光のもとで

第12章 自分のモノサシ 40話

 翌朝、起きたときから緊張は始まっていた。
 身体を起こし、ラヴィをぎゅ、と抱きしめずにはいられないほどの緊張。
 でも、避けて通っちゃだめ。きちんと向き合わないと……
 お昼休みになったら香月さんのところへ行こう――。

 蒼兄と一緒に登校し分起点で別れたあと、ひとり桜並木を昇降口に向かう。
 紅葉祭一週間前の一昨日から、運動部の午後練はほとんどなくなった。
 その分、朝練はきっちりするらしく、校庭からはホイッスルの音や人の掛け声が聞こえてくる。
 こういう音はとても学校らしくて、今自分が学校にいることを再認識させてくれる。
 いつもなら、この時間帯にはほとんど人を見かけない昇降口も、この時期には生徒の行き来が盛んだ。
 突然声をかけられ挨拶を交わすことにも少しだけ慣れた。
 相手がどこの誰だかわからないことがほとんどだけど、それでも「おはようございます」と答えられるようになった。
 紅葉祭の準備に入り、たくさんの人から声をかけられるようになってだいぶ慣れているはずなのに、それが紅葉祭の内容ではなく普通の挨拶だと、「誰だっけ?」という疑問が先に立ち、なかなか挨拶を返せないでいた。
 反射的に返したとしても、その人の顔を見た瞬間に「おはようございます」が疑問文のイントネーションに変わってしまう。つまり、「おはようございます?」になってしまうのだ。
 そんな私を見て佐野くんが教えてくれたこと。
「御園生はさ、朝散歩してるときとかに人に話しかけられることない?」
「あ……時々犬のお散歩をしている人とか、公園でラジオ体操しているおじいさんとか。たいていは近所の人なのだけれど」
「そのときはどうする?」
「普通におはようございますって言う」
「それと同じだよ。『近所の人』が『学校の人』になるだけ。そのうち顔も覚えるだろうし、もしかしたら名前だって覚えるかもしれないだろ? そうやって『顔見知り』になって次は『友達』になったりするんじゃない?」
 佐野くんに「難しいことじゃないよ」と教えてもらってからは、相手が誰かわからなくても普通に挨拶を返せるようになった。
 知らない人との挨拶をいくつか交わし、一年B組の自分の席に落ち着く。
 席に着いてほっとするなんて、中学ではあり得なかった。
 そんなことを思い出しながら、かばんの中身を机に移していた。
 たいていこの作業をしていると桃華さんが後ろのドアから入ってくる。
 そんなふうにいつもと変わらない一日が始まった。
 いつもと変わらないけれど、お昼休みが近づくにつれて、胃がキリキリと痛みだす。
「翠葉、具合悪い?」
 振り返った海斗くんに訊かれる。
「ううん、そういうわけじゃないの。ちょっとしたプレッシャーかな」
 曖昧に笑って返すと、「何に?」と単刀直入に訊かれた。
 別に隠すことではないし、隠したいと思っているわけでもないのだけど、今ではなく、終わったあとに報告したい。
 みんなは話してくれれば良かったのに、と言うかもしれないけれど、今回は自分できちんと片付けたい。
「放課後までには話すね」
 だから、もう少しだけ待ってね。
「昨日の香月さんのことで何か抱えてるんじゃないの?」
 飛鳥ちゃんから真っ直ぐな視線を向けられて、胸がチクリと痛んだ。
 昨日は香月さんのことよりもツカサに言われた言葉が心を占めていて、誰かと話す余裕がなかった。誰とも何も話したくなかった。
 だから問いかけの返事にもならない「大丈夫」なんて言葉を返しては、美都先輩が待ってくれているのを理由に逃げるようにして教室から出たのだ。
「香月が何か言ってきたの?」
 海斗くんが飛鳥ちゃんに尋ねると、
「表向きはそうじゃなかったけど、でも私はなんか引っかかった」
「どうなの?」という視線が四方から向けられる。
「ごめん、その話をするのはもう少しあとでもいい? 今日中には話すから」
 そう言うと、それ以上問い詰められることはなかった。
 私はいつだってこの優しさに救われている。
 本当なら昨日だって飛鳥ちゃんにそう話せば良かったんだよね。
 私、どれだけ頭回ってなかったのかな。

 昼休みになるとすぐに香月さんに会いに行くことにした。
 悩んでいたのはお弁当を食べてから行くべきか、お昼休みなったらすぐに行くべきか。
 私がG組に着く頃には、香月さんはお弁当を食べ始めているかもしれないし、もしかしたら学食に行く途中で廊下で会うことになるかもしれない。
 それでもあとより前を選んだのは、昼食後の時間を紅葉祭の準備にあてるかもしれないし、G組の五時間目が体育や教室移動のある授業だと迷惑をかけてしまいそうだから。
 席を立つと、
「翠葉、どこ行くの?」
 海斗くんに訊かれ、いつものメンバーの視線が集中する。
 嘘はつきたくない。でも、まだ話したくはないから、
「帰ってきたら話すね」

