光のもとで

最終章 恋のあとさき 73話

 退院してから、私の通院日は月水金から火木に変わった。
 理由は簡単。部活に出るため。
 二学期はものの見事に部活へ行くことができなかった。顔すら出さなかった私はまだ部員としてみなされているのだろうか。
 以前そんな話を相馬先生にしたところ、相馬先生がほかの先生との調整をしてくれ、曜日変更ができることになったのだ。
 循環器内科だけは変わらず月曜日のお昼休みに湊先生が診てくれることになっている。
 退院日には久住先生からのお話もあった。
「今まではサポートする形で治療をしていたのですが、一度麻酔科できちんと治療をしてみませんか?」
「麻酔科での治療……――局部麻酔、ですか?」
「痛みが強いときはそうなります。ですが、カルテを拝見させていただいたところ、まだ試していない治療や薬がありましたので、試す価値はあるんじゃないかと思っています」
 久住先生は医療麻薬に類似した薬を使うと話してくれた。麻薬と聞くと、激痛発作が起きたときに打たれる静脈注射を思い出すため、いい印象はない。
「確かに……静脈に入れる注射ではこの系統のものは使っていましたね。ですが、注射のあとはどうでしたか?」
「薬が入ると急に全身の感覚がもやっとして意識がなくなる……とても強い薬に感じました」
「つまり、痛みは感じなくなったということですよね?」
「はい……。でも、薬が切れれば痛くなります」
「どうやら、あまりいい印象はないようですね」
 久住先生は朗らかに笑う。
「薬が効いているから痛くないのであり、眠くなるんです。薬が切れれば自然と目は覚めますし、痛みも出てきます。とても当たり前のことだと思いませんか?」
 思うけど――なら、どうしてその薬を使うというのだろうか。
「御園生さんが受けてきたのは血中に薬を入れる注射ですが、私が使おうと思っているのは経口薬です」
 飲み、薬……?
「飲み薬ならば病院へ来る必要もありませんし、決まった時間に薬を飲むことで血中成分を維持継続させることが可能です」
 言われていることが理解できないわけではない。ただ、そんな美味しい話があるわけがない、と思ってしまう。
「ですが、副作用はあります。最初は注射のときと同じように眠くなったり眩暈が生じます。ほか、吐き気、口の渇き、便秘などが報告されています」
 やっぱり美味しい話には裏があるのだ。
「ただし、ほかの薬で体験されているものとさして変わりはありません。吐き気に関しては最初から吐き気止めの薬を処方しますし、便秘対策の薬も一緒に処方します。眠気と眩暈に関しては身体が順応するのを待つほかありませんが、早ければ一週間、遅くても二週間あれば慣れるでしょう。吐き気も徐々に治まります」
 薬を飲んで、副作用が出たら処方されるわけではないの……?
 今までならたいていがそうだった。
「御園生さんは薬が効きやすい体質と聞いてますからね。何事もつらい思いをする前に、先手必勝でいきますよ」
 先生は穏やかな表情を崩すことなく話を進める。
「副作用のことを考えると、数週間かけて薬の分量を上げていくのがいいと思います。どうでしょう? うまくいけば経口薬で疼痛コントロールができてしまうかもしれませんよ?」
 まるで、「やってみない手はないでしょう?」と言われている気がした。
 久住先生はとても優しくてきちんと説明をしてくれる先生なのに、どうしてか、自分が悪徳商法に引っかかる寸前の人に思えてならない。
 期待をして裏切られるのは嫌――
 自然と心にブレーキがかかる。やるにしても期待はするな、と。
 今まで飲んできた薬には、そこまで劇的によくなる薬や痛みのレベルを引き下げてくれるようなものはなかった。投薬で疼痛コントロールなんてできたためしがない。どうやったらそんな言葉を信じられるのか……。
「やるだけやってみない?」
 楓先生の言葉に心が揺れる。
 麻酔科の治療を受ける受けないは私が決めていいと湊先生と紫先生に言われていた。
「では、もうワンプッシュしましょう。御園生さんはブロック治療が怖いんでしたよね? あれは神経の中枢へ打つから痛いんです。なので怖がる気持ちもわかります。ですから、それはなるべくしない方向でと考えています。まずは経口薬を上限まで飲めるように身体を慣らす。それでも痛みが出るようなら、キシロカインという麻酔薬とノイロトロピンという痛み止めの点滴をしましょう」
 痛み止めの点滴と聞くだけでつい身構えてしまう。
 だって 痛み止めの点滴はいつだって意識が混濁するような薬しか使われてこなかったから。それで痛みから逃れられるなら……と思うときにはすでに心が壊れ始めている。
「御園生さん、安心してください。私が使うのは今まで使われてきた薬とは系統が異なります。何せ三十分で終わる点滴ですし、眠くもならない。ただ痛みだけをとってくれる点滴です」
「……そんなお薬があるんですか?」
 そんな魔法みたいなお薬があるならどうして今まで使ってもらえなかったの……?
「これらの治療は麻酔科では普通に行われているものなんです。なんと説明したらいいでしょうねぇ……。内科がいけないとか整形外科がいけないとか、そういうことではないんですよ。各科によって、得意とする治療も使う薬も変わってしまうんです。事、夜間救急で麻酔科医が診察することはありませんから、御園生さんにこの点滴を処方する医師がいなかったのでしょう。患者さん自身、『麻酔科へ行こう』と思って病院に来られる方はめったにいらっしゃいません。痛みがある人ならば、たいていが整形外科を受診するでしょう。うちの病院は麻酔科外来も設けてはいますが、やはり他科依頼で受診する患者さんが大半です」
 久住先生は何を訊かずとも、私が疑問に思っていることへの答えをくれる。
「麻酔科の主な仕事は術中や術後のペインコントロールです。そんなわけで、今までは紫先生に依頼された緩和ケアしかしてこなかったわけですが、緩和ケアだけではなく、ペインコントロールをしっかりさせてもらえないかと申し出たしだいです。因みに、涼先生からはぜひに、とお言葉添えがありましたよ?」
「……どうして、ですか?」
「副作用などデメリットもありますが、メリットもきちんとあるからです」
「メリットは……痛みが取れること、ですよね?」
「いえ、ほかにもあります。一般的に使われている鎮痛剤をすべてカットすることで、胃腸への負担を減らします」
「困りますっ」
 即答だった。今使っている鎮痛剤を全カットなんてされてしまったら、生理のときに困る。
「御園生さん、私はあなたが感じている痛みすべてのコントロールをしようと考えています。それには生理痛も含まれるんですよ」
「え……?」
「身体の痛みも生理痛も、すべて請け負います。そのうえで、胃腸や腎臓、肝臓に負担のかかる鎮痛剤をカットします」
 あまりにも神業のようなことを言われている気がして反応ができない。
「どうでしょう? 少しは魅力的な話に聞こえてきましたか?」
 どうしよう……。少しずつ少しずつ、魅力的な話に思えてくる。
 でも、副作用のことを考えると時期は選ばなくてはいけない気がする。
 少し考えてから、
「春休み前からでもいいですか?」
「えぇ、大丈夫です。楓先生が御園生さんならそう言うはずだ、と投薬スケジュールを立ててくれています」
 久住先生にパソコンディスプレイを見せられびっくりした。
 びっくりした顔のまま楓先生を見ると、
「だてに翠葉ちゃんを見てきてないよ。何がネックになるのか、そのくらいは心得てるつもり」
 にこりと笑われる。
「どうでしょう? やってみませんか?」
 私は今度こそ、「はい」と答えた。

