冬の遠出ということもあり、じーさんの専属医である藤原さんも同行している。
パレスに来る客にはじーさんの顔は知られすぎている。
変に騒がれることを避けるため、車を裏口につけ従業員通用口からパレスに入った。
そして今は、表の客室ではなくバックヤードにある応接室で待機中。
連絡はしていないが秋兄のことだ、じーさんの到着を知ればすぐここへ来るだろう。
じーさんは従業員が運んできたコーヒーを口にし、藤原さんはその隣で本をめくっている。
藤原さんはじーさんの体調管理はするが、それ以外で私語をするような人ではなく、黙々と本を読み進める。そして俺も、そんな藤原さんと大して変わりはなかった。
そこに秋兄を連れた木田さんがやってくると、じーさんは嬉しそうに話しだした。
木田さんは穏やかな表情でじーさんの相手をする。
会長であるじーさんとこんなふうに話せる従業員はそういないだろう。
そんなことを思いながら、俺は一定の速度で手元の本をめくっていた。
木田さんが空になったコーヒーカップを下げると、秋兄がじーさんにボールペンを手渡す。
それはボールペン型の集音機。ICレコーダーという名の盗聴器。
製薬会社の不正を暴く際に使われたものに酷似していた。
でも、俺が知っているそれは保存する機能があるだけで、リアルタイムで音声を傍受することは不可能。
が、秋兄がノートパソコンを立ち上げたところを見ると、無線機能か何かが追加されたものなのだろう。
「わしに盗聴させるとはいい度胸じゃの」
「そのくらいはしてくれるんでしょ」
俺は間髪容れずに口にした。
そのくらいしてもらわないとここまで来た意味がない。
俺が睨みつけるとじーさんはため息をつき、口元に笑みを浮かべた。
「ったく、どこまでもわしの孫たちじゃの。……いいじゃろう、引き受けよう」
あんたの孫だからこうなんだよ、と言いたい衝動だけは抑える。
「もうひとつ頼まれてほしいんだけど」
秋兄がさっきの俺と同じ口調で話す。
つまり、頼まれてほしいとは言ったが、拒否権はないということ。
「じーさんが彼女に接触するのは森になる」
森……?
「……司、さっき外気温は何度と言っておったかの?」
「一度」
俺は車の中で聞いた気温を答えた。
じーさんは窓の外、空を見ながら口にする。
「あのお嬢さんはそんなところへなぜ行こうと思うのかのぉ……」
俺はいつもの調子で毒を吐く。
「さぁ、自分をいじめるのが趣味なんじゃない?」
こんなところまで来て、この寒さの中森へ行こうなど――
どれだけ自分を追い詰めれば気が済むんだか。
一発殴って治るものならその役を自分が引き受けてもかまわないんだけど……。
「お嬢さんが館内に戻ってきてからでも問題はなかろう?」
じーさんはよほど外に出るのが嫌なのか、提案できるぎりぎりのところまで食い下がる。
それも仕方のないこと。
喘息持ちのじーさんにとって、外気温との差は身体に堪えるのだから。
冷たく乾燥した空気は気管支を刺激し、炎症反応を促進する。
そんなことは秋兄も知っていることだけど、秋兄は引かなかった。
「いや、大ありかな? 彼女もじーさんと同じで寒さに強いほうじゃない。でも、今の彼女は放っておいたら戻ってきそうにないからね。頃合を見計らって館内に連れ戻してほしい。それがもうひとつの頼み」
じーさんだけではなく、翠にかかるリスクも高い。
俺たちにはじーさんと翠のどちらかを選ぶことはできない。
じーさんが会うというのなら、その役はじーさんが引き受けてしかるべき。
「……しょうがないのぉ、わかったわ」
じーさんは口髭をいじりながら窓の外に視線を戻した。
「雪が降ってきそうな空模様じゃの……」
話の成り行きを見守っていた藤原さんが動く。
「会長、予防的にお薬をお飲みください」
「そうするかの」
「吸入器は?」
俺が訊くとじーさんは煩わしそうに、
「持っておるわ」
「ならいいけど……」
パレスにはじーさんの発作に供えた医療設備が併設されている。
何があったとしても藤原さんがいれば大事には至らない。
そんな保険を再度認識することで、俺は気持ちを落ち着けた。
じーさんが部屋を出てすぐ、藤原さんも席を立った。
「どちらへ?」
藤原さんは秋兄の問いかけに振り返らず答える。
「私、盗み聞きするような悪趣味は持ち合わせていないの。……隣、第二応接室にいるわ。何かあったら呼びに来て」
そう言うと応接室を出ていった。
「相変わらず辛辣なことで……」
「言われても仕方ないんじゃないの? 俺だって相手が翠じゃなければこんなことはしない」
「おまえも相変わらずだな」
なんとでも……。
秋兄だってそうだろ……?
相手が翠でなければここまで来たり、こんなことをしたりはしないはず。
しょせん、俺たちは同じ穴の狢なんだ。
秋兄のパソコンから音声が聞こえてきた。
じーさんが翠に接触したことがわかると俺は本を閉じ、聞こえてくる音に意識を集中した。
じーさんの声に気づいた翠が発した言葉は「ろげんさん」。
「ろげん、って何?」
目の前に座る秋兄に訊くと、俺が全く知らない情報がもたらされた。
「じーさん、趣味で陶芸やってるだろ? その作品をうちのデパートの雑貨屋に置いてるんだ。その陶芸作家の名前が『朗元』。ばーさんの和名、『朗良』の『朗』にじーさんの『元』で『朗元』」
じーさんが翠と接触したことは聞いていたけど、まさかそんなこととは……。
「じゃぁ、翠は今喋ってる相手が俺たちのじーさんであることも藤宮グループの会長であることも知らないわけ?」
「知らないだろうね。彼女にとっては大好きな陶芸作家の朗元以外の何者でもないはずだ」
あのくそじじぃ……。
翠とじーさんはいくつか言葉を交わした。
決して多い言葉数ではなかったが、それを話すのにひどく時間を要していた。
そして、きりのいいところまでくると、じーさんはパレスへ戻るように誘導し始める。
翠のことだ。
自分のことではなく、じーさんの身体のことを考えればおとなしく戻ってくるだろう。
翠がポツリポツリと話す言葉を聞いて、こんな盗聴をする必要はなかったかもしれない、と思った。
翠が自分を責めていることには気づいていた。
聞かなくても、話してくれなくても、それだけはわかっていたんだ。
もっと言うなら、自分を責めて何も選ばないことだって想像はできていた。
じーさんは応接室に戻ってくるなり風呂敷の包みを解くように俺に指示する。
包まれていたのは桐の箱。
それを見て、俺より先に秋兄が質問する。
「何それ」
じーさんは木箱を開けると、中に入っているものをそっと取り出した。
馴染みある紫紺の布に包まれていたそれは、藤色のグラデーションがきれいなティーカップだった。
「前に会うたときに約束しておっての。おまえたちがお嬢さんを一向に連れてこぬから渡す機会がなかったんじゃ」
なんで責められるような言い方されてるのか理解不能。
俺も秋兄も無視を決め込んだ。
「狸どもめ……」
誰が……。
じーさんが一番の狸だろ?
そう思ったのは俺だけじゃないはず。
じーさんは翠の身体を気にしたのか、パレスに戻ってきたら風呂に入れるよう従業員へ指示をしてきていた。
翠を待つ間、応接室には会話という会話はとくになく、ただただ重い空気だけがそこにあった。
Update:2012/02/25 改稿:2017/07/18
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