 教室を出た途端に緊張がピークになる。
 私にとっては香月さんのクラスまで行く、という行動自体がすでにハードルの高いものだからだ。
 私のクラスB組は、昇降口から上がってきた階段の目の前にあるし、図書棟へ行くにはA組のほうへ向かって歩く。特教棟へ行くときも体育教官室へ行くときもそれは変わらない。
 つまり、私が一、二年棟の二階を野球場の方へと向かって歩くことはめったにないのだ。
 あるとすれば、トイレへ行くときと、一階なら保健室へ行くときのみ。
 いつもはガランとしている廊下も、今は廊下に出ている人の大半がA組の方へ向かって歩いていた。
 あちこちから「姫だ」という声が聞こえてくるけれど、そのたびにどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
 少しでも自分を落ち着けたくて、とんぼ玉に手が伸びる。しだいにその手は肩へと落ち、左腕にはまっているバングルを制服の上から押さえていた。
 もう夏服ではないから人目につくわけではない。それでも、隠したい心境に駆られる。
 胃がさらにキリリと音を立てた気がした。
「御園生」
 後ろからかけられた声に振り向くと、佐野くんが立っていた。
「そんなカチンコチンでどうするの?」
 人差し指で頭をつつかれた。
「これから御園生がすることは詮索はしない。立ち聞きもしない。でも、そこまで送る」
 そう言って隣に並んでくれた。
 佐野くんはそのまま関係のない話を続ける。
 さっきまで受けていた授業の話や今朝の朝練での話。
 それらを聞いていたら、あっという間にG組に着いてしまった。
「行き先はそこ?」
「うん」
「人、呼べるの?」
 正直、自信はないし怖いとも思う。でも、それじゃだめだから……。
「自分で呼ぶよ」
「じゃ、ひとつ伝授。ドアを開けたら一番近くにいる人に、呼んで欲しい人の名前を伝えること」
「……うん、そうしてみる。ここまで一緒に来てくれてありがとう」
 心からお礼を述べて、G組のドアを開いた。

「あの、香月さんいらっしゃいますか?」
「うっわっ! 姫じゃんっ!」
 声をかけた男子が大げさすぎるほどに驚いて、クラス中の視線が自分に集まる。
 こういうのは苦手だ……。
 きゅ、と目を閉じてしまった、と思う。
 ここから目を開けるのはものすごく勇気がいるからだ。
「小野田、騒ぎすぎよ」
 聞き覚えのある声がして目を開けると、目の前に香月さんがいた。
「香月さん……」
「私に用なんでしょ? ここじゃ無理でしょうから外に行くわよ」
 香月さんは私の前を通り過ぎ、昨日と同じように階段を下り始めた。
 一階に着けば、もうそこに人影はない。
「で、何? 昨日の今日で笑いにでも来た?」
 香月さんは、まるで自分を嘲るように笑った。
「そうじゃなくてっ――ごめんなさい、謝りに来ました」
「……は? 意味がわからない」
 突き刺さりそうな視線を向けられ、思わず身を引きそうになる。
 でも、伝えたいことがあるからここまできた。引いちゃだめ――。
「私は昨日、規約を知らなかったとはいえ、一度は紅葉祭が終わったら生徒会を辞めると言いました。でも、やっぱり辞められません」
「規約上仕方のないことでしょ」
「それもあるけど、それだけじゃないから」
 斜にかまえていた香月さんがこちらにしっかりと向き直る。私も佇まいを直し、
「昨日言ったことを取り消してほしいなんて言いません。ただ、昨日の今日で調子がいいのはわかっているけれど、考え直した結果、私はやっぱり生徒会を続けたいです」
「だから何?」
「だから……振られた仕事は責任をもってやり遂げます。それから、勉強もがんばります。誰にも文句を言われないようにがんばります」
「それ、宣言か何か? 私が聞かなくちゃいけないこと? そんなの藤宮先輩あたりにでも言ったらどうなの? 言う相手間違ってるわよ?」
「……私が伝えたいと思ったのは香月さんだったから。自己満足でしかないのかもしれないけれど、香月さんに伝えたかったから。ものすごく不快な思いをさせていると思うけど、ごめんなさい。私は生徒会を辞めません」
「……ものすごく不快だわ。律儀にも程があるでしょう?」
 香月さんは苛立ちを隠すことなく私から視線を逸らした。けれど、すぐにこちらに視線を戻し、
「そんな律儀バカにひとつ――……今あなたがやってる仕事は私にはこなせない。だから余計に悔しいと思うし腹が立つ。でも、私も諦めないから。成績であなたの上に出ることも、会計職に就くことも。……生徒会役員の中途補充は基本ないの。でも、会計だけは別。人員が不足すれば会計だけは必ず補充される。だから、私も諦めない」
 そう言うと、香月さんは来た階段を上がっていった。



Update:2010/06/02  改稿:2015/08/28



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