 今日が始めての麻酔科外来。
 緊張しながらお母さんと待合室の長椅子に腰掛けていると、二十分ほどで診察室へ呼ばれた。
 最初に問診があり、次には背骨の状態を診られた。脈診はないものの、背骨の触り方が相馬先生と似ている。
「痛みは様々なところから生じる可能性があるのですが、御園生さんの場合はもしかしたら背骨の関節かもしれませんね」
「背骨の関節……ですか?」
「はい。これは炎症が起きていたとしてもレントゲンにも写らないし、血液検査の炎症値にも表れないんです。どうして起こるのか……というのも難しいのですが――人には立っているときの癖、座っているときの癖、姿勢それぞれに癖があるものなんです。その姿勢により負担がかかるところに炎症が起きたり、歪んでしまったりということが起こります。背骨にはたくさんの神経が走っていますので、一箇所が炎症を起こしていると、そこに通っている神経にまで影響が出ます。つまり、背骨から出ている神経の先、足であったり腕であったり、あちこちに痛みを生じることになります。ただ、物理的根拠と申しましょうか。目に見える検査結果がないので、確実にこうですよ、と言えないのが心苦しいのですが……。ただし、治療をしてみて効果があればそうなのかもしれない、ということはより明確になります。非常に曖昧で申し訳ないのですが、痛みに関してはどこの科よりも専門的に診ることができるので、我慢せずにおっしゃってくださいね」
「はい」
 先生は、カタカタとパソコンに所見を入力しながら処方箋を作っていく。
「まずは一錠から。夜寝る前に飲んでみてください。眠くなっても大丈夫でしょう? その次は夕食後の薬に一錠増やして寝る前の薬は二錠にしましょう」
 そうやって徐々に薬の分量を増やしていくと言われた。
 来週には進級試験があるため、そのあとに薬を増やされることになった。そうすれば、春休みに一番副作用のきつい時期をもってこられるだろうとのこと。
 何かが変わるのだろうか……。
 久住先生を信頼していないわけではない。けれど、何もかもが雲を掴むような話に思えて現実味が湧かなかった。

