光のもとで

第14章 三叉路 52話

『無事仲直りおめでとう』
 携帯から久先輩の声が聞こえてくる。
「ありがとうございます……?」
 この場合、「ありがとうございます」で合っているだろうか。
『今ちょうど六時回ったところ。司、学校行くでしょ?』
「……行きます」
『じゃぁさ、もう少しゆっくりしていけば? 駅からならバスの始発にも乗れるし、七時四十分までに出れば間に合うから。あぁ、俺のかばんだけ今持ってきてくれる?』
「わかりました」
 私が持ったままの携帯でふたりはそんな話をしていた。
「それなら、私が持って下ります」
『そう? じゃ、お願い』
 それで通話は切れた。

「久先輩のかばんってどれ?」
「ダイニングの脇に置いてある」
 目を向けると、自分がかばんを置いたところとほぼ変わらない場所に置いてあった。
 膝立ちになり立ち上がろうとしたら、ツカサの右手に阻まれる。
「急に立ち上がってないよ?」
 文句を言うと、「違う」と言われた。
 ツカサは左手で自分のかばんを引き寄せると、かばんからお財布らしきものを取り出した。
「シャワー浴びてくるから朝食買って来てほしい」
「え? あ、うん」
 ツカサは先に立ち上がり、私は腕を引かれるようにしてその場に立つ。
 そのまま手を引かれ、
「先輩のかばんはこれ」
 言われなくてもわかっていたけれど、示されたそれと自分のかばんも一緒に持つと、
「なんで翠のかばんも?」
 怪訝な顔をされ疑問に思う。
「朝食買ったら戻ってくるだろ?」
 その言葉にはっとした。
 ――バスで学校へ行くのはツカサひとりではなく私も一緒、ということ?
 私が勘違いしていたの? それともツカサが勘違いしているの?
 久先輩はどう思って口にしたのだろう。
「……何?」
「な、なんでもない……あ、私もっ、何か飲み物を買おうと思って……」
 苦し紛れの返事をすると、
「なら、財布だけ持っていけば? そのほうが荷物が少なくて合理的だと思うけど」
 合理性だけを考えるなら、間違いなくツカサの言うとおりだ。
 私はお財布だけを持ち、ツカサに見送られて五〇一〇号室をあとにした。

 私は誰の仕掛けたトラップに嵌ったのだろう。
 ツカサ? それとも久先輩?
 考えながらエレベーターで一階まで下りる。と、携帯が鳴り出した。
 着信相手はツカサ。
「な、何?」
『俺、その財布がないとバスに乗る金ないから』
「……うん、わかった」
『じゃ……』
 短い会話で通話は切れる。

 マンションを出て路駐してある車に近づくと、車の窓が開く。
「かばん、ありがとっ! 参考書とか入ってるから重かったでしょ?」
「ごめんねー」と言いながらもどこか晴れやかに笑う久先輩に対し、私は困惑顔。
「あれ? どした?」
「あの……久先輩のさっきの言葉ってどんな意味が含まれていたんでしょう」
「え? さっきのって?」
 きょとんとした顔が向けられる。
 その向こうから唯兄がひょい、と顔を出し、
「あれ? リィ、かばんは?」
「……質に取られたのか、質を持たされたのか、ちょっとわかりかねる状況?」
「は?」
「あのね、これ、ツカサのお財布で、朝ご飯を買ってきてって頼まれたの。それと、今電話でこれがないとバスに乗るお金がないって言われた」
 その場の空気が一瞬にして固まる。
「バスで登校って、私はてっきりツカサだけかと思っていたのだけど……」
 その先は久先輩と兄ふたりで意見が割れた。
「え? 翠葉ちゃんも一緒にゆっくりしていけばいいじゃん。俺、全然気にしないよ?」
「リィまで朝の混雑したバスに乗ることないっ」
「翠葉は帰って少し休め」
 私は三人の顔を順番に見てため息をつく。
「かばん持たせてもらえなかったし、何よりもツカサのお財布がここにある」
 黒い皮製のお財布を両手で持ち、車の窓辺に置いて見せる。と、車内の三人は揃って「確信犯」と口にした。
「でも……何? 翠葉ちゃんは司とふたりでバス登校嫌なの?」
「嫌、というか……」
 私は久先輩のかばんを持って下りたら、その足で車に乗って帰るつもりでいた。
 きっと、蒼兄たちもそのつもりでいただろう。
「クゥ……今日さ、リィ、一睡もしてないんだよねぇぇぇっ」
 口元を引きつらせた唯兄が、久先輩のこめかみを拳でぐりぐり攻撃する。
「そうだったのっ!?」
「そーなんですぅっ。さっきっから不整脈連発してんのっ」
「いた、いだだだだっっっ」
 まるでコントのようなふたりを見つつ、自分の胸に手を添える。
 正直、不整脈が体調の悪さからきているものなのか、場の状況に応じて変化しているものなのかはわかりかねる。けれども、規則正しく動作していないのは確かだった。
「わー……ごめん。ただ、もう少しふたりにしてあげたいかな、って思っただけなんだ」
 久先輩の言葉を疑問に思う。
「どうして、ですか? ……もう仲直りはしたのに」
「……今回はさ、司、かなり堪えてたからね。早い話、翠葉ちゃんを失うかもしれないって瀬戸際にいたわけでさ……」
 言われてゾクリと悪寒が走る。
 それは自分が逆の立場だったら、と考えたから。
 想像をするのに時間などかからない。いとも簡単に思い出すことができる。
 私はその闇の深さを知っている。底知れない不安と恐怖――。
 あれは、そう簡単に忘れられるものではない。
 何度となく恐怖に呑まれ、やみくもに手を伸ばした。縋るものが欲しくて、あたたかな手が欲しくて――。
 その手を掴んでくれたのはツカサだった。
 ……ツカサがあんなにも強い力で私を抱きしめていたのは、その恐怖を感じていたから?
 声が思考を寸断する。
「でも、きついなら俺がその財布預かるし。今から部屋に戻って翠葉ちゃんのかばん取ってくるよ」
 久先輩がドアを開けようとしたのを外側から押さえた。
「唯兄、蒼兄……。あとからツカサとバスで帰る」
「リィっ!?」
「ごめんっ――でも、学校は休むって約束するからっ」
「ちょっと、あんちゃんっ」
 唯兄が蒼兄に援護を要求すると、蒼兄はハンドルにもたれかかり苦笑を浮かべていた。
「唯ももう知ってると思うけど、こういう顔して決断したとき、翠葉の意思って揺るがないんだよね」
 言い終わると笑みをなくし、真面目な顔つきになる。
「ただし、約束は守ること。帰ってきて休んだら病院へ行く。いい?」
「うん」
「それから、翠葉の体調が良くないことは司に連絡する」
「っ!? それは嫌っっっ」
「リィ、そこは譲れないよ」
 兄ふたりに立ちはだかられると、それを越えられる気がしない。
 ものすごく頑丈で高い壁になる。
「翠葉、司だって知らないよりは知っていたほうがいいはずだ。何も知らないで翠葉が倒れるのは結構きついよ」
 そう言われると何も言えなくなってしまう。
「……なんか、ごめんね? 俺、翠葉ちゃんの体調まで気が回ってなくて」
 久先輩が申し訳なさそうに、私たち兄妹の間にいた。
「ホントだよ、まったく……」
 そう零したのは唯兄。
 私は、久先輩に対し「感謝」の一言に尽きる。
「いえ……ツカサのこと、教えてもらえて良かったです」
 教えてもらわなかったら、ツカサが抱える恐怖心にまで気づくことはできなかったと思うから。

