光のもとで

第14章 三叉路 08話

 今日はツカサにも秋斗さんにも会わずにほっとしていた。
 マンションに帰ってきてゲストルームのドアを開けたけれど、私を出迎える人は誰もいない。
 ダイニングへ行くとテーブルにメモが一枚あった。
 メモにはお母さんの字で、「資料を取りに幸倉へ行ってきます。夕飯までには戻ります」と書かれている。
 私は制服を着替えることもせずアイロンを持ち出し、乾いた洗濯物の中から秋斗さんのハンカチを探し出す。
 縁取りがネイビーの白いハンカチを広げ、しわを伸ばしきっちりと半分にたたんではプレスする。
 それを三回繰り返すと、長方形になったハンカチをもう一度たたみ正方形にした。
 まだあたたかいハンカチを小さな紙袋に入れ、手におさまる大きさのカードにお礼の言葉を添える。


秋斗さんへ

昨日はハーブティーごちそうさまでした。
それから、病院へ送っていただき
ありがとうございました。

翠葉


 ハンカチのお礼はなんと言葉にしたらいいのかわからないから触れていない。
 逃げるように車を降りたことも謝りたかったけれど、やっぱり文章にすることはできなかった。
 何度読み返しても表面を繕っているお礼状にしか見えない。
 十分ほどその文章を見て悩んだけれど、それ以上のものが書ける気はしなかった。


 玄関で靴を履くと、帰宅した唯兄と鉢合わせる。
「あれ? リィ、どこ行くの?」
「秋斗さんのおうち」
「……勉強を教えてもらうって感じじゃないね?」
「うん……ハンカチを返しに行くだけ」
「……ハンカチ? でも、秋斗さん今来客中だけど?」
「大丈夫。……ドアポストに入れてくるから」
「……もしかして、最初からそのつもりだった?」
 私はその質問に答えない。
「ふーん……最近はリィが何を考えているのかよくわからないや。でも、ひとつ――余計なお節介かもしれないけど、秋斗さんがジャケットのあとにハンカチを貸したっていうのはさ、リィにまた会いたいってことじゃないの?」
 唯兄は鋭い。
 秋斗さんは確かにそう言っていた。
「でも……来客中なら仕方ないよね?」
 私はそう言って玄関を出た。

 ポーチを出たところにあるエレベーターが目に入ったけれど、私はエレベーターを使わず階段で十階へ上がる。
 秋斗さんのおうちはゲストルームと正反対の場所に位置するため、十階の通路を端から端まで歩いた。
 音がしないようにそっとポーチを開け、薄い紙袋をドアポストに挟む。
 ポストに落としたときに立つ音すら恐怖で、私は「挟む」に留めた。
 来たとき同様、音を立てないように細心の注意を払ってポーチを閉じる。と、自然と手が胸に伸びため息が漏れた。
「何こそこそしてるんだか……」
「っ……!?」
 すぐそこにツカサが立っていた。
「こそこそなんて……」
「してるだろ? 音も立てずにポーチを開けて、インターホンも押さずにドアポストを使う。それのどこがこそこそしていないって?」
 全部見られていたっ――!?
「あの……今、来客中って唯兄に聞いたから」
「だったら、最初からそう言えばよかったんじゃないの?」
 ツカサと視線を合わせるのが怖い。
 鋭い目にすべて見透かされてしまいそうで、怖い……。
 無意識にとんぼ玉が入っているポケットをワンピースの上から押さえる。と、カサリ、と音がした。
 何かと思ってポケットに手を入れると、見覚え手のあるメモ用紙が二枚。
 鎌田くんとその先輩の連絡先が書かれているものだ。
「連絡、してない……」
「それ、鎌田と誰の?」
「え……?」
「その上のは鎌田だろ? もう一枚は?」
「鎌田くんの先輩……」
 名前は忘れてしまった。でも、忘れたらメモを見てほしいと言われた気がしてメモ用紙に視線を落とす。
「なんで滝口?」
 その声にはじかれたように顔を上げる。
「なんで」の意味がよくわからず、「なんで?」と訊き返す。
「鎌田が連絡先を残した理由は聞いてる。でも、滝口は関係ないだろ?」
「あ……」
 あれは「ナンパ」というものだったのだろうか。それとも、「告白」だったのかな。
 どっちなのかがわからない。でも、どちらかわかったところでツカサに話したいことではない。
「なんで黙る?」
 ツカサの不機嫌がひしひしと伝わってきて思いだす。
 あのとき、嵐子先輩は「アレがもっと大きな低気圧になりそうだから、これはしまったほうがいいよ」と言ったのだ。
「あの、友達になりたいって言われたのだけど――よくわからないっ。でも、鎌田くんには電話しなくちゃいけないから、だから、バイバイ」
 私はツカサの脇をすり抜けた。
 なんでツカサがこっちに帰ってきているのかとか、そんなことにまで頭は回らない。
 ただ、逃げたかった。どんな理由をつけてでもいいから、逃げてしまいたかった。
「翠っ」
 名前を呼ばれて立ち止まる。
 でも、振り向くことはできない。
「俺を避ける理由は何?」
 直球な質問はとてもツカサらしい。
「……避けてない。ただ、やらなくちゃいけないことがあるから」
「それって電話? 勉強?」
「どっちも……」
 それだけ答え、ツカサが乗ってきたエレベーターに乗り込んだ。
「なんで……?」
 どうしてこんな時間にツカサが帰ってくるの?
 普段ならまだ部活をしている時間なのに。
 なんで――どうしてこっちに帰ってきたの?
 ゲストルームの玄関を閉めたあとも、私の心臓はバクバクと忙しなく動いていた。
 ツカサを好きだと気づいたときは別のドキドキだった――。

