光のもとでシリーズ 片恋SS

回想02話

 運動ができないという割に、彼女は俊足だった。運動ができたなら、実はものすごくスポーツ万能なんじゃないか、と思うほどに。
 彼女に追いついたのは一階昇降口についたところで。遅かった――彼女はひどく苦しそうにしゃがみこんでいた。
御園生みそのうっ!?」
 彼女は真っ青で、つられて自分も真っ青になってしまいそうだった。そこに運よく保健医が通りかかり、すぐに保健室へ運ばれたわけだけど、保健の先生の対応はひどくドライなものだった。
 ベッドで横になる彼女の体温と血圧を測ったらそれでおしまい。
 俺はベッドと先生の間に立ったまま、「えっ? それだけでおしまいなの? このままで大丈夫なのっ!?」と思いながら、ひたすらオロオロしていた。
 保健医は保健室訪問ノートに彼女の名前と計測したそれらを書きながら、
「この子、自律神経失調症らしいのよね。身体の調節機能がうまく働かなくて貧血を起こしたりするみたいだけど、この年の子にはよくあることだしあまり神経質になることないんだけど、親御さんが心配性でねぇ……。こっちもこれを仕事としてるのだからもう少し信用してほしいものだわ」
 これ、たぶん一生徒に話していいことじゃない。明らかに個人情報だし、最後の一言は愚痴に聞こえた。自分のプライドを傷つけられたと言わんばかりの言い分。
 御園生はこんなにも真っ青で、少し走っただけで蹲ってしまったというのに――なんでこの保健医はこんなにも淡々としているんだろうか。
 そこへ担任がやってきて、
「またですかぁ。今回も早退ですか?」
「まだなんとも言えません。もう一度血圧を測定して改善が見られなければ早退ですね。血圧が八十切ったら連絡くださいって言われてますから」
「そうですか……。しっかし、生徒の話によると、急に走り出したってことなんですが……」
「困りましたね……。走ったら貧血起こすってわかっているのに自分から走るなんて……。かまってほしいのかしら?」
 保健医と担任の会話に唖然とする。自分の受け持つ生徒が倒れて、それが何度目だったとしても、「またですか」はないだろう。「かまってほしい」ってなんだよ……。中にはそういう人間もいるのかもしれない。でも、御園生に限ってそんなことはない。
 だって彼女は――クラスで極力目立たないように、誰にも声をかけられないように、そっと密やかに存在しているのだから。
 容姿で目を引くにしても、彼女の発言数は驚くほどに少なかった。声が聞けたらラッキーと思ってしまうほどに。そんな人間がかまってほしいなどと、自ら倒れるような行為に走ることはないと思う。
 ――この人たち、御園生の何を見てるんだよ。仮にもひとりは担任なわけで、生徒を観察するのが仕事だろうに……。
 このとき、少しわかった。御園生が保健室に行きたがらない理由も、家族に心配かけまいとする気持ちも。
 保健の先生は御園生の苦痛を理解していない。それは担任にも同じことが言えただろう。けれど、家族は心配してくれる。そのうえ親は学校に来て理解を求めようとしてくれるんだ。それも、一度や二度ではないのかもしれない。だから、彼女は身動きが取れなくなって――結果、人に知られないように、という道を選んだのだ。
 悔しくなって御園生が走る羽目になった経緯を洗いざらいぶちまけた。元はといえば、あんな中途半端な「性教育」集会をするからこんなことになったんだ。
 普段はなんの問題もない生徒で通っている俺が、感情のままに話したからだろうか。
 先生たちは驚き、誰がそんないたずらをしたのかを早急に割り出した。
 本当は、今までのいじめの件も全部言いたかったけど、それは御園生が嫌がりそうだったから……。だから、そこまでは話さなかった。
 でも……話すべきだったのかな。
 俺、なんであんなに何もできなかったんだろう――

