光のもとで

第14章 三叉路 01話

 ツカサの乗ったエレベーターが見えなくなってから、通路の一番奥まで歩きポーチを開ける。
 玄関のドアを開けて「家」の空気を感じたら、一気に力が抜けた。
 力が抜けたというよりは、腰が抜けた感じがする。
 玄関で靴も脱がずにしゃがみこんでいるところにお母さんが来て、
「翠葉っ!?」
 名前を呼ばれて顔を上げる。
「大丈夫……」
 そう答えたけれど、何がどう大丈夫なのかは自分でも疑問だ。
 とりあえず、うがいと手洗いだけはしなくちゃ……。
 最後の力を振り絞って立ち上がると、その腕を支えてくれたのは蒼兄だった。
「お帰り。……楽しかったか?」
「ん……」
 話したいことはたくさんあるのに、言葉を口にするのもかったるいのはどうしてだろう。
「手洗いうがいして、何か軽く食べたら寝ればいいよ」
 唯兄に言われて頷く。
 でも、何かを食べるという感じでもない。
 胃が受け付けてくれなさそうな予感。
 おかしいな……。ツカサと一緒にいたときはこんなに具合悪くなかったと思うのだけど……。
 手洗いうがいを済ませたあとはお母さんに付き添われて部屋へ戻った。
 すでに人の支えがないと歩けないくらいにフラフラしている。
 さっきまで自分で立って歩いていたことが嘘のよう。
 お母さんに手伝ってもらって着替えを済ませると、
「電話すれば迎えに行ったのに」
「うん」
 答えつつ、私は帰り道の出来事を思い出していた。
 お母さん、私……今はこんなだけど、でもね、電話しないで良かった。
 電話して迎えに来てもらっていたら、ツカサの好きな人を知ることはできなかったし、ツカサの誤解を解くこともできなかった。
 だから、今日の選択は間違っていなかったと思うの。
「今、唯がスープ温めなおしてくれているから、それを飲んでお薬を飲んだら寝ちゃいなさい」
「はい」
 このときから少しおかしいとは思っていたどうして喉が痛いのかな、って。
 唯兄が用意してくれたスープも、結局は半分も飲めずにごちそうさま。
「唯に、ごめんなさい……」
「いいよ。ほら、薬飲んで」
 私は促されるままに薬を飲み、そのまま「おやすみなさい」と寝てしまった。
 次に起きるのは翌朝だと思っていたけれど、違った。
 二時間もするといいようのない吐き気に見舞われ目が冷めた。
 気持ち悪い――。
 トイレへ行こうと思って身体を起こしたけれど、こみ上げるものを押さえきれずにベッドの脇に置いてあったゴミ箱に戻す。
 何度か戻したけれど、しょせん固形物など食べていないのだから、出るのは胃液しかない。
 三回目を戻したとき、部屋のドアが開いた。
「……碧さーんっ。リィ、戻してる」
 唯兄はリビングに向かってそう言うと、部屋に入ってきて私の隣に腰掛けタンブラーを手に持たせてくれる。
「ほら、口も漱いじゃいな」
「ん……」
「吐き気止め飲む?」
 問いかけに頷くと、唯兄はピルケースから薬を出してくれた。
「熱、帰宅時よりも上がってる。今、三十八度二分」
 枕元に置いてあった携帯を見せられ、表示された数字に唖然とする。
 知恵熱、かな。
 この二日間、色んなことがありすぎたから、疲れと知恵熱の両方かもしれない。
 お母さんは洗面器を持って、蒼兄は冷却シートを持ってきてくれた。
 唯兄は蒼兄から受け取ったシートを私の額にピタリと貼ってくれる。
「今は休もう?」
「ん……」
 そのあと戻すことはなかったけれど、頭や身体の節々が痛くて熟睡ができる状態ではなかった。
 熱からか、呼吸が上がって苦しい。
 気づけば夜が明け、窓の外が明るくなっていた。
 意識がある状態で目にできたのはそれが最後。
 あとは、朦朧としていてほとんど覚えていない。
 私は四十度を超える熱を出し、翌朝には病院へ運ばれた。
 まさかのインフルエンザ発症。
 そして、次にこの部屋に戻ってきたとき、「記憶」が戻っているなんて思いもしなかった――。



