光のもとで 外伝

三月二十六日 02話 Side 御園生蒼樹

 先輩に言われたとおりに進むと、救急外来受付に着いた。
 廊下の端でストレッチャーを片付けている救急隊員を見つけ、俺は何も考えずに駆け寄り、そのままの勢いで救急隊員の腕を掴んだ。
「翠葉はっ!? 妹はっ!?」
 ふたりのうち、年配の人が対応してくれた。
「御園生翠葉さんのお兄さん?」
「はいっ、妹はっ!?」
「今、中で処置を受けているところだよ」
 そんなことが知りたいんじゃなくてっ――
「ご両親はまだかな?」
「渋滞にはまってるみたいで、自分が先に来ましたっ」
「そうか……。妹さん、幸倉運動公園で倒れているところを近所の人が発見して救急車を呼んでくれたんだ。……今は処置室でがんばっているよ」
 俺が処置室に入ろうとすると、鋭く止められた。
「少し落ち着つこう」
「落ち着けるわけがないっ」
「そうだね。でも、君が処置室に入ってできることはないだろう?」
 冷静さを欠いている頭に、その言葉は冷や水の如く有効だった。
「そこに座りなさい」
 背に手を添えられ、処置室前の長椅子に座るよう促される。
 知らせを聞いてからずっと、震えが止まらずにいた。
「中に藤宮紫という医師がいる。妹さんの主治医だろう? 彼は優秀だよ。絶対に助けてくれる」
 誰でもいい、誰でもいいから翠葉を助けてくれ――
 こんなにも何かに縋りたいと思ったことはなかった。
 最後の神頼みって言うけれど、そんなのバカらしいと思ってた。
 不確かなものに頼るより、己が努力すればいいと、そう思ってきた。でも、自分が無力だと知ったとき、最後に思いつくのは神頼みしかないということをこのとき初めて知った。
 処置室が急に騒がしくなり、身体中の血がざわめく。
「VFっ」
「二〇〇ジュールチャージっ」
 救急隊の人が反射的に顔を上げた。
「チャージできましたっ」
「離れてっ」
 声が次々と聞こえてきて、ただならぬ雰囲気に息を呑む。
 俺は恐る恐る尋ねる。
「チャージって……?」
「……除細動器。電気刺激だ」
 救急隊の人は真っ直ぐ俺の目を見てそう言った。
「それって……心臓に電気を流すものですよね? なんで……先月検査入院したときは心臓は大丈夫って言ってたのに」
 ゆるゆると席を立ち上がると、救急隊の人に肩を抱かれた。
「不整脈が出てるんだ。妹さんを信じて待とう」
 ゴツゴツとした大きな手に震えた手をぎゅっと握りしめられる。
 どのくらいそうしてもらっていたのかわからない。
 処置室のドアが開き、中から髭を生やしたひとりの医師が出てきた。
 その顔つきは険しいものだった。
「紫、あの子のお兄さんだ。まだ両親は到着されていない」
「蒼樹くん、だったね?」
「はい、妹はっ!?」
「……おいで、会わせよう」
 処置室の中に入ると、酸素マスクに点滴、身体にはたくさんのコードがつながれていた。そのコードの先にはモニターや機械がいくつも置かれている。
「翠葉っ!?」
「まだ安心できる状態じゃない。でも、翠葉ちゃんはすごくがんばったんだよ。手を握ってあげなさい」
 ベッドの脇まで近寄る。と、白く細い指先にキャップみたいなものがかぶせてあった。
 恐る恐る手を握ると、その手はとても冷たくてヒヤリとする。
 必死に、翠葉の手が冷たいのはいつものことだ、と自分に言い聞かせなくてはいけないくらいに冷たかった。
「そこのモニターを見てごらん。数字が出ているだろう? それが翠葉ちゃんの今の血圧だ。六十の四十」
 血圧の数値なんてわからない。ただ、俺が知りたいのは――
「いつ……いつ意識が戻るんですか?」
「まだしばらくは……。身体に相当な負担がかかったからね。少し休ませてあげよう」
 そこへ看護師さんがやってきた。
「紫先生、御園生さんのご家族が到着されました」
「今行く」
「先生っ、自分も一緒に翠葉の病状を聞きたいですっ」
「ご両親に訊いてみなさい。私は反対しないよ」
 俺は頷いてから翠葉を振り返った。
「翠葉……ちょっと待ってて。俺も聞いてくるから。そしたら、そしたら今度こそ、翠葉のことちゃんと守るから――」

 廊下に出ると、血相を変えた父さんと母さんがいた。
「先生、翠葉はっ」
 母さんが訊くと、
「どうぞこちらへ。カンファレンスルームでお話しいたします」
「父さん、俺も一緒に話を聞きたいっ」
「……あぁ、いいよ。一緒に聞こう」
 母さんは父さんの支えなしには歩けないほどに震えていた、
「母さん、翠葉眠ってた……。酸素マスクや点滴、たくさんの機械につながれて――でも、生きてた。ちゃんと生きてた。心臓、動いてた」
 その言葉に安心したのか、母さんは目から涙を零した。

