光のもとで

第11章 トラウマ 47〜48 Side Sorata 01話

 昨日は姉ちゃんの子ども、つまりは姪っ子、琴の誕生日だった。
 うちでお祝いしたのに、車で来た姉ちゃんは酒飲んじゃうし……。
 兄ちゃんが歩きで来ていたのは、姉ちゃんの行動を見越してというわけではない。
 兄ちゃんはペーパードライバーではないけれど、あまり車に乗らない。
 時間があるとバスで二十分の距離を好き好んで歩いて帰ってくるちょっとした変人だ。
 ただ単に、車に乗ってしまうとそこら辺に生えている植物に触れられないからっていう理由。
 そんな植物オタクの兄ちゃんの夢は樹木医。
 琴は八時を回ると寝ちゃって、姉ちゃんは新作のおちょこで日本酒を飲んだらぐでんぐでん。
 日中はマンションで、琴の学校の友達を呼んで誕生会をしていたみたいだから疲れてはいたんだろうけれど……。
 こんなときは決まって兄ちゃんが姉ちゃん担当。俺は琴担当。
 姉ちゃんの車を兄ちゃんが運転して、女ふたりをマンションのベッドに寝かせたら任務完了。
 マンションとうちは徒歩十五分くらいの距離。
 そのまま家に帰っても良かったんだけど、試験勉強を見てもらいたかった俺は、そのまま兄ちゃんの家に転がり込んだ。
 着替えと制服、その他手抜かりなくすべて持参。
 この日、俺は兄ちゃんを夜中の一時まで勉強につき合わせた。