 身体の倦怠感は度を越していた。
 身体中が痛くて寝返りを打つことすらできない。
 身体が重い。身体は熱いのにひどく寒い。
 頭が割れるように痛い。喉が切れたみたいに痛い。
 熱で唇がガサガサ……。
 薄っすらと目に映る景色はマンションの自室ではない。
 馴染みある部屋――それは、私が夏休みを過ごした病院の一室だった。
「びょ、いん……?」
 どうして……?
「眠り姫のお目覚めか?」
 病室に入ってきたのはマスクをした相馬先生。
「せんせ……?」
「インフルエンザだ」
「いんふる、えん、ざ……?」
「おう、ずいぶん派手に熱出してたぜ? 今もまだ三十九度だ。土曜日から微熱が出ていたが、発熱したのは日曜日。発症のタイミングは微妙だが薬は投与した。効いてくれば少しは楽になるだろうが、もうしばらくは安静だな」
 インフルエンザ……。
「で、今は水曜日の昼だ」
 嘘……。
「嘘じゃねぇ」
 相馬先生は手元の腕時計を見せてくれた。
 そこにはデジタル表示で言われたとおりの日時が表示されている。
「寒くねぇか?」
「さむ……かんせつ、のど、あたま、いたい」
「見事に声もガラガラだな」
 先生が水差しを口に近づけてくれ、ほんの少しの水分が口に補充される。
 喉も口の中もカラカラだったから、その一口がとても嬉しかった。
 先生はすぐにPHSを取り出し、「布団追加」と一言だけ話して切る。
「関節が痛いのは熱が下がるまでの辛抱だ。こればかりは休んで治すしかねぇ」
「はい……」
 私はその週の金曜日まで入院していた。
 点滴と薬でほとんどを寝て過ごし、時間が進むのなんてあっという間だった。
 蒼兄や唯兄、お母さんは毎日来てくれたけど、感染を避けるために常にマスクをしていて、面会時間も短時間と決められていた。
 金曜日、熱がようやく三十八度まで下がり退院許可が下りた。
「あとは点滴なんざ頼らず消化のいいもん食って体力戻せ。経口摂取が健康の基本だ」
 そう言われて病院を出た。
 このときはまだ何も知らなかったの。
 マンションの自室に入るまで、自分に起きた変化になんて気づきもしなかった――。

 家に帰ると、
「素うどんできてるよ」
 と、唯兄が出迎えてくれた。
 私は自室には寄らず、洗面所で手洗いうがいだけを済ませてダイニングへ向かった。
 五日ぶりのマンションだったけど、あまりにもずっと眠っていたので五日という時間の感覚が私にはなかった。
 何でその時間を感じかというならば、頭が痒いこと。
 髪の毛はぐちゃぐちゃだし頭は油っぽい。
 でも、まだお風呂に入れる状態ではない。
 もう少し我慢しなくちゃいけないにしても、とりあえずまとめたい。
 自室に戻ったら結ぼう……。
 そう思いながら、久しぶりに固形物を口にした。
 分量は食べられないものの、五日ぶりの塩分は身体に染みるように口の中へ広がる。
 まだ味や風味がわかる状態ではないけれど、塩分だけは感じることができて、とても優しい味だと思った。
 薬を飲み歯磨きを済ませ、自室のドレッサーの前に座る。
 髪の毛を束ねるために軽く手櫛を通すもベタベタとした感触が気持ち悪い。
 横になる前に手を洗おう……。
 この状態の髪の毛にはとんぼ玉は使いたくなくて、私はなんの飾りもない茶色のゴムを手に取った。
 自然とドレッサーに置かれているものたちが視界に入る。
 鏡の前に置かれていたのは陶器の小物入れに柘植櫛。そして、スタイリッシュな四角いボトルの香水――。
 自分の中に衝撃が走った。
 ……知ってる。私、これ、知ってる……。
 嘘……なんで、どうして――。
 自分に起きた変化が信じられなかった。
 今まで必死になって思い出そうとしても、どれだけ話を聞いても思い出すことができなかったのに……。
 今、確かにそれは私の中にあった。
 まるで自分の頭が走馬灯にでもなったかのように、記憶が映像となってくるくると回りだす。
 その映像のどれにも秋斗さんとツカサがいた。
 私は入学式の日にふたりに出逢い、それからしばらくして秋斗さんに恋をした。
 私は――秋斗さんを好きになった。
 その記憶は確かにあるのに、なのに今ツカサが好き。
 なんで、どうして――。



Update:2011/12/03  改稿:2015/12/02



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