 カンファレンスルームに入ると、テーブルを挟んで先生と向き合う形で席に着き、先生は救急隊員が駆けつけたときの状況から話してくれた。
 翠葉が倒れていたのは、家の裏手にある運動公園だった。それを近所の人が発見して、すぐに救急車を呼んでくれたらしい。
 倒れたのが芝生の上だったということもあり、外傷はほとんどなかったとのこと。念のため、頭部CTも撮ったけれど、出血や骨折等は見られなかったようだ。
「救急隊が駆けつけたとき、翠葉ちゃんは心室頻拍という状態にありました。血圧もかなり低く意識もなかった。何が最初に起こったのかはわかりません。ですが、翠葉ちゃんはもともとの血圧が低いため、少しでも下がればショック状態になります。先ほど、心室細動を起こしたので除細動機を使いました。現在、投薬をしながら経過を見ていますが予断を許さない状態です」
「先日の検査入院では心臓の異常が今すぐどうなるということはないとお聞きしましたが……」
 父さんが控え目に訊く。そして、その言葉で何か心臓にも異常があるということを知った。
「はい。心臓の電気信号には問題はありませんでした。時々、軽度の不整脈が見られる程度で、とくには治療の必要がないものです。僧帽弁逸脱症に関しましても先日お話ししたとおりです。現時点で治療をする必要はありません。それも制約を守っていればの話ですが、翠葉ちゃんが自発的に走ったとは思いがたい……」
「そうですね……。それはないと思います」
 先生はデスクに乗っていたカメラを父さんの前へと差し出した。
「翠葉ちゃんの所持品だそうです」
 父さんはカメラを手に取ると、電源を入れプレビュー画面を表示させた。
 そこには桜の蕾がたくさん写っていた。どれも空を見上げるアングルで。
「……娘は立っていたのかもしれません。写真を撮ることに夢中でずっと――」
「……そうでしたか。だとすると、起立性発作を起こした可能性もありますね。そこに不整脈が重なったという可能性も……」
 父さんと先生の話を聞いても、俺には何がなんだかわからなかった。
「先生……翠葉は、どこが悪いんですか?」
 できるだけ冷静に、静かに口を開いた。すると、先生が俺のほうを向いて話し始める。
「蒼樹くん、翠葉ちゃんが自律神経失調症と低血圧であることは知っているかい?」
「名前だけは聞いています。あとは……家庭の医学に書いてある内容くらいは理解しているつもりです」
「なるほど。では、少し補足しよう」
 膝の上で手をぎゅっと握る。覚悟を決めるように。何を聞いても驚かないように――
「自律神経には交感神経と副交感神経がある。そのバランスが崩れていることを自律神経失調症というんだが、自律神経とは人が生きていくうえでとても重要な役割を担っている。例えば、血圧を調節する、体温を調節する、血液循環量を調節する。それらは人が意識してやろうとすることじゃないだろう? そういったものを自動的に調節してくれるのが自律神経なんだ。一般的に自律神経失調症といわれる人は、生活に多少の支障が出る程度なのに対し、翠葉ちゃんはかなり重度でね、神経の働きがとても微弱なんだ。私が今まで診てきた患者さんの中でも翠葉ちゃんほど症状の顕著な患者はいないよ。そのくらい、身体の機能がうまく働いていないんだ」
 クラスにも自律神経失調症という女子はいた。けど、翠葉ほど身体が弱いようには見えなかった。その理由が少しわかった気がする。
 同じ名前の病気でも、症状には軽度重度とあるらしい。
「それに加えて、翠葉ちゃんの血圧はとても低いんだ。正常値と呼ばれる数値は上が一二〇、下が八十くらい。蒼樹くんは翠葉ちゃんの血圧を知ってるかい?」
「いえ、さっき初めて聞きました」
 さっきは六十の四十って――正常値の半分しかないことになるのか……?
「翠葉ちゃんはね、良くても上が八十、下が六十くらいなんだ。健康な人の半分くらいの数値。それが翠葉ちゃんにとっての平常値なんだ。体調を崩すとこれ以上に下がる。翠葉ちゃんの場合、六十五を切ると意識が朦朧としてくるみたいなんだが、私からしてみたら、六十台、七十台前半というのは意識を失ってもおかしくない数値なんだよ。このまま血圧が下がっていくと、心臓のポンプ機能が弱くなりすぎて、体内の血液循環量が足りなくなる。それが即ち心不全の状態だ。こうなるとすぐに昇圧剤を投与する必要がある。普段から昇圧剤を服用してもらってはいるんだが、期待している効果は得られていない。もしくは、飲んでいるから今の数値を保てているだけなのかもしれない。さらには、彼女の血圧は脈圧がないんだ」
「脈圧ってなんですか……?」
「血圧の上と下の差のことを脈圧という。通常は三十から五十あるのが好ましい。だが、翠葉ちゃんはそれを割ってしまっている。要はね、心臓が送り出す血液量がとても少ないということ。体内の血液循環量が少ないんだ。その状態で血圧が下がると、脳や心臓に十分な酸素が行き渡らなくなり、やっぱり心不全を起こしてしまう。だから、翠葉ちゃんは息があがるような運動ができない」
 そんなっ――少し身体が弱いだけだと思ってた。なのに実際は――
「蒼樹、大丈夫か?」
 父さんがうかがうように声をかけてくれた。
「……俺が大丈夫とか大丈夫じゃないとか、そういうの違う。つらいのは翠葉だから……。俺がつらいなんて言えない」
 言えるわけがなかった。
「君は優しいお兄さんだね」
 髭をいじりながら先生に言われる。
 でも、優しいとか――そういうのでもない。
「翠葉ちゃんは体位を変えるだけでも血圧が下がってしまう。横になっていて起きるとき、座っていて立つとき。君も立ちくらみを経験したことはあるだろう? それは誰にでも起きることだけど、通常は一分くらいで身体が順応しだす。だが、翠葉ちゃんはその調節が上手にできないんだ。要は、一度下がってしまった血圧を自力で元に戻す力が弱いということ。急な温度変化にも対応ができない。長時間の起立も血圧が下がる原因になる。食後の消化で必要になる血液循環量を賄うことすら負担になる身体だ。翠葉ちゃんは我慢強い子だからね。無理してしまうことが多々あるようだから、お兄さんは先回りして気づいてあげてほしい」
「……気をつけます」
「お父さんとお母さんも、先日お話したとおりです。内臓には病気と呼べるような問題はありません。ただ、外部からの刺激にはとても敏感な身体ですから、刺激物を食べれば胃が荒れるし、風邪をひいたら肺炎に移行しやすい。自己免疫能力も低いので、今までどおり、普段の生活には十分気をつけてあげてください」
「はい。先生、今後は……」
 普段だったら母さんが話の舵を取るのに、ここに来てからは父さんしか話していない。
 母さんは、父さんの隣でずっと小刻みに震えていた。
 無理もない――俺だって自分で自分の手を握っていないと震えてしまうんだ。
「しばらくはICUでの監視下に置きます。症状がある程度落ち着けば一般病棟に移れますが、今回は回復するまでに少し時間がかかるかもしれません。根本的な治療はできませんが、症状が落ち着くまでは様子を見たほうがいいでしょう。一過性である可能性が高いですが、もし不整脈が頻発するようでしたら、治療に踏み切ろうと思います」
「具体的には?」
 父さんが治療法を訊くと、
「カテーテルアブレーション法といって、カテーテルの先から高周波電流を流して問題のある生体組織を小さく焼き切る手術です。開胸手術ではないので、翠葉ちゃんにかかる負担も少ないですし傷も小さくて済みます」
「そうですか……。翠葉を、娘をよろしくお願いします」
 父さんと母さんが揃って頭を下げた。それに習って俺も頭を下げた。

