光のもとで

最終章 恋のあとさき 66話

 流れる涙を拭きもせず、病室にひとり、ツカサの残したメモと向き合っていた。
 この番号は生きている。今からでも遅くはない? かけたら出てもらえる……?
 怖くて番号が押せない。でも、今かけなかったら明日には海外へ行ってしまう。今度こそ本当に、手の届かないところへ。
 意を決して数字を押していく。けれど、最後の通話ボタンを押すことができなかった。
「電話して、どうするの……?」
 なんて言うつもりなの?
 携帯の解約のことを訊くの? 海外へ行くことを訊くの? 訊いてどうするの?
「だめ……訊くだけじゃだめ」
 それはわかるのに、どうしたらいいのかがわからない。
 誰かに話を聞いてもらいたい。誰かと話がしたい。
 今のこの状況を客観的に見てくれて、厳しいこともきちんと言ってくれる人――
 頭に浮かんだのは、終業式の日に悔しそうな顔をした佐野くん。
 佐野くんになら話せる。話をきちんと聞いてもらえる。
 すぐに電話帳から番号を呼び出しボタンを押した。躊躇など、微塵もなかった。
 コール音が三回鳴ると、
『みそ、のう?』
 たどたどしい声で訊かれる。
「佐野くん、今、話す時間、あるかな」
『大丈夫だけど……どうかした?』
「話、聞いてほしくて……。相談っていうか、話、聞いてほしくて」
『……いいよ』
「でも……ちゃんと、わかるように話せる自信はなくて、時間、かかっちゃうかもしれない」
 最後は泣いて縋るような状態だった。
『大丈夫。時間のことは気にしなくていいから。今、宿題終わったところだし』
「あり、がと……」
『なんで、泣いてるの? ゆっくりでいいから、話して』
「……全部、私のせいで――ツカサも秋斗さんも離れていっちゃうっ……」
 電話口で泣いていたら話なんてできないのに、佐野くんを困らせるだけなのに、どうしても涙が止まらなかった。
『御園生、ちゃんと聞くから。少し落ち着こう』
 頷いても意味ないのに、私は携帯を耳に当てたまま必死に頷いていた。
『今、病室?』
「ん……」
『あのさ、海斗から聞いたんだけど、その病室ってパソコン使えるんでしょ?』
「使える……」
『御園生のパソコンにはカメラ内臓されてる?』
「うん……」
『じゃ、顔見て話そう。音声通話のソフトは知ってるよね? 紅葉祭の準備のときに連絡で使ってたやつ』
「うん」
『それ、立ち上げて待ってて。御園生のアカウントは知ってるから俺からコンタクトする』
 自分のノートパソコンの電源を入れソフトを立ち上げた直後、佐野くんからコンタクトがあった。
 携帯でレクチャーされて、そのとおりに操作するとモニターに佐野くんの顔が映る。
『見えてる?』
 インカムから聞こえる声は、携帯で聞くよりも近くに聞こえた。
「見え、てる……声も、聞こえる」
『こっちも。ちゃんと泣き顔の御園生が映ってる』
 佐野くんはクスリと笑った。
『じゃ、本題に戻ろう。何があった?』
「……三学期が始まってから、授業の補習をツカサと秋斗さんが見てくれていたの。最初は何事もなく、ふたりに交互に連絡をして、交互に見てもらっていたの。でもね、二十一日から秋斗さんと連絡が取れなくなっちゃった」
 私はその経過をすべて話した。
 怖くて誰にも訊けなかったことも、さっきツカサに言われたことも何もかも。
『そっか……。藤宮先輩と秋斗先生もずいぶんな手に出たね』
「でも、私が悪い……。私、秋斗さんともツカサとも離れたくなくて、どちらかひとりを選んでどちらかひとりを失うのが怖くて――選ばないって決めたけれど、それでふたりが傷つくとは思ってもみなかったの」
 そう、気づきもしなかったのだ。どちらかを選んだらひとりが傷つく、そのことしか頭になかった。それなら、どちらも選ばなければいいと思っていた。
