「うん、旅行なんて久しぶりですごく楽しみ。相馬先生に療養だって言われたけれど、療養になるのかな?」
嬉しそうに笑う顔を見て思い出す。
そういえば、春にふたりで出かけると聞いたときも、俺は複雑な心境だった。この感情はそれに近いものがある。
形にはならない、言葉にはできないモヤモヤしたもの。
「……ふたりで平気?」
本当はそんな心配をしているわけじゃない気がする。俺が嫌だと思う理由は――
「……え? ふたりじゃないよ? 蒼兄と唯兄も一緒なの。それから万が一のためにって、栞さんと昇さんも一緒に行ってくれるのよ」
「――やられた」
「……何が?」
「こっちの話……」
くっそ……秋兄にまんまと嵌められた。
「何それ」
翠は心底不思議そうな顔をして俺を見る。でも、教えてやらない。
ふたりで行くと勘違いして嫉妬した自分をさらけ出すのにはまだ時間がいる。
「企業秘密。ほら、栞さん待たせてるから上に移動」
そう言って、十階へと上がる階段に向かった。
Update:2010/06/02 改稿:2017/07/06
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