 彼女に纏わる記憶はそんなひどいものばかりでもない。
 ある日、彼女が昇降口で空を見上げて途方に暮れていた。
 朝は雲ひとつない快晴だったのに、午後には雨がしとしと降りだした。
 状況からしてみれば、「傘を忘れてしまってどうしよう?」といったところだろう。
 幸い、自分の手にはビニール傘があった。
「御園生」
「あ、鎌田くん」
「これ、良かったら使ってよ」
「え? でも、鎌田くんが困るでしょう?」
「男は濡れて帰っても風邪なんかそうそうひかないよ。でも、御園生は風邪ひいて熱出しそう」
 彼女は苦笑した。
「家に電話したんだけど、珍しく誰もいなくてね。迎えに来てもらえないからどうしようかと思ってたの」
 こんなふうに普通に話してくれることが、俺の優越感になっていたのかもしれない。
 三学期になっても彼女の苦手意識は払拭されることなく、クラスの男子に話しかけられると固まってしまう。それを面白がる男子が出てきて、馴れ馴れしく彼女に触れる男子やからかう男子が増えていた。さらにはそれを面白く思わない女子の嫌がらせもエスカレートしていた。
 嫌がらせを受けていることを妬むとか、本当に意味不明……。確かに興味があるからかまうのだろうけれど、彼女にとってはいい迷惑だったと思う。
「大丈夫?」と訊くと、「何が?」と返される。
「いや、その、色々……」
 彼女は一瞬きょとんとした顔をしたけれど、すぐに表情を改めふわりと優しく笑った。
 ものすごく久しぶりに見た彼女の笑顔。
「鎌田くんは優しいね。でも、大丈夫だから。ありがとう」
「……じゃ、ありがとうついでにこの傘も受け取って? ビニ傘だから返さなくてもいいし」
「でもっ――」
「濡れて帰って熱出して休んだら出席日数減っちゃうでしょ? 受験のとき不利になる」
 回らない頭をフル稼働させたつもりだったのだけど、少々間違えたっぽい。
 今までの御園生の欠席日数を考えれば、「今さら」なのだ。そこで、無理やり方向転換を試みた。
「もし俺が熱出して休んだら、休んだ分のノート見せてくれるだけでいいからっ」
「それならっ、私が鎌田くんを送ってから帰るっ」
 方向転換には成功したっぽいけど、思わず頭を抱えて唸りたくなる。
「御園生、変……」
「え?」
「普通は男が送ってくものじゃない?」
「そうなの? でも、傘、貸してもらうし……」
 御園生は真面目だし律儀だと思う。しかも、筋金入り。超ド級。
「第一、御園生は俺んちと自分の家がどのくらい離れてるか知ってる?」
 御園生はさらっさらの髪の毛を散らしながら、「知らない」の意を伝えるために首を横に振った。
「俺たち小学校が別なわけです。ということは、校門を出てから正反対に向かって歩き出すわけで……。俺の家は自転車で二十分。御園生は徒歩で三十分圏内でしょ?」
「うん、十分くらいかな?」
 言ったあとにはっとしたような顔で、押し付けたビニ傘を突っ返された。
「私は徒歩十分だけど鎌田くんは自転車で二十分なのでしょう? だったら、鎌田くんのほうが長距離長時間濡れてることになっちゃうからだめっ」
 不覚にも、このときかわいいと思ってしまった。
 慌てる様も、俺のことを気遣ってくれる様も、コロコロと変わる表情も。何もかもがかわいかった。
 かわいいのなんて知ってた。噂されてるような性格じゃないことも知ってた。でも、一歩踏み込んで御園生を知ったのはこのときだったかもしれない。
 俺、話すたびに御園生に恋してたのかも。御園生を知るたびに恋をしてたのかもしれない。

 結果的に、俺は彼女にビニ傘を押し付けることに成功した。
 翌朝登校すると、彼女が昇降口の隅でビニ傘を持って待っていた。
 おはよの挨拶を交わしてビニ傘を受け取ると、初めて彼女が会話の口火を切った。それだけにびっくりしたものの、話の内容にも驚いた。
「ビニール傘ってとっても明るいのね? お天気は雨だし曇りなのだけど、布張りの傘よりも断然視界がクリアで明るいのね? 当たり前なんだけど、三六〇度視界がクリアでびっくりしたの」
 と、とても嬉しそうに笑った。まさに天使のようだった。話を聞いているだけなのに、頬が熱を持つくらいには。
「布張りの傘とは大違い。雨の音がね、ポツッポツッ、て。はじける音がとても新鮮で、通学路がいつもと違って見えたの。なんだか知らない世界だったよ」
 饒舌な彼女は若干興奮しているのか、顔色が良く見えるくらいに紅潮していた。が、それ以上に俺の顔が熱すぎた。そんな俺に気づいた彼女は心配そうに俺の顔を覗き込む。
「もしかして……熱、ある? 顔、赤いかも……」
 笑顔が一気に曇った。やばい――俺は大慌てで取り繕う。御園生相手に嘘はつきたくないけど、嘘をつかずにはいられなかった。
「今日、寝坊して遅刻しそうで慌ててチャリ飛ばして来たから。だからちょっと暑いだけっ」
 彼女はきょとんとした顔をしてから、クスリと笑う。
「鎌田くんが寝坊って想像できないな」
 笑いながら、手が伸びてくる。あの、抜けるように白い御園生の手が――
「人間冷却機」
 は?
「私の手、夏でも冷たいの」
 御園生は人懐っこそうに笑って俺の両頬を自分の手で触れ、熱を持った肌を冷ましてくれた。でも、その行為にもっと熱を持ってしまう結果になったのは言うまでもない。
「よ、予鈴っ! 御園生、急ごうっ」
「うん」
 俺はこんな具合に彼女のひんやりとした手から、好きな子の手から逃れた。
 中三の夏、甘酸っぱい恋の思い出。

