光のもとで

最終章 恋のあとさき 56話

 ぼんやりと意識が浮上する。
 頭の中は霞がかっていて、目を開けても開けなくても同じような気がした。
 苦しい……。
 口に何かかぶせられているのか、だから苦しいのか――。
 耳を澄ますと、加湿器の運転音らしきものが聞こえ、少し離れたところからは人の声が聞こえた。
「それではこちらにサインと捺印を」
「はい」
 この凛とした声は藤原さん。それに答えたのはお父さん。
 目を開けると、すぐ近くでお母さんの声がした。
「先生っ、翠葉が……」
 間もなくして私を覗き込んだのは白衣を着た紫先生だった。
「気分はどうだい?」
 気分……。
 気分がどうというよりも息苦しい。胸が、とても苦しい。
 口元を覆うものを外したくて、手を伸ばそうとしたら止められた。
「嫌かもしれないけど、今はこれを外しちゃだめだよ」
「ここ……」
「ここは藤倉の病院だ。安心していいよ」
 安心……。
 場所を確認するために顔を右へ向けると、窓の外が暗かった。
 夕方……?
 今日は朝から何をしていただろう……。朝から――。
「っ……朗元、さんっ」
 急に起き上がろうとした身体を押さえつけられる。
「翠葉ちゃん、落ち着きなさい。父は大丈夫だから。今はすべての処置を終えて回復を待っているところだ」
 胸が苦しくて胸部の着衣を握りしめる。と、いくつもの吸盤が胸に取り付けられていた。
 それが心電図の装置であることはすぐにわかったし、今は朗元さんのことが知りたい。
 回復を待つって何? どういうこと?
 紫先生の目をじっと見つめてもそれ以上は話してもらえない。
「御園生さん、医者の守秘義務を察してくれないかしら?」
 会話に加わったのは藤原さんだった。
「いくら御園生さんでも家族ではない限り、患者の容態はそうそう話せるものじゃないのよ」
 きっぱりと言われ、少しだけ冷静になる。
 確かにそうだ。私は朗元さんの家族じゃない。ただ、発作を起こしたときに居合わせただけ。それだけ……。
「でも、これを聞けば少しは不安が和らぐんじゃないかしら?」
 藤原さんはいつもと変わらず無表情に近いそれで話を続けた。
「藤宮が経営する施設には医療設備が充実した医務室を併設しているの。会長がいつどこで重積発作を起こしても、その場に医師さえいれば緊急処置が行えるように。……つまり、パレスで発作を起こしても医師がその場にいれば病院でする処置と同等の対応ができるのよ。……ただし、さすがに大きな手術まではできない」
 藤原さんが言葉を区切ると紫先生が話を継いだ。
「パレスで父の処置はできる。でもね、翠葉ちゃんには応急処置しかできないんだ。だから、君を優先して病院へ運んだ」
 話が自分に戻された。
「人の心配もいいけど、少しは自分の状態を把握したほうがいいんじゃないかしら?」
 藤原さんに言われ、はっとする。
 紫先生と藤原さんの反対側には深刻な顔をしたお父さんとお母さんがいた。
「翠葉ちゃん、君は手術を受けなくちゃいけない」
 しゅ、じゅつ……?
 一瞬何を言われたのかがわからなかった。
「心臓に過度な負担がかかったことで病状が悪化したんだ。以前に話したことがあるね。僧帽弁逸脱症が悪化すると僧帽弁閉鎖不全症になる恐れがあると。今はその状態だ。弁膜がきちんと閉まらず、血液の逆流が頻発している。胸が苦しいのはそのせいなんだ。こうなってしまうと温存療法というわけにはいかなくてね……手術するしかないんだ」
 今までに何度となく心臓の説明は受けてきた。だから、内容を理解できないわけではない。
 現在進行形で胸が苦しいのもきちんと体感している。なのに、どうしてか自分の話を聞いている感覚には程遠い。
「幸い、人口弁に置換するのではなく、翠葉ちゃん自身の弁膜を形成する手術でなんとかなりそうなんだ」
 それはどのくらい大変なことで、どのくらい幸いなことなのだろう……。
 少し考え、お父さんとお母さんが深刻な顔をするくらいには大ごとなのだと察する。そんなふうにしか捉えることができなかった。
「うちの病院にはその手術をするための内視鏡ロボットがあるんだ。だから、開胸することなく手術を行える。胸を開かないということは、それだけ回復時間も短縮できるということなんだよ」
 回復時間の短縮……?
 そこで初めて大きな衝撃を感じた。
 心臓の手術なのだ。手術してすぐに退院できるわけがない。回復時間――それはどのくらいかかるものなの? 三学期には間に合うの?
「不安かい?」
 いつもと変わらない柔和な笑顔で尋ねられる。
「不安なことは口に出してごらん。手術のことも手術後のことも、私が答えられることはすべて答えるから」
 私は咄嗟に開いた口を閉じた。
 今、私の身体はとても不安定な状態で、手術が必要なほどには危険な状態なのだろう。そんな状況下で留年の心配を口にしていいものなのか――。
 逡巡していると、紫先生の手が伸びてきて目尻の涙を拭われた。
「なんでもいいよ。言ってごらん」
「……どのくらい、かかりますか? 退院、まで」
「……胃潰瘍からきている貧血の状態も良くないから、リハビリも兼ねて一ヶ月……もう少しかかるかな」
 一ヶ月……。長い、長すぎる。夏休みと変わらない。
 取り乱さないように、これ以上涙が零れないように目を閉じた。すると、
「あなた……諦めるの早すぎよ」
 絨毯を踏みしめる音が近づいてきて目を開けると、すぐそこに藤原さんが立っていた。
「確かに術後一ヶ月は入院になるでしょう。でもね、うちは藤宮なの。良くも悪くも藤宮なのよ。御園生さんが望むなら、病院にいながらにして授業を受けることも、レポートを提出して留年を回避する方法もある。それを受け入れるも拒むも御園生さんの自由よ」
 衝撃的な言葉だった。
 ずっと、嫌だと思っていた。特別扱いだけはされたくないと思っていた。でも……特別扱いされることより何より、みんなに置いていかれるほうがもっと嫌。置いてきぼりになるのはもう嫌――。
 藤原さんを見ると、口角を上げられる。その表情がツカサや湊先生とかぶった。
 隣の紫先生は朗元さんと同じように髭をいじりながら話しだす。
「今、秋斗と君のお兄さんふたりがシステムの最終チェックをしているそうだよ」
「え……?」
「学園の許可は夏に下りているからね。あとはシステムを稼動させて最終チェックをするだけだそうだ」
「秋斗くんやお兄さんたちに今できることは限られているでしょう? それでも、今自分にできることを精一杯やろうとしているのよ。各々が各々の方法であなたをフォローしようとしているの」
 藤原さんは私から視線移し、ベッドの奥にあるソファセットへ向かって歩きだす。
「たいがい先走りすぎな気はしなくもないけれど……」
 言うと、こちらを肩越しに振り返る。
「だって、御園生さんが『YES』と言うとは限らないのだから」
 ドキリとした。
 夏までの私だったら「YES」とは言わなかっただろう。でも今は――。
 特別扱いでもなんでもいい。方法があるのなら、私は海斗くんたちと一緒に卒業したい。
 みんなと一緒に二年生になりたい……。
「今、翠葉ちゃんにやれることは何かな?」
「……手術を受けて、二年生になれるよう、がんばる……?」
「そうだ。がんばろうね」
「はい……」
 紫先生は優しく頭を撫でてくれた。

