光のもとで

最終章 恋のあとさき 35 Side Kazuki 01話

 先日と同様、今日も九階には涼先生の姿があった。
 それは来年四月、藤宮病院内に相馬鍼灸治療院別院を立ち上げるための打ち合わせ。
 しかし、その打ち合わせが終わってもなお腰を上げようとしない。
「今日も……ですか?」
「えぇ。今日も、ですね」
 医者自ら足を運んで診察をしにくるとは――それだけ熱心な医者なのか、スイハの状態が極めて悪いのか。
「貧血が……」
「は?」
「貧血が進んでいる気がするんです」
 貧血……。
 その言葉を少し考える。
 涼先生は消化器科を専門としている。そこを基軸に考えるなら、「貧血が進む」の意味はひとつしかない。
 つまり、血液成分上に起こり得る貧血。脳貧血とは別物だ。
「ですので、今日は百歩譲って採血まではさせていただく予定です」
 物腰穏やかに口にしては、す、と立ち上がり足音の方へと身体を向けた。
 そこには、母親と一緒に来たスイハが立っていた。
 俺の頭には捕食者被食者の文字が浮かぶ。
「どうして……」
 スイハは言いながら後ずさる。
 ま、そのくらいには嫌われてんだな。人としてではなく、医者として。
「そうですねぇ……挨拶、ですかね?」
 涼先生は先日と同じ手法を繰り出した。即ち、挨拶と言って右手を差し出す。
 しかし、さすがのスイハも今日はそれに応じない。
「……いえ、あの……もう胃カメラの予約は入れられてしまったし、逃げませんから……」
「ですが、身体は後退してるように見えますが?」
「いえ、そんなことは……」
 縮みあがった蛙と、獲物をロックオンした蛇。そんなたとえを想像しながら見ていると、
「では、脈を見せてください」
 スイハは仕方なしに右手を差し出し捕まった。
 捕獲完了を見届けてから口を挟む。
「スイハ、あんま手間取らせんな。その人、一応多忙な身なんでな」
 打ち合わせの時間をこの時間にしたのも、移動のタイムロスをなくすためだろう。打ち合わせも実に簡潔に終わった。
 人が多く、意見もさして出揃わない無駄な会議をやられるよりも眠くならなくていい、と零したことがある。
「うちではそのような会議は行われませんよ。もし、そのような会議をしていたら減俸ものですね」
 涼先生はにこりときれいに笑ったが、俺には底冷えする笑みにしか見えなかった。
「そうですね。決して暇つぶしにここへ来ているわけではありませんね。診察の合間を縫って来ていますので、おとなしく診察させていただけると嬉しいのですが」
「あの……私、消化器内科の予約は入ってませんし、お忙しい先生自ら出向いてくださらなくても……」
 あくまでも診察を拒むスイハを母親がピシャリと一蹴する。
「翠葉っ、時間を割いて来てくださっているのにその言い方はないでしょうっ!? 涼先生、すみません……」
「いえ、いいんですよ。お嬢さんの言うことも一理あるので。私が放っておけなくて診に来ているにすぎませんから」
 よくある患者保護者と医者の図を見ていると、患者本人のスイハは実に居たたまれない顔をしていた。
「では診察をするのでこちらへ。お母さんは廊下でお待ちください」
「はい、よろしくお願いします」

 涼先生と入れ替わりで病室に入ると、スイハはいつも以上に青白い顔をしていた。
 採血をしたから、という類ではない。来たときからそんな顔色だった。
 脈診をしても「最悪」の二文字しか並ばない。
 涼先生の言っていたことが気になり下瞼を見たところ、粘膜は見事に白んでいた。
 ……貧血、だな。
 採血の結果もそのように出るのだろう。
 入院している間も食は細かったが、貧血になるほどではなかった。今も飯は食ってるようだが、ここまで顕著に症状が出ているとなると、考えられるのはひとつ――体内で出血が起きている。
 一番疑わしいのは潰瘍……。
「幸倉に帰ったんだろ?」
「帰りました……」
 最後の声音が消えると、思いつめた顔で吐き出した。
「でも、何をやっても身が入らないんです……。ピアノを弾いても本を読んでも、カメラを持って外に出ても楽しくない……。先生、どうしよう――」
 カタカタと震える身体を自身の腕で抱きしめる。
 そんな姿を見て思う。細ぇな、と。
 どうにかできるものならしてやりたい。が、しょせん、自分をどうにかできるのは自分しかいない。
 周りの人間はきっかけを与えることはできても、そのきっかけを足がかりに立ち上がれるかどうかはその人間しだい。
 怪我をした痛々しい動物を保護してやったところで、それは一時的な保護でしかない。
 俺は、「探せ」の一言しか言うことができなかった。
 こんなとき、自分の性格を恨みがましく思う。
 相手は十七のガキだ。
 まだ世間も知らず、処世術だって心得てはいない。そんなやつ相手に手厳しいことを言ってどうする。
 そうは思うが、自分は保護者ではないし、保護者になどなろうとも思わない。
 だからこそのスタンス。
「自分が楽しいと思えること。どうしたら気持ちが楽になるのか、自分で探すことも必要だ」
 これを突き放されたと思うかはスイハしだい。
「与えてもらうことに慣れんな。もっとあがいてみろ」
 野生動物の子ども時代は短いんだぜ? おまえ、仮にももう十七年生きてきてんだろ?
 もう少しがんばってみろ。
「……次は二十三日にパレスで昇の治療。二十八日月曜日が年内最後の治療になる」
 それだけを言うと、スイハを残して病室を出た。

 廊下にはスイハの母親、碧が立っていた。
「いつもありがとうございます」
 丁寧に腰を折られる。
「いえ、自分は自分にできることしかしていませんので」
「十分すぎるくらいです。翠葉は……私たちにはあんなふうに悩みを打ち明けてはくれませんから」
「そうですか……」
 一応、自分でどうにかしようとあがいてはいるんだな。
「自分でよければ話は聞きますが……。何分、こんな性格なものですから、お宅のご子息ほど優しく接することはできません」
 スイハと良く似た面立ちの女はクスリと笑う。
「優しく接することだけを優しさとは言いませんわ。それに……あの子はそういう優しさとは別の優しさを求めているんだと思います。だから、兄ではなく先生……なのではないでしょうか」
 容姿からは想像できない芯の強さを感じた。
 あぁ……スイハの芯の強さは母親譲りか。
 そんなことを思いながら、病室から出てきたスイハを迎え、似たり寄ったりのシルエットふたつを見送る。
 ……スイハ、話なら聞いてやる。けどな、そこからどう立ち上がるかは自分しだいだ。
 おまえ、母親譲りの芯の強さを持ってんだろ? ……なら、着地点さえわかれば真っ直ぐそこに向かっていけるさ。
 今は自分と向き合い周りを良く見て――探せ。



Update:2013/07/21  改稿:2017/07/26



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