『今から話すのは俺の経験則。……好きって伝えて答えがもらえないのはつらいよ。自分がどう動いたらいいのかわからないっていうか、宙ぶらりんな感じがしてさ。そのまま想い続けるのもきっぱり諦めるのも、全部自分で決めることだけど、すぐ側に好きな人がいるとなるとね、やっぱキツイことはキツイ」
 佐野くんは一度言葉を区切った。
『でも、相手に好きな人がいるとか、付き合ってるやつがいるとか、そういうのがわかれば心はしだいに収まるところに収まり始める。そう考えるとさ……先輩も秋斗先生もかなりキツイと思う』
 佐野くんは頭を掻きながら苦笑した。
『だって、御園生は藤宮先輩のこと好きじゃん。しかも、そのことを先輩は知ってるわけで、秋斗先生だって御園生の気持ちには気づいてるだろうし。ふたりとも御園生が誰を好きか知ってるのに、御園生が動かないから身動きが取れないことになってる。さらには、御園生はすぐ側にいるわけで……。つらくないわけがない。先輩が言った『すぐ手に入りそうな場所にいるくせに、絶対に踏み込ませないし踏み出さない』ってそういうことを言ってるんだと思うよ。自分を好きだって知ってるのに手も足も出せない。御園生がそう決めてしまったから。勝手に、どちらも選ばないって』
 衝撃的な言葉だった。
「佐野くん――私、ひとりで決めちゃいけなかったのかな? どちらも選ばないって、ひとりで決めちゃいけなかったのかな?」
『いけないわけじゃない。ひとりで答えを出す場合がほとんどだと思う。でも、御園生はふたりにきちんと提示したの? ……ただ、手放したくないからどちらも選ばないって決めただけじゃないの? それに、御園生の気持ちは? どちらも選ばないって決めて、実際の心はどうなの?』
「……それにもとても困っていたの。会えば会うほどツカサを好きになっちゃうし、一緒にいたいと思っちゃうし、話していたいって思っちゃう」
 もう、どうしたらいいのかわからないほどに気持ちが加速していた。心の滑車はブレーキなど利かない状態だった。
 涙は拭っても拭っても留まることを知らない。声はしだいにガラガラしたものへと変わっていく。
『御園生、それ、意外と普通なことだから。あまり困らなくていいと思う』
 佐野くんの言葉に顔を上げる。
「……いいの?」
『うん、その気持ちをちゃんと認めてふたりに話してみなよ。そしたら、ふたりとも「答え」をもらったことになる』
「でも……」
『御園生、厳しいことを言うようだけど、誰も傷つかない道なんてないよ。人を好きになったらどこかで誰かを傷つけているかもしれない。それはごく当たり前のことだし不可抗力なんだ。わかりやすく説明するなら、海斗と立花が両想いで付き合い出したら、立花を好きな俺は傷つく。それと同時に、俺を好きな七倉も傷ついてる。この図式、誰が悪いってあると思う?』
 私は首を振った。
『そう……誰が悪いとかじゃなくて、仕方のないことなんだ。幸せが不幸の上に成り立つとは言わない。でも、そういうものなんだ。誰も傷つかない方法なんてそうそうない』
 佐野くんのたとえはとてもわかりやすかった。
 私は飛鳥ちゃんが佐野くんに告白されたときのことを知っている。飛鳥ちゃんがどんなことに困って、それに対し佐野くんがなんて言ったのかも。自分が口にしたことまで思い出して唖然とする。
 紅葉祭でのことは記憶に新しい。
 佐野くんのつらそうな後ろ姿と、それを追いかけた香乃子ちゃん。何もかも、自分の目で見てきたものだった。
 記憶が戻っていない私は、ツカサを好きと気づいたときにふたりに訊いたのだ。
 片思いはつらくないか、と。相手に好きな人がいるのに好きでいることはつらくないか、と。
 ふたりはつらくても好きだと言っていた。不毛同盟に加わらないかと誘ってくれたのは香乃子ちゃん。

 ――「恋愛ってすごく難しい。好きな人が自分を見てくれてるのなんて奇跡だと思う。だから……もし、好きな人が自分を見てくれたら、私はその恋を緩衝材に包みまくって大切にするつもり。翠葉ちゃんも……翠葉ちゃんも誰かと想いが通じたらそうして欲しいな?」。