 紫先生と藤原さんが病室を出ると、お父さんとお母さんがベッドの両脇に腰掛けた。
 ふたりは私の手を取り、もう片方の手で頭を撫でる。
「手術を受けさえすれば、胸が苦しいのはすぐに取れるそうなの」
 私は何を訊くこともせずに頷いた。
「怖いか?」
 お父さんに訊かれたけれど、このときはそんなに怖いとは思わなかった。
 ただ、こうやって安静にしていても胸が苦しいと思うし、動悸がひどくなる瞬間がある。
 そんなときには多少なりとも不安を覚えた。
 今まで、身体中の痛みに関しては死に直結するものではないと言われてきた。過呼吸だってそうだ。でも、今回のこれは違う。
 手術を受けずに放置したら死ぬ可能性がある。そいう病状……。
 未だ自分の身に起こっていることとは思いがたい。けれど、これが事実、現実なのだ――。
「心配、かけて、ごめんなさ……」
「……なぁに、大丈夫さ。父さんの心臓はだいぶ静と碧に鍛えられてるからな」
 笑って言いながら、くしゃくしゃ、と頭を撫でられた。
「手術の成功率も高いと聞いているし、紫先生の真骨頂は術後のリハビリテーションだっていう説明も受けた。……大丈夫だよ。みんなでがんばって乗り越えよう。翠葉が来年の春には高校二年生になれるように」
「……うん」
「明日も朝から検査があるわ。今日はゆっくりやすみなさい」
「はい……」
 お父さんもお母さんも病院に泊まってくれることになっていた。
 私が入院した部屋は十階の特別室。かつて、何度か訪れたことのある部屋で、果歩さんが入院していた部屋でもある。
 けれども、そこはすっかり片付いていて、ずらりと並んでいたマタニティ雑誌などもなくなっていた。
 これからは、九階のあの部屋に入院することはないのだろう。
 朗元さんと静さんから恩賜を受けた人間だから。ふたりの庇護下に入った人間だから。
 私は見に行くことはおろか、ベッドから下りられる状態でもない。けれど、警備員の詰め所には、私についている護衛の人やお母さんの警護についている人たちがいるのだろう。
 そんなことをうつらうつら考えながら点滴から入れられた薬で眠りについた。

 夜中、胸が苦しくて何度も目が覚めた。
 苦しくてつらいのに、このときほど生きていることを実感したことはなかったかもしれない。
 人はどういうときに生きていることを実感するのだろう。
 痛い思いなら今まで嫌というほどしてきたし、それを放棄したいと思ったことなど数知れない。今年の夏には痛覚神経を切ってほしいと切に願った。
 そんな自分が思うのだ。
 寒い、暑い、痛い、苦しい――それらは確かに生きている「証」なのだと。
 当たり前のことをこんな状態にならないと気づけない私はどれほど愚かだったのだろう。それとも、生きているうちに、心あるうちに気づけたことを喜ぶべきなのか……。

 初めて思った。
 死にたくない、と。
 死んで楽になるよりも、死ぬことが怖い、と。
 初めて、思った――。



Update:2013/04/28  改稿:2016/04/07



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