終点の駅に着くまで二割ほどの生徒が途中下車したけど、それでも二割だ。
ルイ君はフリスクを口に放り込んではガリガリと音を立てる。
珍しい――そして、怖い。
いつもなら音を発することのない人が音を立てている。
今日一日、ルイ君がどれだけチョコレート攻撃にあっていたのかなんて、さっきの状況を見れば想像に易い。
クールな人間といえど、限度はあるだろう。
なんというか、ストレスマックスな感じでしょうか……。
バスが終点の駅に着く直前、隣から、ちっと舌打ちが聞こえた。
どうやらフリスクが打ち止めになったようだ。
あ、と思う。
今、私のかばんの中には真新しいフリスクセット済みの黒いケースが入っているのだ。
ルイ君は人が全員降りるまで動くつもりはないらしく、人の視線を避けるためか、出逢ったときよりも少し長くなった前髪を簾のようにして下を向いていた。
私はかばんからフリスクを取り出し、ポケットに忍ばせる。
バスを降りる間際に渡そう……。
さりげなく、さりげなく、さりげなく――。
私は心の中で何度も唱えた。
人が全員降りたのを気配で察したのか、ルイ君が頭を上げる。
組んでいた長い足を解き、反動もつけずすっと立ち上がった。
私はその後をちょこちょことついていき、降車口一メートル前でルイ君を追い越した。
ルイ君はびっくりした顔をしたけれど、私の行動パターンには大分慣れてくれたのか、「今日はなんだ」という視線を向けられる。
「これっ、中身満タンのフリスクっ」
私はケースが見えないようにカシャカシャっとフリスクを振って見せた。
「ストレス解消にどーぞっっっ」
ルイ君の手にそれを押し付け、先にバスを降りる。
バスを降りたところには、まだ諦めがつかないらしいお嬢様方が王子様の降車を待ちわびているわけで……。
私はその視線から逃れるように走り出した。
駅から家までは走れば七分。七分我慢すれば家に着く。
きっと一階の音楽教室では蓮井さんがにこりと笑って出迎えてくれることだろう。
“脱兎の如く”とはこういうことを言うんだろうな……と頭の片隅に思いつつ、ただひたすらに走った。
「蓮井さんっ、ただいまっっっ」
音楽教室のドアを開けるなり大声を出した私に蓮井さんがびっくりする。
「お、おかえり。柊ちゃん、どうしたの?」
目を丸くして訊かれる。
この場に生徒さんや親御さんがいなかったことが救いだ。
「もうやだっ! バレンタイン病の女子の視線脅威っ」
「ははぁ……。聖くん、人気あるだろうとは思ったけど、そんなすごいの?」
「聖じゃなくて王子様っ。ルイ君と一緒にいるだけで、私穴だらけになるかと思ったっ」
「王子様?」
「怖かったよーっ。私、何で今日渡しちゃったんだろーっっっ」
私は頭を抱え、その場で地団太を踏む。
「……柊ちゃん、落ち着いて」
「無理っ! お風呂入って寝るっ」
だだだ、と階段を上ると後ろから蓮井さんの声が聞こえた。
「ちゃんと夕飯は食べるのよー?」と。
*****
私は蓮井さんに言ったとおり、今日あったことを全部洗い流してしまいたくてお風呂に入った。
湯船につかる余裕も気力もない。ただ、ザーッとシャワーを浴び、出てくれば髪の毛を乾かすこともせずにお布団にもぐった。
なんで今日渡しちゃったんだろっ!? 絶対に今日は渡さないって決めてたのにっ。
なぜ今日渡してしまったのか――ほかの何よりもそのことに後悔していた。
「柊ー? ご飯作ったから起きて」
「ん……食べたくない」
「えっ!? 何? 明日は雹(ひょう)が降るの?」
聖が閉めてあったカーテンをよけて窓を開ける。
「聖っ、寒いでしょっ!?」
「起きない柊が悪い」
「むぅぅぅ……」
「ほら、起きてご飯」
食べたくないと思った。
本当に食欲だってないのだ。でも、作ってもらったものをぞんざいにもできない。
仕方なく、私はのろのろと起き上がり、乾かさずに寝て爆発している頭を撫で付けた。
それを見た聖に笑われる。
「それはひどい……」
くくく、と笑っては、デスクに置いてある櫛で髪の毛を梳かしてくれた。
「これはダメだな。あとでもう一度お湯つけておとなしくなったところでドライヤー。じゃないと、明日の朝、手が付けられないことになるよ?」
言われて渋々頷いた。
聖は私の頭を見るたびに笑う。
このままだと食事中もずっと笑われることになりそうで、私はニット帽をかぶって二階に下りた。
ダイニングではすでにテーブルセッティングまで終わっていた。
やたら分厚い牛ひれ肉にベビーリーフ。インスタントには見えないコーンスープ。それからご飯。
「聖、何か豪華。どうしたの?」
「だって、今日はバレンタインでしょ?」
にこりと笑顔と共に返って来た“バレンタイン”の文字に発狂しそう。
「え? 何、柊。どうしたの?」
「いい、後で話す。今はこの、食欲がないのにどうしても食べたくなってしまった牛ひれ肉を美味しくおなかに収めるべくナイフとフォークを手に取りたい」
「……変なの」
「変でいいもん」
私は席に着くと、用意されたそれらを美味しく頂いた。
ステーキはにんにくの香り付けされたオイルで焼かれており、程度はミディアム。
ナイフで切ると、外側はしっかりと焼けているのに、中半分くらいが生。
