光のもとで

第12章 自分のモノサシ 31話

 学校を休んだのは実質一日。でも、今は紅葉祭の準備で土曜日も日曜日もあってないようなものだから、どうしても二日休んだ気がする。
 大丈夫――怖くない……。
「蒼兄、もう出られる?」
 蒼兄はリビングでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
 こんなところは幸倉にいたときと変わらない。
 唯兄が帰ってきてから、慌しかった朝がいつものペースに戻ったのだ。
 蒼兄は腕時計と私の顔を交互に見て、
「まだ少し早くないか?」
 確かに、いつもよりも七分ほど早い。
「……うん」
「……いいよ、出よう」
 そう言って立ち上がると、ポンポン、と頭を軽く叩かれた。
 自室に向かう途中、洗面所で洗濯物と闘っていた唯兄もひょっこりと顔を出す。
「早いね?」
「うん……。あのね、私の精神安定剤のひとつなの」
「ん?」
「教室の一番のり……。誰かがいるクラスへ入っていくよりも、誰もいないクラスに足を踏み入れるほうが怖くないの」
 説明すると、唯兄の表情が少し曇った。
「でもっ、それだけじゃないのよ? あとから少しずつ登校してくるクラスメイト一人ひとりに挨拶するのが……好きなの」
 人の気配がしてドア口を振り返ったとき、「おはよ!」と元気な声をかけてもらえるのがたまらなく嬉しいのだ。「おはよう」と挨拶を返せることが――とても嬉しい。
「そっか。じゃ、がんばって行っておいで。帰りは迎えに行くからね。終わったら携帯に連絡!」
 夕方の話をしているところへ栞さんがやってきた。
「あら? 今日は少し早い?」
 その言葉に曖昧な笑みを返す。
 栞さんは私たちが家を出る五分から十分前にお弁当を用意して持ってきてくれる。
 最近は唯兄が「弁当も作ろうかな」なんて言いだしていて、「私の仕事をいくつ取り上げたら気が済むのかしら?」と、栞さんと唯兄の主婦業合戦がしめやかに繰り広げられていた。
 唯兄はお仕事大丈夫なのかな、と思って尋ねてみたら、
「仕事のことなら気にしなくていいよ。それに、この家で暮らすなら、生活スタイル変えたほうがいいと思うんだ。そのほうが俺の身体にもいいしね」
 と、生活改善を図っていることを教えてくれた。
「目指せ長生き! ってわけじゃないんだけどさ、リィに自分の身体を大切にしろって言いたいなら、まず自分のこの生活改めないとね。説得力に欠けるなんてかわいいものじゃないほどに乱れた生活してたんだから。そんなこと言う資格もなさそうでしょ?」
 唯兄は後ろめたそうに、控え目に笑みを浮かべた。
「できる身体できない身体以前に、そんな規則正しい生活だとか枠にはまりきったことを自分ができるのかって考える。自分がやれもしないことを人に強制するとか進言するとか、そういうの、俺はやなんだよね。ま、ほかの人がどう考えているかは知らないけど、俺はそういう考えなの。俺、ひん曲がった根性してるからさ、『心配』の一言であれこれ制限するのって好きじゃないんだよ。もともと『制限』って言葉が大嫌い。『無制限』大好物! 俺はさ、リィのできないことを指摘するよりも、あれもできるんじゃない? これは? ってできることを提案できる発想力を培いたい。正論とかそういうのはどうでもよくて、言われた側の人間がどう考えるか。『心配』の二文字が重く感じるときはどんなときか。そういうの、リィやセリを見てると考えさせられるよ。ありがとね。色んなことに気づかせてくれて」
 お礼を言われるようなことじゃない。
 今話してくれたことに対して、私が「ありがとう」を言いたいくらいなのに。
 そんな間もなく背中を押された。
「ほら、行っといで!」
 私と蒼兄は栞さんと唯兄に送り出されて玄関を出た。

 最近の唯兄は、遅くてもきちんと夜に寝ていて、朝もきちんと起きて三人で揃って朝食を食べることが多い。飛び込みの仕事が入ったときだけ、「明日の朝はごめん!」と夜のうちに断わりを入れる。
 エレベーターに乗ると、
「唯の言葉は耳に痛いな」
 蒼兄が苦笑を見せた。
「俺も生活改めなくちゃだめかな?」
 エレベーターを降りるとフロントに視線を向ける。でも、この時間帯のコンシェルジュは高崎さんじゃなかった。
 帰ってくるときにはいるかな……? そしたら、昨日のお礼を言いたい。