 翌朝、「行ってきます」と口にしてから数分が経過しても、俺は玄関を開けられずにいた。
 俺の右手はドアレバーにかけたまま。
 ドアを隔てた向こうから聞こえてくる会話はとても小さな声だった。
 このマンションは防音完備だけど、ドアの内側とすぐそこの通路じゃ会話がまったく聞こえないわけじゃない。
「話って何?」
「昨日の帰りの話の続き。……というよりは結論。いや……宣戦布告、かな」
 ひとりはすぐにわかった。うちのクラス翠葉ちゃん。
 もうひとりは語り口調から察するに、藤宮先輩だろう。
 我が校の姫と王子がすぐそこで話している。
「空太、おまえ何やってんの?」
 洗面所からひょい、と顔を出した兄ちゃんに訊かれ、
「固まってる……」
「うん、そう見えるけど」
「出るに出られない……」
 小声で答える俺を不審に思ってか、兄ちゃんは俺のところまで真っ直ぐ来ると、ドアの前で耳を澄ませた。
「俺はこれから先どんなときでも翠の体調を優先する。翠がどれほど葛藤しようが、言われるたびに悩もうが、それでも俺は止めるから。そのつもりで」
「……え?」
 外から聞こえてくる声に、兄ちゃんと目を合わせる。
「うん、もうちょっとだけ待とうか」
 兄ちゃんは自分の腕時計に目をやり、
「空太は全力疾走の登校決定だな」
 苦笑されても嬉しくない。
 声は少し遠くなったけれど、会話はまだ続いていた。
 自分の聴力が少しでも悪ければいいのに、なんて思いつつ、未だ耳を澄ませている自分がいる。
「な、何っ!? どうして朝から急にそんな話なのっ!?」
 翠葉ちゃんの慌てたような声。
「ほらほら、向こうに行った行った」
 その場から俺を引き剥がそうとした兄ちゃんは正しいと思う。
 そうだよ、ここで離脱しておくべきだったんだ。なのに、俺の手はドアレバーを掴んだままだった。
「朝から急に、なのは翠だけで、俺は昨日の帰りからずっと考えてた。……やっぱり、俺は言いたいことは言っておかないと気が済まない。そういうふうに翠が考えるのは仕方がないことなのかもしれない。翠がバカでこういうことに関しては学習能力が乏しいのも理解したけど、あまり俺たちを侮るな。翠の中学の人間と一緒にするな。考えただけでも虫唾が走る。言いたいことはそれだけだ」
 これを聞いてしまった時点でアウト。
 たぶん、最後の分岐点だったところを通過した。
 まだこのときは気づいていかなったけど……。
「これ、なんの話だろう……」
 それがこのときの、俺の疑問だった。
 藤宮先輩らしいっちゃらしいけど、翠葉ちゃん大丈夫なのかな……。
 藤宮先輩の声のあと、彼女の声は聞こえてこなくなった。
 もしかしたら、あまりにも小さな声すぎて聞き取れなかっただけかもしれない。もしくは、もうそこにはいないのかもしれない。
 静かになったと思ったからこそレバーに力を入れた。でも、またすぐもとに戻すことになる。
「翠葉?」と第三者の声が聞こえたからだ。
 つまり、彼女はまだすぐそこの通路にいるのだ。
 いるっていうか――藤宮先輩の言葉に動けなくなっちゃったのかな、と推測。
「具合が悪いわけじゃないんだよな?」
 この人は翠葉ちゃんのお兄さんかな? うちの兄ちゃんの親友っていう……。
「司が数分経っても翠葉が出てこなかったら迎えに行ってくれって……」
 なんだ……先輩確信犯じゃん。ある意味ひどい……。
「あいつはさ、今翠葉が泣いているのもわかってる。それでも言いたい何かだったんだろ?」
 その「何か」を俺は聞いちゃったわけだけど、てんで意味はわからずだ。
「空太、今日は遅刻を覚悟したら?」
 目の前の長身に言われる。
 兄ちゃんは俺より五センチ高い一八六センチ。
 高校の間に追い越してやる、と思うものの、もう身長は伸びてないっぽいんだよね。春の身体測定で身長に変化なかったし。
「これ以上の立ち聞きってのもね」
「同感……」
 靴を脱ごうとしたそのとき、
「蒼兄……学校行くの、怖い――」
 彼女特有の高い声が耳に届いてしまった。
 振り返ったからといって彼女が見えるわけじゃない。ただドアがあるだけなのに、振り返らずにはいられなかった。
 今、怖いって――学校に行くのが怖いって聞こえた。
「怖いよ――」
 もう一度、彼女はそう言った。
 聞き間違いではなく……。
 こんな小さな声、どうして聞こえちゃったんだろう。
「……翠葉?」
「ツカサみたいにみんなが気づいているのだとしたら、すごく怖い……」
 みんなって誰?
 俺の肩に兄ちゃんの手が乗る。
「しょうがないから共犯になってやるよ」
 俺たちはその場に留まった。
「なんの話か話せるか?」
 この場を離れるなら今がラストチャンス。そうは思っても足が動かない。
 人間の好奇心って罪……。でも、これが好奇心なのかはちょっと怪しい。
「兄ちゃん、俺あとでちゃんとカミングアウトする」