 翠葉は俺が思っていたよりもはるかに身体が弱かった。
 今まで何度も貧血を起こしている翠葉を見てきたけれど、そんなに大変なこととは思っていなかった。
 体力がないとか風邪をひきやすいとか、そのくらいにしか思っていなかった。
 熱もしょっちゅう出すし、もともと食も細い。
 年間通して元気なことのほうが少なくて、どこか悪いんじゃないかとは思っていたけれど、先月の検査入院でとくに悪い検査結果が出なくてほっとした。なのに――
 人が意識せずに動かせるはずのものがコントロールできないって何……?
 寝てて起きるのにも、座ってて立つのにも気をつけなくちゃいけなくて、ずっと立ってることもできなくて、食後の消化すらが負担になるってどんな?
 少し血圧が下がっただけで死に至る危険があるってなんだよっ。
 そんなの、どうやって生きていったらいんだ。そんなの――たった十五歳の翠葉がどうやって受け止めるって言うんだ……。
 俺は何も知らなかった。翠葉がどれだけつらい思いをして今まで生きてきたのか。
 仲は良かったしかわいがってもきた。でも、今日まで俺は翠葉の病状なんて聞いたことがなかった。
「大丈夫なの?」と母さんたちに訊けば、「無理をしなければね」と言われてきた。
 ――無理をしなければ。
 そこにかかってくる制約の多さなんて知りもしなかった。
 もっと前に訊いていればよかった。そしたら、今日こんなことにはならなかったかもしれない。俺がもっと早くに帰っていたら――
「蒼樹、自分が側にいたら、とか考えるなよ。それは父さんたちだって同じなんだ」
 気づけば涙が止まらなくなっていた。
 俺、無理だ……。翠葉がこの世からいなくなることなんて考えられない。きっとそんなことになったら半狂乱になる。
 それくらい大切な妹……。
 いつも、「蒼兄蒼兄」って天使みたいな笑顔で俺の名前を呼んでくれて、勉強や部活がつらくても、翠葉と話しているとすごく楽になれた。毒気を抜いてくれる存在だったんだ。
 それをなくすくらいなら――俺はもう翠葉から離れない。一生、絶対に手を放さない。
「翠葉のところに行ってもいいですか?」
「あぁ、かまないよ。ご両親を案内してあげなさい」



Update:2009/05/16(改稿:2017/05/21)



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