 マンションの二軒先にあるコンビニまでは唯兄が一緒に来てくれた。
「司っちはブラックだよね? なら、このコーヒーがうまい。んで、朝食はサンドイッチでいいでしょ? リィも食べなよ? ほら、レタスがいっぱい入ってるハムのサンドイッチがある。好きでしょ?」
 唯兄が買い物カゴにサクサクと商品を放り込み、あっという間に買い物は済んだ。
 車に戻ってくると久先輩に部屋の鍵を渡される。
「基本、盗まれるものは置いてないけど、一応ね」
「はい。鍵を閉めたらツカサに預けますね」
「お願い」
 私は車を見送るために一歩後ずさる。と、
「ただでさえ置いていくのに気が引けるんだから、とっととマンションに入ってよねっ?」
 唯兄に怒られた。
「ごめんなさいっ」
「いいよ、別に。……ただ、倒れずに帰ってきて」
 その約束は難しい。
 自分の体調はだいぶ把握できるようになってきたけれど、コントロールできるか、という問題とは別だから。
「無理はしない」
 私はそう答えることしかできなかった。

 五階へ戻りそっとドアを開けたら玄関にツカサが立っていてびっくりした。
 お風呂上りのツカサは壁に背を預け、首にバスタオルをかけたまま両腕を組んでいた。
「ツカサ、風邪ひくっ」
 マンションの室内とはいえ玄関だ。
 お風呂から上がって制服のズボンにシャツ一枚、という格好は薄着だと思う。しかも、髪の毛はまだ濡れたまま水が滴っている。
 私は手に持っていたお財布やビニール袋をその場に放り、ツカサの首にかけられていたバスタオルに手を伸ばす。
 背伸びしてわしわしと頭を拭いていると、背に腕が回され引き寄せられた。
「つ、ツカサっ!?」
 びっくりしたけれど、いつかの自分と同じだろうと思った。
 身長差があるから縋られているようにも頼られているようにも見えない。
 けど、こんな私でもつっかえ棒くらいにはなれるだろうか。
「ツカサ……何度選択させられても私の答えが変わることはないよ。それだけは信じて?」
 言葉のままに伝わってほしくて、ゆっくりと、噛みしめるように話した。
「……翠はバカだ」
 首のあたりにこもった声が聞こえる。
「なんで戻ってきた……?」
「……なんでって、ツカサがお財布がなかったらバスに乗れないって言ったんでしょう?」
「……嘘はついてない。バスには乗れない。でも、携帯さえあれば警護に付いている人間を呼びつけることも、コンシェルジュに迎えに来させることもできる。ここから藤山に戻る術が全くないわけじゃない」
 言われて気づいたのだから、「バカ」と言われても仕方がないのかもしれない。
 よくよく考えてみればツカサにだって警護はついているはずだし、携帯さえあればコンシェルジュを呼ぶこともできただろう。何より、ここはホテルにも近い。ホテルの人に頼むこともできたかもしれない。
 でも、それならどうして――……不安、だから?
 私はタオルから手を離し、
「ツカサ、唯兄お勧めのコーヒーとサンドイッチを買ってきたから、ちゃんと髪の毛乾かしてから食べよう? 私も朝ご飯食べなくちゃ」
 頭にタオルをかぶせたままツカサの両腕を掴むと、背中に回されていた腕がゆっくりとほどかれる。
 私はツカサの手を取り直し、ドアが開いたままの洗面所に向かって歩きだした。
 顔は見ない。何度も「見るな」と言われるのは堪えるから。
 背中を押してツカサを洗面所に押し込めると、私は買ってきたものを持ってリビングへ向かった。



Update:2012/06/14  改稿:2016/01/18



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