 彼女から見た俺ってどんなだったのかな。想像できないって――彼女はどんなふうに俺を想像してくれたんだろう。
 こんなこと、素で訊けるほど強靭な精神は持ち合わせてなかった。
 好きって言うには勇気や度胸が足りなくて、一緒にいて話すのもタイムリミットがありそうな自分。
 知らないことのほうが多いはずなのに、気づいたときにはものすごく好きな子になっていた。そして、そのことに気づいた人間は意外と多かった。
 それをネタに俺もからかいの対象になったけど、もともとこの学校には性格の合う人間が少なかったこともあり、とくに気にすることもなかった。
 数少ない小学校からの友人も、何やら様変わりしてしまった。
 俺の卒業した小学校は地域的な問題で、中学に進学する際ふたつに分けられる。
 幸倉第一中に入学した人間は全体の半数以下。一五〇人弱。彼女が卒業した小学校からはほぼ全員の四〇〇人近い人間が中学に持ち上がっていて、この圧倒的な人数差に、俺の小学校からの友人は呑まれてしまったわけだ。
 なんとも情けない――否、もしかしたらこれが自然の摂理なのかもしれない。
 ほら、長いものには巻かれろっていうし、朱に交わればなんとかっていうし、郷に入っては郷に従えっていうから。
 ……でも、俺には「事なかれ主義」って言葉のほうがしっくりきちゃったんだよね。
 自分が浮いたりいじめの対象になるのは嫌だから、考えが合わなくても相手に合わせる。本当はテスト勉強したいけど、周りがそういう雰囲気じゃないから自分もやらない。
 不良っぽいのが格好いいなんて、絶対そんなふうに思うやつじゃなかった。なのに、友人が軒並みそんな人間へと変わってしまった。
 なんか、正直残念だった。
 何が幸いかと言うならば、彼女が噂の類に耳を貸さなかったことだろうか。
 彼女は、「誰々がおまえのこと好きだって」とからかわれても、一切表情を変えなかった。男子が近づくと身体を強張らせるものの、何を言われても無表情無対応を貫いた。
 態度だけ見るなら、「毅然としている」と言えたかもしれない。
 でも、本当はどうだったのかな……。
 無表情の仮面の下で、本当はどんな表情をしていただろう――

 受験が終わり、久しぶりにのんびりとした気分で清掃タイムを迎えると、この日は御園生と渡り廊下の掃除でふたりきりだった。
「御園生は光陵だっけ?」
「うん。鎌田くんはどこを受けたの?」
「めっちゃギリギリで海新」
 本当にギリギリで、受かるか受からないかは五分五分だったんだ。でも、このあたりの高校には行きたくなかった。あまり柄のいい高校ではなかったし、高校に行ってまでこういう人間関係の中に身を置きたいとは思えなかったから。
 彼女の受験した光陵高校は、うちの学校から行く生徒が非常に多い。正直、心配だった。
 何が、とは言わない。けれど、「大丈夫?」と言わずにはいられなかった。
 彼女はクスリと笑って「大丈夫」と答えた。彼女もまた、何が、とは言わない。そして、
「鎌田くんの第一声はいつも『大丈夫?』だったね。……一年間ありがとう」
 もう最後だからなのか、少しだけ身体のことを話してくれた。
「家から一番近い高校が光陵だったの。身体に負担がかからないように通学できる場所が光陵しかなかったんだ」
 御園生の成績ならもっと上を狙えたはずなのに、光陵高校に決めた理由がわかった。そして、欠席日数が多いことから、私立が最初から圏外だったことにもこのときに気づいた。
「そっか……」
 それ以上何を言えるわけもなかった。だって、もう受験は終わっているし、すでにそこへ行くことが決まっているわけだから、建設的な話になりようがない。
 複雑な心境だったけどそれが現実で、ほかに話すことが思いつかなくて、俺たちは黙々と掃除をした。
 中学で御園生を見たのはその日が最後だった。何も、「一年間ありがとう」と言われた日が最後じゃなくてもよかったと思う。
 卒業式までの二週間、彼女は一度も登校してくることはなく、卒業式にも来ることはなかった。
 担任の話だと、体調不良で入院したとのことだったけど、クラスメイトが気に留めることはなく、何事もなかったように中学生活が幕を閉じた。
 三月半ばに退院したって噂を聞いたけど、すぐにその噂は塗り替えられる。「再度入院した」と。
 その後、彼女の噂を耳にすることはなく、慌しく高校生活が始まった――

 梅雨のじめじめとした季節を迎えたころ、久しぶりに彼女の噂を耳にし唖然とした。
 どうやら、高校の入学式も出席できず、ずっと入院したままだったという。そして夏休みに入るころ、進級の見込みがなくなり高校を自主退学した、という情報に更新された。
 何も知らなかった――違う、知ろうとしなかっただけ。
 彼女が入院したとき、お見舞いに行くことも手紙を書くこともできなかったのは自分で、退学したと知っても何ひとつアクションを起こせなかったのも自分。
 そんな自分を悔いているからだろうか。卒業シーズンになると彼女を色濃く思い出す。そして、これは新学期が始まって忙しくなるまで続くんだろうな。



Update:2013/11/28(改稿:2017/05/07)



 ↓↓↓楽しんでいただけましたらポチっとお願いします↓↓↓


 ネット小説ランキング      


ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。


 ↓コメント書けます*↓

Copyright © 2009 Riruha* Library, All rights reserved.
a template by flower&clover