塩コショウして焼かれたそれに、バターを塗ってウスターソースをかけて食べるのがうち流。
お肉は驚くほど柔らかくて、お肉なのにとても繊細な口当たりだった。
「……最悪な気分でも美味しいものは美味しいのね」
私は素直に感想を述べた。
まるで、泣きながら寝ていたのか……? と思うようなだみ声で。
「柊?」
「だから、後で話すってば。今は美味しいものだけ食べるのっ」
私は美味しい料理を黙々と食べ、全神経を料理だけに注ぐ。
食べ終わると、聖が片付けはあとで自分がするからと言ってくれたのをいいことに、今はふたりしてお茶を飲んでいる。
珍しく、聖チョイスでローズヒップティー。
リビングにあるグランドピアノには、可愛らしいスクエアボックスがちょこんと乗っていた。
聖はそれを手にとると、箱を開け芸術的な見栄えのチョコを一粒私に差し出す。
「一個だけあげる」
「いらない……」
「……これ、レイさんからのだよ?」
「えっ!?」
聖はにこりと笑った。
「餌付けミッションコンプリート。無事、実を結びました」
満面の笑みで言われて即座におめでとうを言った。
自分のことのように嬉しいのに、どうにもこうにも自分の気持ちが晴れない。
胸のあたりはもやもやするし、頭も何だか霞がかかってるようだ。
「で? 柊はなんでそんなことになってんだか」
「……聖、何で今日がバレンタインデーなんだろうっ?」
「……えぇと、それは今日が2月14日だから?」
「そんな答え欲しくありません」
「そうは言われてもねぇ……」
私は渋々今日の帰りの話をした。
「あははははっ。柊それっ!」
「だからっっっ、今日渡すつもりなんてこれっぽっちもなかったんだってばっっっ」
あ゛ぁぁぁっっっ。
「もーーーっっっ、何で、私今日、渡しちゃったんだろうっ!?」
悔やんでも悔やみきれないとはこういうことを言うのだろう。
「っていうか、本来そこ後悔するとこじゃないでしょーよ」
「だってバレンタインデーだよっ!? 何でよりによってそんな日に一緒に帰る羽目になるは、フリスク渡す羽目になっちゃったんだろうっっっ!?」
本当、どれだけ悔やんでも悔やみきれない……。せめて、今日が十三日とか十五日だったら良かったのに。
後悔のせいか、だんだん頭も痛くなってきた。
「でもさ、そのケースがプレゼントかそうじゃないかは別として、立川、そのフリスクには救われたと思うよ?」
「え?」
「今日、立川と一言もかわすことなかったけど、明らかにいらついてたし、お互いフリスクに頼って過ごしてるところあったから」
どうやら聖はチョコの匂い回避にフリスクを使っていたらしい。
「立川、学校でフリスク一ケースあけてるから、帰りのそれは二つ目。しかも、それを切らしたともなれば相当なストレスだったんじゃないかなぁ……?」
「……もうね、隣でガリガリガリガリ音立ててるのの怖いことったらなかったよ」
「くくっ、想像できるだけにおかしいよっ」
聖はついにおなかを抱えて笑い出した。
「聖、ひどい……っていうか、私もう寝る」
「うん、そうした方がいいと思う。でも、その前に風邪薬飲んでね」
聖は電話機が置いてある棚から救急箱を取り出し、風邪薬をこちらに放る。
「なんで風邪薬……?」
「だって、柊熱あるもん」
「熱があるのは顔だけで結構」
「そうじゃなくて……。ほら、体温計」
体温計を差し出され、不思議に思いながら体温を計る。
数分後、ピピッと音が鳴りデジタル表示を見ておののいた。
「三十八度五分ってなーにーーーっっっ!? これ、誰の体温!?」
「誰のって柊のでしょうが……。その声からして風邪確定でしょ?」
声……?
いつもなら、自分の声のコンディションはきちんと把握しているのに、今日に限ってはどっかに忘れてきたかのように気にしていなかった。
「ぎゃーーーっっっ。こーえーがーーーっっっ」
「だから、おとなしくしてろってば……」
聖がキッチンから水を持ってきてくれ、私は納得いかないながらにも薬を飲む。
「さっき髪の毛梳かしてるとき、妙に頭熱かったんだよね。それで食欲ないとか言うし。ご飯は食べられたから良かったけど、現に鼻声だし……」
聖の指摘は正しく、今の自分に起きている事象全てが“風邪”だと言っていた。
「インフルエンザじゃないといいけど……。明日は一応休んで松崎さんとこ行っておいでよ」
「ん、そうする……」
松崎さんとはうちの隣の松崎医院のこと。
私たちが小さいときからお世話になっている病院で、ご近所づきあいもある。
相当よれっよれになってない限りひとりで行ける距離だし、もし、よれっよれになってたとしても電話すればお昼休みのときに往診してもらえる。
まだ熱上がるのかな……?
「寒気は?」
「ない。熱いくらい」
「んじゃ、食器の片付け終わったら氷枕持ってくから、先に休んでな」
私は片付け全般を聖に任せて自室に戻った。
なんだか踏んだり蹴ったりの一日だ。
今年のバレンタインは最悪な一日だった――。
Update:2011/12(改稿:2013/08/18)
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