 誰とも顔を合わせないでいられる場所と時間は限られる。
 それはお風呂に入っているときと寝ているとき。それから勉強をしているときだろうか……。
 私は帰ってきてすぐにお風呂に入り、出てきたあとは夕飯まで休むと告げて部屋に篭った。
 神経が昂ぶっていて眠れないことは百も承知。
 それを落ち着けるために、私は薬を使った。
 台紙が淡い緑色の軽い筋弛緩剤――これはちょっとした精神安定剤にも睡眠導入剤にもなる。
 今の自分にどれだけ有効かはわからないけれど、飲まないよりも飲んだほうがいいに違いない。
 ローテーブルには二枚のメモ用紙があるけれど、今はかけられない。
 メールアドレスも書いてあったから、明日にはメールを送ろう。
 そう決めてベッドに横になった。

 二時間もすると栞さんに夕飯だと起こされる。
 ダイニングには私とお母さんと栞さん、それから唯兄が揃う。
 私は会話には混じらず、一生懸命ご飯を食べる。
「翠葉ちゃん、がんばって食べてくれるのは嬉しいのだけど、大丈夫?」
「大丈夫です。ご飯、すごく美味しいし……それに、このあと勉強しなくちゃいけないからちゃんと食べなくちゃ」
 私は栞さんに笑みを向けた。
 正直、それほど食欲があるわけではない。それに、食べ過ぎれば消化に血を持っていかれる。それでも、食べなくちゃいけないと思った。
 心配をかけないように、これ以上なんの心配もかけないように――。
 私が示せる意思表示なんて限られている。だから、その中で一番効果的だと思えるものをチョイスしただけ。

 私は夕飯を食べ終えると手を洗い、ハープの調弦を始めた。
 練習する時間は取れない。でも、メンテナンスだけは、と思ってのこと。
 ハープの後ろにあるピアノを見て思う。
 もう何日も弾いていない。私、静さんとの約束も守れてない……。
 ここにいたいならピアノも弾かなくちゃ。
 正直、今は楽器に触れるのもつらい。
 痛みとかそういうことではなく、感情が出てしまうから。
 吐き出したい感情はたくさんある。でも、それを聞いた人たちに何を気づかれるかと思うと、触れることが恐怖に変わる。
「あ……」
 ――あった。今の私が弾けるものがひとつだけある。
 私が最も苦手とするもの。バッハのインベンションとシンフォニア。
 これだけは苦手意識が前面に出るため、感情を乗せずに弾ける唯一の楽曲だ。
 これなら人を気にせずピアノを弾ける――。
 私はピアノの上に置いてある専用のクロスで表面についた埃だけを払って部屋へ戻った。



Update:2012/01/05  改稿:2015/12/09



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