道を行く人の歩みは年末のそれとあまり変わらなかった。
「ね、聖。春や夏はもっとみんなゆっくり歩いてると思わない? どうして冬はみんな早足なのかな?」
「寒いと早く目的地に着きいって思うじゃん。だからじゃない?」
「あ、そっか。聖、頭いいね?」
私の返答に聖がにっと笑う。
「家まで走る?」
聖の挑戦的な眼差しに反射的に答えた。
「よし、受けて立つっ!」
「ハンデは?」
「10カウント!」
「え? それだけでいいの?」
「ちゃんと鬼ごっこのときみたく、いーち、にーぃ、さーんって数えてね? じゃ、スタート! 負けた方が夕飯作るんだよー?」
言いながら私は走り出す。後ろからは律儀なまでの数えっぷりが聞こえてくる。
ひとりで数えるのはさぞ恥ずかしいことだろう。だから前を走る私に聞こえるように、あえて周りにわかるように数えているのだ。
「聖、バッカだなぁ。ちっちゃな声でのんびり数えてくれたらそれで良かったのに」
でも、私はそんな聖が大好きだ。
今の私はどこからどう見ても変な人。だって、走りながら全開で笑ってる。
変な人は途中からふたりになった。それ、即ち、私と聖。
家の前というよりは音楽教室の前に着くと、白い息を吐きながら外にある階段を上る。
「走ると七、八分?」
聖に訊くと、
「そんなもんかな?」
と、まったく息切れしてない声が返ってきた。私はそれがちょっと悔しい。
聖の心肺機能とか肺活量ってどうなってるんだろう?
「私、早朝ランニング再開しようかなぁ……」
「寒さに負けて十二月頭でやめた柊が? 寒さの厳しい一月に再開?」
それを言われるとちょっと痛い……。
「どうせなら続きそうなのにしなよ」
「続きそうなの?」
「屋内スポーツとかさ」
「スポーツジム?」
「んなとこ行かなくても運動公園にあるじゃん」
「あ、支倉運動公園?」
「そっ。あそこ、区画整理で新しくなってからジムもできたって。スカッシュとかほかのものも充実してるらしいよ。確か、まだプールは工事中って駅に張り紙してあった気がする」
「そうなんだ……? 小さい頃はよく行ったけど、今はあまり行かないよね?」
「んー……公園は北口だからね。必然と足は遠のくでしょ。線路や川って居住区を寸断するし」
確かに……。小学校が一緒だったカナちゃんは南口から北口に引っ越しただけで中学が別になっちゃったし、その後あまり会うこともない。
「それにさ、たぶん、スポーツジムに入会したところで“時間がもったいない”って続かなさそう。俺の予想だけど、時間かお金のどっちかが間違いなく無駄になる」
「言われてることが100パーセント確実になりそうなだけに耳が痛い、もげちゃいそう……」
私は思わず両手で耳を押さえる。すると、高いところにあった聖の顔が、ほわんとした笑顔になって目の前に下りてきた。
「だからさ、毎日やるのは今も続けてる腹筋背筋だけでいいじゃん。あとは土日のどっちか運動公園に行こうよ。ひとりじゃ続かなくてもふたりなら続くかもでしょ?」
「聖、付き合ってくれるのっ!?」
「柊ひとりにしとくと誘拐されそうだからねー?」
「むぅっ……どうせちびっ子ですよーっだ」
私はあっかんべーをして聖を追い越し、先に家に入った。
「聖、夕飯私が作る!」
「お、ラッキー。何にするの?」
「オムレツ!」
「じゃ、俺がサラダ作るよ。スープはインスタントでいいよね?」
「うん!」
*****
夕飯を終え、お風呂から上がってきた私は喉が渇いてキッチンに向かった。
リビングでは聖がグランドピアノを弾いている。サイレントモードにはしてあるものの、打鍵音がけたたましく室内に響く。
本人はいたって真面目に弾いているわけだけど、その様相に音がそぐわないあたりが笑える。
私に気づくと聖はヘッドホンを外した。
「ローズヒップティー飲むけど聖も飲む?」
「あ、飲む飲む。そこのカップ、もう空なんだ」
聖が視線を向けたリビングテーブルには空のマグカップが置いてあった。
「了解。ハチミツは?」
「ティースプーン一匙ほどお願いします」
「かしこまりー!」
空のマグカップを回収してキッチンに立ったとき、聖はすでにヘッドホンを頭に装着していた。
私はお湯を沸かす間に聖のカップを洗い桶につけ、新しいカップにティーパックをセットする。電気ケトルがポンッ! と軽快な音を立てれば準備完了。
