光のもとでU+

俺の頑固な婚約者



俺の頑固な婚約者 Side 藤宮司 04話


 病室に戻ると、翠はこちらを向いて寝ていた。
 そのあどけない寝顔を見て、表情筋が緩むのを感じる。
 点滴には五時間かかるし、眠れるなら寝てしまったほうがいいだろう。
 そう思いながら、買ってきたものを冷蔵庫へ入れに行く。
 ベッド脇に戻ると、巻いていたタオルを外してカイロを巻きつけてやる。そして反対側の椅子に掛けると、タオルケットの上に出ていた翠の右手を手に取った。
「別に、手なんていつでもつなぐのに……」
 何をあんな恥ずかしそうに、申し訳なさそうに言う必要があるんだか……。
 俺は翠の寝顔を見ていられるだけで十分なのに、翠はそんなことも――
「わからないから『暇でしょ』とか言うのか……」
 翠がつらいとき、何かしてあげられたらいいけれど、できない今は側についていられるだけで十分で、それ以上の何を求めることもないのに。
「それでも翠は、気にするんだろうな……」
 翠が起きたときに俺が何もせずにいたら、翠は気に病む……。
 だから仕方なく、兄さんから借りてきた本を適当に開いては、翠の寝顔を見て過ごしていた。

 一時間半ほどすると翠が目覚め、
「ごめん、寝てた……」
 さも申し訳なさそうに口にする。なのに、手をつないでいることに気づくと嬉しそうに笑うから、無自覚で俺を喜ばせる「罪人賞」を贈りたい。
「問題ない。でも、もう十二時を回ってる。どうせ朝は食べてないんだろ? サンドイッチを買ってきたけど、食べられそう?」
「うーん……身体を起こしてみないことにはなんとも言えないかな?」
「あと少しで点滴一本目が終わる。多少はよくなってるんじゃない?」
「うん。身体起こしてみる」
 多少ではあるものの、顔色もよくなってきている。
 翠の背中を手で支え、身体を起こすのに手を貸すと、
「このくらいなら大丈夫かも」
「なら、昼にしよう」
 ベッドの背面を起こしてやり、さっきコンビニで買ってもらったものを一通り移動テーブルの上に並べる。
 電気ケトルでお湯を沸かしてスープカップに注いでやると、
「ツカサ、ありがとう……」
 翠は、天使のように柔らかな笑みを見せた。
 赤面しそうになるのをどうにか堪え、
「……好意はいつも、そうやって受け取ってくれるとありがたいんだけど」
「善処します……」
「……とはいえ、翠は素直は素直なんだよな……。だから、翠が自然と甘えられるように俺が努力する」
 たぶん、兄さんが言ったことは間違っていない。翠に努力させるだけじゃだめなんだ。俺も努力しないといけない。じゃないとこの頑固者は懐柔できない。

 ご飯を食べ終えると翠は点滴を見上げ、
「そういえば、今日の点滴はソルデム3AGじゃないのね?」
「あぁ、ラクテック?」
「何が違うのか知ってる?」
「ソルデム3AGのほうは糖濃度が高くて、ラクテックはL-乳酸ナトリウム、塩化ナトリウム、塩化カリウム、塩化カルシウム水和物が入ってる」
「……お塩?」
「そう。翠みたいな体質の人間にはよく使う輸液」
「そうなんだ……」
 そこへノック音が割り込み、看護師がやってきた。
「時間ぴったり! さ、二本目!」
 言って、二本目を開始すると、
「三時くらいに紫先生がいらっしゃるから、最後は紫先生に針を抜いてもらってね」
 と言って出て行った。
 看護師を見送ったときに気づいたのか、翠はサイドテーブルの本に目をやり、
「本、持ってきていたの?」
「いや、コンビニに行ったついでに兄さんの部屋に寄って、目ぼしい本を何冊か借りてきた。だから、暇をもてあますことはなかった」
「よかった」
 翠は心底ほっとした顔をする。
「そんなこと気にする必要ないから。スマホさえあれば読み物には事欠かないし」
 自我と翠の罪悪感あれこれを考慮すると、こういう返答になる。
「じゃ、やっぱり十階に上がってきてよかったのかな? 処置室じゃ電波入らないものね」
「あぁ、そういう意味では十階は問題なくスマホが使えるからな」
 極力なんでもないことのように話すけど、本当はそんなものがなくても問題ないことに気づいてほしいし、理解してもらいたいと思っている。でも、今すぐ翠の意識がシフトされるわけじゃないから、
「午後は翠もスマホで読書でもすれば?」
 中身のない会話を続けると、
「んー……私はいいや」
「なんで?」
「ツカサが本を読んでるところ見ていたいから」
 屈託ない笑顔で爆弾が投下された。
「は……?」
「きれいな横顔を見て、癒されようと思って」
 もう、今日のベストオブ罪人賞は翠に確定でいいと思う……。
「……じゃ、俺は翠の顔を見て過ごすかな」
「えっ!? それは困るっ。ツカサにじっと見られてると、照れる……」
 途端に恥ずかしそうにもじもじとし始めるから、どうしてやろうかと思う。
「それ、俺も同じなんだけど……」
 翠は少し慌てて、
「じゃ、お話して過ごそう? 私の受験も終わったから、このあとは紅葉祭さえ終わればお休みの日にデートもできるし……」
「あぁ、どこへ行くかとかそういう話?」
「うん」
 それならディスプレイの小さなスマホで検索するよりも、ノートパソコンで検索するほうがいいだろう。そう思ってかばんを手繰り寄せると、翠のスマホがオルゴール音を奏でだした。
「あっ――」
「何……?」
「きっと唯兄……。検査結果連絡するの忘れてた」
 翠が恐る恐る電話に出ると、ベッド脇にいる俺にまで聞こえる音量で、唯さんの怒声が響いた。