 香乃子ちゃんが言った言葉をふと思い出し、そのときの気持ちを思い出す。
 はにかむ香乃子ちゃんが眩しく見えた。好きな人に好きと思ってもらえることは奇跡だと、心からそう思った。なのに私は、その奇跡を――
 ……いいのかな。私は、この気持ちを肯定してもいいのかな。
 いいのか、と自分に問うものの、葛藤を繰り返すばかりだ。
「佐野くん……私、ツカサを好きでいてもいいのかな?」
『いいと思う。それに、御園生はどちらかを選んだらどちらかを失うって思いこんでるみたいだけど、俺や七倉を見てよ』
「え……?」
『俺、立花から離れたか? 海斗から離れたか? 七倉は俺を無視するか?』
「……離れてない。無視、してない……」
『そうだろ? 中にはキッパリ離れちゃうやつもいるけど、それはそいつが弱いだけ。好きな気持ちも好きな人との関係も、一切合財切り捨てなくちゃ自分を保てないくらいに弱いだけだ。俺は秋斗先生がそんなに弱い人だとは思わない。だから、御園生はふたりに応えてあげなよ』
「でも……もうふたりとも私から離れるって決めちゃった」
 ツカサの言葉を思い出してまた涙が零れる。
 動けなかったのは私じゃなかった。動かなかったのが私で、動けなかったのは秋斗さんとツカサだった。
 それでもふたりは動こうとしてくれていたのに、それを私は頑なに拒絶してきた。それも、中途半端に……。
 気持ちをもらうばかりで、何も返してこなかった。何かを返したいとあれほど思っていたのに、思っていただけだった。
 人を傷つけないように、と行動していることが自分を守るための行動になっていたのはこれで二度目。夏と同じだ。家族や栞さんを自分から遠ざけて傷つけた夏と同じ。
 そして、最後とも言える秋斗さんのサインすら直視せず、見て見ぬ振りをした。
 ツカサの言ったとおり。これは今まで私が取ってきた行動の代償に過ぎない。
「もう遅いかもしれない。もう、今までみたいに接してもらえないかも。話してもらえないかも……」
 それくらい、私はひどいことをしてきた。しかも、長期に渡って――
 泣き言を漏らし涙を拭う。けれど、次から次へと涙が溢れてくる。鼻をすすると頭がズキンと痛んだ。でも、心のほうがもっと痛い。
『御園生、こっち見て』
 涙でぼやける中、目を凝らしてディスプレイに映る佐野くんを見る。
『御園生、もといた場所に戻ろうとしないで前に進みなよ。時計は左には回らないじゃん……。それと同じで、人は前にしか進めないようになってるんだ』
「前に進んだら、今までの関係は取り戻せるの……?」
『取り戻すんじゃない。新しく構築するんだ。……前に零樹さんが雑誌のインタビューに答えてたことだけど、壊れたら直すんだって。最善を尽くして建てたものでも、不慮の事故や自然災害で壊れてしまうことがある。そしたらまた作り直せばいい、って』
「つくり、なおす……?」
『そう……。零樹さんは家のどこかが壊れても、全壊しても、もう一度この人に作ってほしいって思ってもらえる家作りを心がけてるんだって。これってさ、建築だけじゃなくて人間関係にも同じことが言えると思わない? もっと言うなら、零樹さんは建築を通して人間関係を築いてるんだと思うけど……。どうでもいい相手ならこのまま離れるのもありだ。でも、違うんだろ?』
 私はコクリと頷く。
『秋斗先生も藤宮先輩も、御園生にとって大切な人たちなら、やり直すんじゃなくて次の関係を築けばいい。御園生が一歩を踏み出すのは新しい関係を築くためだ』
「築く……?」
『そう。再構築じゃ同じ轍踏みそうだろ? だから、同じものを作るんじゃなくて、一歩踏み出して新しく築く。俺はそのための後押しならいくらでもするよ』
「それは……どうしたらいいの? ……私の好きな人を伝えればいいの?」
『つまるところはそうなるかな? そしたら、秋斗先生は間違いなく一区切りつくと思う』