 家に帰ってくるとすぐお風呂に入った。
 髪の毛も身体もすべて洗い終わりバスタブに浸かる。
 今日はバスソルトとバラの精油を入れたので、なんとなく優雅な気分。
 深く息を吸い込むと、バラの香りで肺が満ちた。
「いい香り……」
 ぬるめのお湯を手で掬っては流しを繰り返す。手から零れるお湯を見ても、底冷えするような恐怖を感じることはない。
 零れたらまた掬おう……。
 ふと思考が止まる瞬間がある。そんなとき、脳裏に浮かぶのはツカサのこと。
 会おうと思うとなかなか会えない。会いたくないときはよく待ち伏せされていたのに……。
 今までなら、登校したその日に会いに来てくれていた気がする。
 二学期後半は毎日うちのクラスでお弁当を食べていたのだ。でも、退院してからは一度もない。
 それが示すところは、もう留学すると決めてしまったから――
 病室で秋斗さんの話をされたときも、空港のラウンジで会ったときも、とても冷ややかな目をしていた。
「呆れられて当然、か……」
 でも、留学する前にもう一度だけ気持ちを伝えたい。
 連絡を取る手段ならいくらでもある。メールに電話、と世の中はとても便利なのだから。
 けれども、携帯というものに少し恐怖感を覚えた私は、家族と連絡を取る以外に携帯を使うことを極力避けていた。
 ツカサにメールを送って届くことなく返ってきてしまったら、私はどうなるだろう……。
 電話をかけて、単調なアナウンスが流れてきたら、今度こそ本当に心臓が止まってしまう気がする。
 でも、そんなことを考えて何もせずにいたら、あっという間に四月になって、ツカサは留学してしまう。
「……やだな」
 海外なんて、そんな遠いところへ行かないでほしい。
 でも、そんなことは言えない。ツカサが決めたことなのに、私が側にいてほしいからなんて理由でそんなことは口にできない。
 目から涙が零れ、水面に小さな波紋ができてはすぐに消える。
 ポツン、ピチャン、ポツン、バシャンッ――
 涙をごまかすため、湯船に顔を浸す。
 ――もっと嫌なのは、気持ちをきちんと伝えられないこと。伝えられないまま遠く離れてしまうこと。
 勢いをつけて顔を上げ、勢いのままに両頬を叩く。と、生じた衝撃は思いのほか強かった。
 でも、痛いくらいに叩かないと喝が入らない。
「明日……。明日、会いに行こう」
 明日は病院もないし部活もない。授業間の休み時間に行くのは難しいから、帰りのホームルームが終わってから。
 もしすれ違ってしまったら、部活が終わるのを待とう。
 その間は図書館で勉強をしていればいい。来週には進級テストがあるのだから勉強も必要。
 部活動停止期間に入ったら、今までのように勉強を見てもらえるだろうか……。
 そんな考えが浮かぶけれど、どうしても不安が拭えない。
 愛想を尽かされてしまったのなら、勉強だって見てもらえないかもしれない。
「……ううん。私の進級を見届けてから、って言ってた……。だから、大丈夫……」
 大丈夫、と言い聞かせないと次の行動に移ることもできないほど、私の心はツカサでいっぱいだった。



Update:2013/06/30  改稿:2017/07/25



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