 点滴の残りが半分ほどになると、翠が身体を起こして自分の状態を見分しだす。
「体感として、とてもよくなった気がする」
 その言葉にバイタルを確認すると、
「座位で七十八……。まあ、午前中に比べたら全然いいな」
 そう、あくまでも午前中と比べたら。
 一リットル近い水分を補給しても八十には届かない。
 そんな翠の血圧に歯がゆさを感じていると、翠は別のことを気にしていた。
「問題は、この点滴がどのくらいもつか、なのよね……」
 水分など、入れても出て行くものだ。この数時間で翠はすでに何度かトイレに席を立っているし、そこからすると、さほど長くはもたないだろう。
「こんな状態が続くとは思いたくないから、一過性であってくれると嬉しいのだけど……」
 俺もそうであることを願いはするが、翠のこれは、きっと今日だけじゃ終わらない。そんな気がしていた。
 翠の意識を自分に向けたくて、つないでいる手に少し力をこめる。と、翠がこちらを向き、
「検査結果に異常がなかったわけだから、あとは学校で姉さんが点滴を処方すればいい話だろ?」
「でも、一リットル入れるとしたら五時間かかるのよ?」
「あの人なら、点滴したまま教室に戻す」
 現に、そういう過去があるのだから間違いない。
「今日みたいに身体が起こせないほど具合が悪いんじゃなければ、点滴受けながら授業を受けることは可能だろ? なら、それで問題ない。点滴スタンドは海斗や佐野にでも運ばせろ」
 こういうとき、どうして自分が翠の側にいないんだとか、どうして翠と俺の学年が違うんだとか、考えても仕方のないことを考えてしまう。でも、それを嘆いたところで現況が変わるわけじゃないし、それなら翠の今後を考え、対策を練る方が建設的。
「ただ、トイレが近くなるのがネックかなぁ」
 苦笑を見せる翠を少し笑い、
「そのくらいは仕方ないし、教師陣だって理解してくれるだろ」
「うん、でも……授業の途中で席を立つのは、やっぱり少し恥ずかしいよね」
 そんなことを恥ずかしがる翠をかわいいと思う反面、複雑な思いが胸に渦巻く。
 もしも翠が健康だったなら――
「もしも」なんて言葉は好きじゃないのに、そう考えずにはいられなかった。
 そしてすぐに後悔する。「もしも」なんて一瞬でも考えた自分を。
 それは今の翠を否定することになるのではないか――
 違う、そんなつもりじゃない。でも、それと変わらない……。