「弟よ、兄だけを悪者にするなよ。俺だって必要ならカミングアウトするさ」
 兄ちゃんは俺より全然余裕の面持ちで、それがちょっとムカついた。
 でも、その兄ちゃんの隣に腰を下ろす。靴は履いたままで。
「……体調、今のうちに立て直さないといけないのはわかってる。でも、それができないのは――もちろん楽しいからっていうのもあるけれど、それ以外の理由もあって……」
 あぁ、やっぱり無理してたんだ……。
 俺は実行委員サイドだけど、彼女とは中央委員会でよく顔を合わせていたし、この紅葉祭においてものすごく重要なポジションにいることも知っている。紅葉祭での会計はすべての要だから。
 それでも、彼女が今言ったように本当に楽しそうに仕事をしていた。
 呼び出しもガンガンされてて、仕事もサクサクこなしてて、見ている分には楽しそうにしか見えなかった。だって、翠葉ちゃんはいつでも笑っていたから。
 なのにどうして、彼女は今こんなにも不安そうなんだろう。
「今は生徒会という場所があって、自分にも何かしらできることがある。でも、もし体調不良で自分がそこを離れなくちゃいけなくなったとして、誰かに迷惑をかけることも怖いけど、それ以上に自分がいなくてもどうにかなっちゃうことが怖い。……自分の居場所がなくなってしまいそうで、自分がいてもいなくても何も変わらないことを思い知るのが怖い。クラスも同じ……。自分ひとりがいなくても何も変わらないことがわかるのが怖い」
 何それ……。
「それに、人と別行動を取ることでひとり置いていかれるのが怖い。また……誰とも話せなくなる日が来るのが怖い。――中学のときとは違うってわかっているの。わかってるけどっ――それでも学校を休んだ次の日に、教室のドアを開けるのが怖くて仕方ないっっっ」
 最後のほうは叫んでいるようにも聞こえた。
 声量があるわけではないし、実際に大声でもないのに、泣き叫んでいるように聞こえた。
 どうして――
 今まで見てきた彼女を思い出す。
 いつも「ごめんなさい」って言ってて、困ったような顔をして笑ってた。それが最初のころの翠葉ちゃん。それでも、徐々にだけど自然と笑うようになってきて、「ごめんなさい」の回数が減った代わりに「ありがとう」って言葉が増えて……。
 なのになんで――
 最近は体調が悪いのだって海斗たちじゃないクラスメイトにだって言ってくれるようになってきた。話しかけると一、二歩下がる癖もなくなってきてたのに、なんで……?
「蒼兄、怖いよ……」
 翠葉ちゃん、俺はこの先の会話を聞くのが怖いよ。
「中学のとき、そんなこと一度も言わなかったな……」
 彼女の声とは正反対の、静かで落ち着いた声だった。
「だって……ただでさえ身体のことで心配かけているのに、学校のことまで心配かけたくなかったよ。それに……体調のせいだったとしたら、お母さんとお父さんがつらい思いをする」
 俺、こんなところでこんなふうにこの話を聞いちゃいけないんだろうな、って思う。
 ちょっと目頭がやばい。
「おまえが泣いてどうするよ」
 隣の兄ちゃんが呆れたように口にした。
「蒼兄……私、知ってるのよ? お母さんが一時メンタルクリニックに通っていたの……。あれは私の体調が原因なのでしょう?」
「……翠葉が気づいているのは薄々わかってた。たぶん、母さんも……。それはちょっと置いておこう? 学校を休んだ次の日はすごく怖いんだろ? なら、今日も休まずに行ったほうがいいんじゃないのか?」
 身体のことはただ知られたくないだけだと思ってた。留年って結構重い響きだし……。
 けど、彼女の中には色々と複雑な思いがたくさんあって、だから知られたくなかったんだ。
「……ツカサに『俺たちを侮るな』って言われた。『中学の人間と一緒にするな。考えただけでも虫唾が走る』って……。『俺たち』ってツカサのほかにあと誰っっっ!? 桃華さんも気づいていたらどうしようっ!? 海斗くんや飛鳥ちゃんも気づいていたらどうしようっ!? 同じだなんて思っているわけじゃないのっ、違うのっっっ」
 彼女の嗚咽まで聞こえてくる。
 体育座りをしている自分の膝にポタリ、と水滴が落ちた。
 次の瞬間には自分の頭に兄ちゃんの手が乗る。
「空太が優しい子で兄ちゃんは嬉しいぞ」
 立ち上がると、兄ちゃんは廊下を戻り洗面所に入った。
 水の音がしたかと思うと、戻ってきたときには手にタオルをふたつ持っていて、
「ほら、顔吹いて少し落ち着け」
 と、冷たいタオルを渡される。
「俺が先に出るから、顔と頭が落ち着いたら出てこい。でも、時として、聞いたことを白状するだけが正しいルートじゃない」
 そう言って、兄ちゃんは躊躇いもなくドアを開けた。



Update:2010/06/02  改稿:2017/07/08



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