 言われて、ツカサが残してくれたメモ用紙に視線を移す。
「佐野くん……このまま、このままで秋斗さんに電話してもいい? ひとりだとどうしてもボタンが押せないの」
 ディスプレイの中で、佐野くんが「いいよ」と笑った。
『でも、なんか新鮮』
「え?」
『こういうの、普通は女同士だったり男同士ですることじゃん?』
「……そうなの?」
『うん、たいていはね。でも……そっか。やっぱ俺の考え間違ってなかった』
「どういう、こと?」
『御園生って、男女関係なく友達作ってるでしょ?』
「え? ……友達に男女って関係するの?」
「くっ……俺バカだー。こういうやつって知ってたのにな。知ってたから話してもらえるって自信があって、でも話してもらえなかったから悔しくって……。終業式の日、きついこと言ってごめん。あれ、本心だけど八つ当たりでもあったと思う」
「……どうして、謝るの?」
 確かに衝撃は受けた。でも……嬉しかった。
 あのときは衝撃のほうが強くて色んなことに気づけなかったけれど……。
「私をずっと見てきてくれたから言ってもらえる言葉なんだってわかったら……嬉しかった。だから、今相談するなら佐野くんだって思ったんだよ?」
『……やっぱ御園生変わってるよ』
「そう、かな?」
『うん。しかも絶対にマゾだと思う』
「えっ!? それはないっ。私、痛いの嫌いだものっ」
『そういう意味じゃないんだけど……でも、御園生はいつだって自分に厳しく接する人間ばかりを慕うだろ?』
「……そう?」
『うん。これには自信ある。もし、自分を甘やかす人を好きになるなら、先輩じゃなくて秋斗先生だったと思わん?』
「……佐野くん、私……秋斗さんのこと好きだったよね」
『それ、どんな質問?』
「あ……ごめん」
『いや、いいんだけど……。ま、言わんとすることはわからなくはない。順番を言うなら、藤宮先輩秋斗先生藤宮先輩、じゃない? 俺、四月の球技大会の時点では御園生の好きな人は先輩だと思ってた。でも、秋斗先生のことで赤面してる御園生は確かに恋してるように見えたよ。だから、自分の気持ちを疑わなくていいと思う』
 人に訊いて答えを求めるのは私の悪い癖かもしれない。でも、今は佐野くんに感謝したい。
「ありがとう……。私、自分の気持ちに自信が持てなくて、自分の心が掴めなくて……」
『……いいんじゃん? 時間かけてでもわかろうとしてるだけ』
「でも、人に訊きすぎなのかな、って思った。人を頼りすぎなのかな、って」
『御園生の場合は両極端かな? 基本、言わないじゃん。で、話してくれるときにはもういっぱいいっぱいの状態』
「…………」
『でも、それでもいいんじゃん? 自分の悪いところに気づける人間は直すこともできる。気づけないよりもずっといい。走るフォームみたいなものだよ。悪いフォームで結果が出ないって伸び悩んで、自分を客観的に見れるか、見て気づいてくれる人が近くにいるか――そんな感じ? 教えてくれることを当たり前だと思わなければいいんじゃない? 教えてくれる人がいるのは自分が築いてきた人間関係の結果なんだからさ』
「佐野くんは優しいね。すごく救われた気分。それに、佐野くんのたとえ話はわかりやすい」
『それは良かった。……ただ、欲を言うなら俺たちと親交を深める努力はして? 俺らも待ったり迎えに行ったりするから。その都度、俺たちの間にある時間でものごと進めようよ。たまには立ち止まって後ろを振り返ってもいいから。だから、一緒に前へ進もう。一緒に卒業してその先もずっと友達でいようよ』
「ん……。佐野くん、本当にありがとう」
『よし、じゃ電話してみ。俺はここにいるから』
 私は強い味方を得てようやく秋斗さんに電話をかける心構えができた。



Update:2013/06/24  改稿:2017/07/25



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