光のもとでU+

司・十九歳の誕生日 Side 藤宮司 01話

 買い物の翌日、俺の願いも虚しく翠の体温は下らなかった。
 明日から新学期が始まるということもあり、楽器の練習その他諸々は休みになったわけだけど、よくよく思い返してみれば、春休みに入って初めての丸一日休みではないのか。
 そう考えてみると、この時期の発熱はしかるべくして起きたと言えなくもない。
 もともとの体力がないのだから、もう少しゆとりをもったスケジュールを組めばいいものを……。
 今度はそのあたりについて、少し話して聞かせるべきかもしれない。
 ゆっくり過ごすだけならうちへ呼んでもいいかと思ったけど、自宅だとうっかり翠に手を出しそうで、あえてゲストルームで過ごすことにした。
 翠は横になったり起きたりを繰り返しながら本を読んでいて、途中で思い出したかのように楽典の本を開いてはゆっくりと問題を解き始めたり。
 そんな翠の近くで、俺は持ってきた本を読んだりネットを見て過ごしていた。
 微熱があるとはいえ、目の届く場所に翠がいるだけで心が落ち着く。
 毎日こんな環境で過ごせたら本望だけど、今はまだ無理。でも、あと一年強――あと一年強でこの環境を手に入れる。絶対に――

 昼が近くなり、昼食はどうしようか、と話しているところへ昼休憩の唯さんが帰ってきて、「麺処唯芹亭開店っ!」とかわけのわからない奇声を発しながらキッチンへ駆け込んでいった。
 その直後に秋兄と蔵元さんもやってきて、結果的には五人で昼食を摂る羽目になったわけだけど、唯さんが用意したのは麺を茹でるだけの讃岐うどんだった。
 なんてことのないメニューだけど、即席で作られた麺つゆが目を瞠るおいしさでびっくりした。
 たぶん、ベースとなる麺つゆは市販のものだろう。それに柑橘系の絞り汁とごま油、一味唐辛子を加えただけでこんなにおいしくなるものなのか。
 まじまじと麺つゆに見入っていると、
「何なに? まずくて食べられない? だったら食べなくてよーしっ!」
 唯さんに取り上げられそうになった丼を死守しながら、
「柑橘系……」
「ん?」
「柑橘系の絞り汁が入ってると思うんですけど、これ、なんですか?」
「はっは〜ん……司っち、不本意にもおいしいとか思っちゃった? ほらほら、正直に言ってごらんよ。お兄さんが聞いてあげるから」
 この人の言葉の選択は、ことごとく俺の癇に障る。
 イライラするのを抑えながら、
「……おいしいから、何入れたのか教えろって言ってるんだけど」
 口を開いたら感情の「か」の字も抑えられていなかった。
「秋斗さあああん、この子に口の聞き方、誰が教えたんです?」
「え? ……えっとぉ、俺……かな? 俺、なのかな?」
「それ、絶対的指導失敗ですよ。死んでも教えたくねえです」
「司くーん……目上の人には敬意を払うように、って教えなかったっけ……?」
「そんなことを教えられた覚えは微塵もない。むしろ、大人だろうがなんだろうが気に食わないやつは容赦なく蹴散らせ、なら何度も言われた記憶があるけど」
「「うわ〜……」」
「ものすっごい秋斗様っぽい教えですね」
「それ間違いなく秋斗さんの教えだよね……」
 面倒なやり取りになったなと思いつつ、
「でも俺、最初は敬語を使ったと思うけど?」
 ひとり安全地帯でうどんを食べている翠に話を振ると、「えっ? 私? 何?」と目でたずね見返してきた。
「ちょ、リィに訊くの反則っ! ちゃんと作った俺に訊いてよ!」
「だから……」
 俺のイライラが募ってくると唯さんは席を立ち、キッチンへ向かって駆けていった。すぐに戻ってきたかと思えば、その手には緑色の瓶があって――
「柑橘の正体はこれっ!」
 トン、と目の前に瓶を置かれた。
「すだち……?」
「そっ! もともとは柚子を入れてたんだけど、リィが意外とわがままちゃんで、柚子の香りは好きなんだけど味が苦手なんだって。だから、御園生家ではすだちがスタンダードなの。いわばこれは常備品。ちなみに、リィもこのタレは大好きだから覚えておくといいと思う。でもって、リィが好きなのはうどんよりも素麺ね。今日は五人分の素麺がなかったから讃岐うどんになっちゃったけど」
 そう言うと、唯さんは固定電話の脇に置いてあったメモ帳にサラサラとペンを走らせレシピを記したメモをくれた。
「ありがとうございます……」
「うむ、素直でよろしい。さ、食お食お! 麺が伸びる!」
 そう言うと唯さんは席に着き、昼食を再開させた。

 午後もゆっくり過ごしていたにも関わらず、翠の体温は時間が経つにつれ、少しずつ上昇していく。こんな日があと何日続くのか不安に思いながら、
「明日は何時に家を出る予定?」
 高等部は明日が始業式のため、朝はクラス分け掲示板を見る都合上、早く登校する生徒が多い。翠はどうするのか――
「ツカサは? 入学式は何時からなの?」
「九時に受付開始」
「……それじゃ、私と一緒に登校したら早過ぎない? 私、七時過ぎには出るよ?」
「問題ない。高等部の弓道場に寄ってから行くから」
 翠は表情を和らげ、
「弓を取るのは久しぶり?」
「いや、ほぼ毎日引いてるけど……?」
「え……? でも、毎朝八時にはミュージックルームに来てたでしょう? そのあとは夕方まで一緒に過ごしていたし……」
 あぁ、そういう意味か……。
「朝は基本的に五時になると目が覚めるから、六時前には道場に着いて、射場と的場を整えたら六時半前には弓を手にしてる」
「昨日もっ!?」
「……いや、昨日は休んだけど……」
 思わず言葉を濁してしまったのはそれなりの理由があるからで……。
 なのに、目の前の翠は「どうして?」と目で訊いてくるからちょっと困る。
 翠の乱れた姿が忘れられなくて一睡もできなかったから、とはどうしたって答えられない。
 そんな空気を察したのか、翠は違うことを訊いてきた。
「大学でも弓道続けるの?」
「……弓道部やサークルに属すつもりはない。でも、弓を置くつもりもない。たまに弓道部の指導をする条件で道場を使わせてもらえるよう顧問と話をつけてある」
 翠は納得したふうで、
「じゃ、明日、七時過ぎでも大丈夫?」
「かまわない。七時にエントランスで待ってる」
 そんな会話をして別れたわけだけど、明日の朝、翠の体温は下っているのか――
 俺は不安を胸に十階の家へと戻った。



Update:2018/12/24



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