熱湯を注ぐと、見る見るうちにティーパックから赤い色が滲み出す。私はしばらくの間、耐熱グラスのカップを真横からじっと見て楽しんでいた。
そこに聖がやってくる。
「観察?」
「そう、観察。じーんわりと赤い色が出てくるのってすっごくキレイ」
「確かにね。でも、俺はこっちの黄金色(こがねいろ)の輝きも捨てがたい」
聖が手にしたのは瓶に入ったハチミツ。もともとがきれいな黄金色のハチミツだけど、ダイニングの白熱灯に翳されるとそのキレイさに磨きがかかる。
聖は自分の分と認識したカップからティーパックを引き上げると、そこにティースプーン一匙分のハチミツを入れた。
ティースプーンから垂れ落ちる細い筋は、赤い液体に触れた途端にゆらゆらと螺旋を描いてぼやけていく。
カフェオレやアイスコーヒーみたいに、ミルクとコーヒーで色が違うというわけじゃないからコントラストは楽しめない。でも、カップの側面から見ていると、ぼやけていく様が真夏の陽炎みたいだなと思った。
自分のカップにもハチミツを入れ、キッチンよりは暖かいリビングに移動する。
「ねぇ、聖」
「ん?」
「“恋”って甘い……んだよね? それとも“甘酸っぱい”……のかな?」
私はルイ君が好きだと思う。会えたら嬉しいし、話せたらハッピーだ。
でも、“甘い”と感じたことはないし“甘酸っぱい”と感じたこともない。気分的にはいつでも挑戦者。
「柊、まず第一に……“恋”は食べ物じゃないと思います」
「え!? じゃ、初恋のキスはレモン味って嘘!?」
「柊……何か話し飛躍してるし。――大体にして、初恋のキスはレモン味っていつの何のキャッチコピーだよ……」
「え、わかんない……。話し、飛躍してたかな?」
「ちょっとね」
そんな話をしつつも、私は“甘さ”という幻想に囚われたまま――。もしかしたら“甘さ”じゃなくて、ハチミツがローズヒップティーに溶けるときに見せる、“ゆらゆらふわふわ感”だったかもしれない。
“恋”をしている自覚はあるものの、そんなほんわかした気持ちにはなったことはなかった。
「柊はあの立川に“ハチミツ”を期待するの?」
実際に言葉を当てはめられるとしっくりこないのはどうしてだろう……。
「ルイ君が甘いとか考えられない……」
「それ、おかしいよ。だって“恋”に甘さを期待してるんでしょ? その“恋”の相手は立川じゃん。イコールにならないの?」
「うーーーん…………。すごく抽象的なんだけど、聖なら解ってくれると信じて話す」
私はハチミツがローズヒップティーに溶けるときの話をした。
「その“ゆらゆらふわふわ感”が甘さ……っていう認識?」
「…………ごめん、もうちょい詳しく話して」
「“恋”は“甘い”。“甘い”は“ハチミツ”。――ハチミツはね、熱湯に溶けると“ゆらゆらふわふわ”するんだよ?」
「あぁ、なんとなく意味がわかってきたかも……。っていうかさ、抽象的よりも連想ゲームっぽい」
聖がおかしそうに笑った。
「あのね、熱湯はたぶん“想い”だと思うんだ。でもね、私の“想い”がぐつぐつ沸騰してても、ルイ君っていう“ハチミツ”は溶けてくれないの。だから、ゆらゆらふわふわがないの。――私はただ沸騰した液体のままで、融点不明なハチミツさんが溶けてくれないことには甘くはなれないんだよ」
「…………すさまじく、柊独特のたとえだなぁ」
「そう?」
「うん。……でも、いつか甘い飲み物になれる日がきたらいいね? 次、立川にあったら心の融点がいくつか訊いてみたら?」
「うん、そうする。聖は?」
「俺?」
「うん。ローズヒップティーにはハチミツ入れたくなるでしょう?」
「そうだなぁ……。ティースプーン一匙くらいの甘さは求めてるかもね」
今まで恋愛の話しなど兄妹間ですることのなかった私たちは、少し気恥ずかしい思いはあるものの、それぞれの好きな人の話しをしながら土曜日の夜を過ごした。
「聖、明日運動公園行こうっ!」
「運動公園に行く……イコール、駅越えだな」
「その通りっ!!」
「うっし! じゃぁ、明日は8時出発ってことで、朝食は7時ね」
「ラジャっ!」
Update:2012/01(改稿:2013/08/18)
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