 ゲストルームに越してきてから、学校に着く時間が少し遅くなった。
 渋滞などを考慮しなくていい分、家を出る時間自体が遅くなったからだ。
 幸倉から通っていたときは早ければ七時四十五分、遅くても八時前には着いていた。
 それが今は八時前に家を出るから八時十分とか。
 その時間は一番のりギリギリの時間で、自分が席に着く前に二番目の人が来てしまったりする。
 大きな差はないのかもしれないけれど、自分の席について一息ついてから人が入ってくるほうが落ち着く。
 今日は八時過ぎには教室に着いたから、ちゃんと一番のり。
 昨日、ツカサが桃華さんから預かってきてくれたノートを自分のノートに写す時間が取れそう。
 昨夜は写すのは後回しと言われ、先に授業内容の確認を済ませ、わからないところのみ教えてもらった。
 す、と後ろのドアが開く音がする。
 振り返ると桃華さんが立っていた。
「おはよう」と声をかけたけれど、桃華さんは無言で歩いてきて自席の椅子を引く。
 席に着くと、きれい過ぎる笑みをにこりと浮かべ、「おはよう」と口にした。
 この笑みはなんだろう……。
「昨日一昨日と何があったのか、蒼樹さんは教えてくれなかったのよね」
 え……?
「知りたいなら翠葉から直接聞いてって言われたからそうすることにするわ。いったい何があったのかしら?」
 あ――蒼兄は言わないでくれたんだ。
「言いたくないこと?」
「……言いたくないというか、自爆しちゃっただけなの」
 別に隠すことじゃないのかもしれない。私はただ――
「みんなと一緒にいたくて、滋養強壮剤を飲んでいたの」
 ただ、大好きな人たちと一緒に何かをしていたかった。
「でも、やっぱりだめみたい……」
 苦笑して答えると、「バカね」と一言。
 痛いけど、仕方がない。
「今は?」
「体調のこと?」
「そう」
「四日間続けて飲んだから、あまり良くはないみたい。でも、薬で対応できる範囲内。まだ少しの間は不安定な状態が続くみたいだけど、本当に自業自得だから仕方ないの。心配かけてごめんね」
「……その割にはすっきりした顔してるのね?」
「え……?」
「前ならもっとつらそうな顔をしたと思うんだけど……」
 日本人形みたいな顔を傾げると、艶やかな黒髪がさらりと動いた。
 芯があってしなやか。その様はまるで桃華さんそのもの。
「うん、意外とすっきりしてるかもしれない」
 それはやれるところまでやらせてもらったから。ギリギリのところまで待ってもらえたから。
 そのうえ、そこでお終いではなかった。ツカサと唯兄が「その先」を作ってくれた。
「不完全燃焼は不完全燃焼なんだけど、ここまで無理したこと自体が初めてかもしれないの。それも、先生や家族、みんなわかっていて倒れるギリギリまで待ってくれた。たくさん心配かけちゃったことは本当に申し訳ないのだけど、それがものすごく嬉しかったのかな……。納得できないことはたくさんある。でも、不満だけじゃなくて、今回こんな行動に出たからわかったこともたくさんあって……」
 桃華さんは何も言わずに耳を傾けてくれていた。
 若干、口が開き気味なのが珍しいと思う。
「生徒会も、やめたくないけどやめなくちゃいけないかなって考えていたのだけど、紅葉祭が終わるまではどうしても続けたくて、どうしたらいいだろうってものすごく悩んでいて……そしたら、みんなが活路を見出してくれた」
 本当に――本当に嬉しかった。
「それが一番大きいかもしれない」
 笑みを添える必要なんてない。顔が勝手に笑顔になる。
「翠葉がこんなに話してくれるのも珍しいわね」
「え?」
「思ってることをあまりたくさん話すほうではないでしょ? 口にしても数行で終わるわ」
 そうだったかな……?
「これかしら……?」
「何が……?」
「前に蒼樹さんが言っていたの。慣れるまでは時間がかかるけど、慣れたら意外と話してくれるかも、って」
 そうだったの……?
「話してくれて嬉しいし、こんなに喋る翠葉はなんだか新鮮だわ」
 昨日、栞さんにも同じようなことを言われた気がする。
「あのね、桃華さん。それが特別扱いと言われたとしても、それでも譲れないものってあるのね?」
「たとえば?」
「だって、生徒会の仕事が学校外でできるなんて特別扱い以外の何ものでもないでしょう?」
「でも、あり得ない分量の仕事を振られてると思うんだけど……」
 桃華さんの声は心配と呆れが混じったものだった。
「あの男も周りのメンバーも、会計の九十パーセント近い仕事を翠葉に振ったのよ?」
 ちょっと目がつり上がり気味の桃華さんを見てクスクスと笑う。
「うん。分量的には本当に容赦ない。だってね、あれだけの分量があるにも関わらず、一日にやっていい作業時間は一時間半って制限されているんだもの」
 桃華さんが絶句する。
「嘘じゃないよ? 十時半までしかリトルバンクへのアクセスはできないし、アクセスしてから一時間半経つと、強制的に締め出されちゃうの」
 桃華さんは目を白黒とさせている。
「あれ? このことって知られてないのかな……?」
「聞いてないわよ」
 ならば……と思い、昨夜の警報音の出来事を話すと、
「あの男のやりそうなことよね」
 と吐き捨てた。
「あのね、今までは特別扱いってすごく嫌だったし、そうしてまでその場に留まりたいと思ったことがないの。でも、今は違う。これが特別扱いってわかっていても、それを手放したくないと思う自分がいる。そういう気持ち、負担にしかならないと思ってたんだけど、違うのね? 私、今とても幸せだと思うの」
 言葉にしたことが少し恥ずかしくて、どこかくすぐったくて、頬が少し熱を持った。



Update:2010/06/02  改稿:2017/07/09



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