 三時になると紫さんがやってきた。
 ドアを開けて翠の顔を見るなり、 
「だいぶ顔色がよくなったね」
「はい。体感もいいです」
「じゃ、ちょっと診察をしよう」
 まずは臥位での血圧測定。次が座位、次が立位。
 点滴を打ったからといって、起立性低血圧が解消されるわけではない。ただ、臥位の状態で一〇〇近い数値まで回復しており、座位でも上が九十を維持できる状態。立位でも八十台と午前と比べたら格段によくなっていた。
 最後に脈を測りながら、
「うん。一本に二時間半かければ問題ないね」
「え……?」
「点滴はね、早く落とすと心不全を起こすこともあるし、肺に水が溜まってしまうこともある。頻脈になってしまうこともあるんだ。一度、一時間半で点滴を落としたことがあるけれど、そのときは頻脈になって身体に負担をかけてしまった。だから、翠葉ちゃんはなるべく時間をかけて点滴を落とすほうがいいんだ」
「そうなんですね……」
「時間はかかるけど、その分身体に優しいと思ってくれると嬉しい」
「はい」
「今後のことなんだが、おそらくこの点滴はもって二日だろう」
 兄さんにしても紫さんにしても、翠に対してはこういった話をきちんとするんだな……。
 通常、効果がどのくらいもつかなんて話すものではない。でも、そこを翠が楽観的に考えることがないから、翠が一番不安に思っている部分だから、目を逸らすことなく、話をすり替えることなく事実を述べる。
「体感がいい」と話したときは嬉しそうだったのに、その表情はすでに曇ってしまった。
「だから、夏休みが終わるまではマンションで湊に点滴を打ってもらいなさい。学校が始まったら学校で。点滴をしたまま授業を受けるのはいやかもしれないけど、それが体調を維持する最善の方法だと思う」
 そういう話ならさっき俺ともしていたはずなのに、紫さんの言葉だと真実味が増すのか、翠は慎重すぎるほど慎重に頷いて見せた。
 その様が、まるで涙を堪えているように見えて、胸が締め付けられるような思いだった。
 紫さんも見るに見かねてか、翠の頭に手を置き、
「夏は毎年つらいね」
 翠の目には、明らかに涙が溜まっている。今にも零れてしまいそうなくらいに。
「先生……今は藤宮の生徒だからこういう融通もきくけれど、来年からどうしよう……。短大へ入学したらこうはいかないですよね。そしたら、どうしよう……」
 翠の声は不安に揺れていた。
 翠が短大に入学してしばらくしたら同棲に持ち込もうとは思っているけれど、そこで俺が何をしてやれるわけでもない。
 今は校医がいるから学内で点滴も受けられるが、翠の短大に校医がいるかは定かじゃないし、いたとしても今ほどの融通がきくかは不明だ。
「そのときのことは、私も少し考えてみるよ。だから今は、今のことを考えよう?」
「はい……」
 そこへ点滴終了の通知音が鳴り、紫さんは抜針して病室を出て行った。

 翠は気を取り直して――そんな感じで動き出し、ベッドを抜け出てはタオルケットを畳みだす。そしてスマホで時間を確認すると、
「身体起こせるようになったし、帰ったら楽器の練習しようかな」
 ものすごくわざとらしく、弾んだ調子で口にした。
 なんで俺の前で強がる必要がある……?
 俺は堪らず翠を抱きしめる。
「平気な振りはしなくていい」
 そう言うと、翠の肩が小さく震えた。
「不安なら、不安だって言ってくれたほうが助かる」
 翠はゆっくりとこちらを向き、顔を上げると笑みを浮かべていた。
「でも、紫先生も考えてくれるって言ってたし、今は今のことを考えようって言われたし――」
 この強がりがっ――
 そんな余裕のない笑みを見せられたところで、大丈夫に見えるわけがない。
「それでも不安は不安だろ? そんな平気そうな顔をしなくてもいい」
 自分の腕に閉じ込めるように抱きしめると、胸元からくぐもった声が聞こえてきた。
「でも……不安に囚われたらどんどん弱くなっちゃう」
 それは泣くのを堪えている声だった。
「俺の前でくらい、いいんじゃないの?」
 むしろ、俺はそれを望むんだけど……。
「ツカサが優しすぎるとちょっと困る……」
「なんで?」
「泣きそうになるから」
「泣いていいのに」
 翠は泣き笑いで、
「相変わらず有限実行ね?」
「有限実行っていうか、甘えてもらうのに必死なだけ」
 本当に、今日何度頼ってはもらえないものか、と思ったことか。
「あとでひとりになって泣くくらいなら、今ここで泣いて」
 翠は俺の背中に手を回し、ぎゅっと抱きついてくる。そして、
「でも、やっぱり泣きたくないな……」
「……翠が泣くときは側にいたいし、翠が不安を抱えているなら一緒に抱える。そのうえで支えるから。そういう存在でいさせて」
 翠から少し離れ涙を拭うと、翠が我慢して真一文字に引き結ぶ唇へキスをした。
 そんなに力まなくていい。堪えなくていい。つらいなら、それを俺に分けてくれ――
「まだ家族じゃない。でも、いずれ家族になるんだから、もう少しくらい頼ってくれていいと思う」
 翠の目を見て言うと翠は目を細め、目尻から一筋の涙を零した。
「ツカサが婚約者で、嬉しい……」
 そう言って笑った笑顔は、無理して作られた表情には見えなかった。
「ならもっと、色々話して」
「ん、努力する……」
 言ったあと、翠は背伸びをしてキスをしてくれた。
 俺たちはこれからも、何度だってこうして歩み寄りながら進んで行く。
 二年前は決して重なることのない線が二本並んでいただけだった。でも今は、交わったり離れたりを繰り返している。
 それでいい……。そんなふうにして歩いていければ、それでいい――



Update:2020/06/08



 ↓↓↓楽しんでいただけましたらポチっとお願いします↓↓↓


 ネット小説ランキング   恋愛遊牧民R+      


ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。


↓コメント書けます↓



Page Top