光のもとでT

第一章 友達



第一章 友達 18話


 意識が浮上すると、鳥の鳴き声が聞こえてきた。
 ホーホケッ……ケッキョケッキョ……。
 朝特有の静寂の中、鶯の少しマヌケなさえずりだけが響いている。
 なんだかとても不器用な鳴き声だ。でも、それがとてもかわいく思えた。
 聴覚、嗅覚……少しずつ身体の機能が働きだす感覚。起きる直前のこの感じが好き。
 昨夜、栞さんが炊いてくれたスイートオレンジのアロマの残り香が鼻腔をくすぐる。
 瞼の向こうがとても明るい。今日もきっと晴れ……。
 そこまで考えて目を開けた。
 時計を見ると六時ちょっと前。いつも六時にタイマーをかけているから、自然と目が覚める時間なのかもしれない。
 起きようとすると、栞さんが部屋に入ってきた。
 栞さんは毎朝六時前にうちに来て、私たちの朝食の用意をすると一通り家事を済ませて十時ごろに帰宅する。
 私が家にいるときはお昼を一緒に食べてから帰る。そして、夕方の五時くらいには再度来てくれ、夕飯を作ると一緒に食べて八時過ぎに帰るのだ。
 今日はお母さんもいるのに、いつもどおりに来てくれた。
「おはよう、気分はどう?」
「大分すっきりしました。吐き気もないし、筋肉痛も少しだけ」
「そう、良かったわ。でも、今日はお休みよ?」
 計測を済ませると、起きられるようなら起きてかまわないと言われる。
学校を休めとは言われても、一日中寝ていなさいとは言われなかった。ただ、無理に身体を動かさず安静にしていなさい、というもの。

 洗面を済ませ、ルームウェアに着替えてリビングに出ると、
「翠葉ちゃん、そのワンピース好きね?」
 栞さんがいつものようにハーブティーを淹れてくれ、窓際のテーブルに置かれる。
 今日着ているのはリネン素材のベージュのワンピース。襟ぐりと袖口、スカートの裾にだけ紫色の小花模様の生地が使われており、袖はベルスリーブになっている。
 胸元の、紫色の小さいボタンがアクセントだろうか。これ一枚では肌寒いので、上に去年編んだ若草色の三角ストールを羽織っていた。
 リネンのくたっとした感じが心も身体もリラックスさせてくれる気がして好き。
 ハーブティーを飲みながら、床に座ってお庭を眺める。
 いつもと変らず血圧が低いため、椅子に座っているのはちょっとつらい。その点、床にペタンと座ってしまうほうが幾分か楽。
 冷えるから、と栞さんが私の部屋からビーズクッションを持ってきてくれた。
 直径七十センチもあるビーズクッションは、身体を沈ませると身体の形にビーズが動き、しっかりとホールドしてくれる。
 数年前に蒼兄が買ってきてくれて以来、ビーズがへたったら新しいのを入れて使い続けている。
 ぼーっとお庭を眺めていると、玄関で音がした。
 早朝ランニングから蒼兄が帰ってきたのだろう。
 なかなか姿を見せないところを見ると、そのままシャワーを浴びに行ったようだ。
 十分もすると、頭をワシワシと拭きながら蒼兄がリビングに現れた。
「蒼兄、おはよう」
「おはよう、具合は?」
「身体を起こせるくらいにはいいよ。熱も三十七度五分まで下がったし」
「そっか……。でも、昼過ぎには熱が上がるかもしれないし、今日一日はゆっくりしてろよ? あまり調子に乗って起きてないこと。起きてられる時間は課題やってな。わからないところは大学から帰ったら見るから」
「ありがとう。そうする」
 蒼兄は満足そうに笑い、二階の自室へ向かって階段を上り始めた。
 均整の取れた身体は後ろ姿も格好いい。なんというか……無駄も隙もない感じ。
 高校のころ、蒼兄はスプリンターだったのだ。
 高校二年間は陸上部に在籍していたため、今も蒼兄の部屋にはいくつものトロフィーや盾が飾られている。
 何度か記録会や大会を見に行ったけど、蒼兄の走る姿はとてもきれいだった。
 人体を美しいと思ったのはそれが初めてかもしれない。
 ずっと続けるものと思っていたけれど、高二のインターハイが終わると蒼兄はあっさりと辞めてしまった。
 あれはどうしてだったのかな……。
 退部して以来、蒼兄は雨の日以外は早朝ランニングを欠かさない。本人曰く、
「身体動かすのが日課だったから、なんかやってないと調子が狂う」
 だそう。
 これも、積み重ねのひとつなのかな。

「翠葉、おはようっ!」
 朝から元気なお母さんが、二階から下りてきた。すぐに蒼兄も下りてきて、家族三人での朝食となる。
 いつも私の前に座るのは蒼兄だけど、昨夜の予告どおり、今朝はお母さんが目の前を陣取っている。
 お母さんは何事においても有言実行の人だから、間違いなく私が食べ終わるまで席を立つつもりはないのだろう。
 結果、一時間半をかけてすべてのご飯を食べ終えた。
「胃が重い……」
 胃のあたりを押さえて椅子の上で丸くなる。と、
「翠葉ちゃん、お薬飲んだら少し横になっていらっしゃい。昨日の今日でよく食べたとは思うけど、食後は貧血を起こしやすくなるから」
 すでに、食べたものを消化しようとがんばりだした身体は、お腹に血液が集まりだしているようで頭がくらくらしている。
 ふとすれば、頭から血の気が引きそうな感覚に襲われ、私はおとなしくベッドに横になった。

 目が覚めると、視界の隅にお母さんが映った。
 もしかしたら、家でできる仕事を持ち帰ってきたのかもしれない。
 ローテーブルに置いたノートパソコンから顔を上げ、
「あ、起きた?」
「うん……お母さんは仕事?」
「そう。家でできるものだけ持ち帰ってきたの」
 満面の笑みで答える。
 お母さんもお父さんも仕事が大好きな人だと思う。もしくは、大好きなことを仕事にできた人。
「ね、翠葉。翠葉の写真集を見せてもらえない? グリーン系が見たいんだけど」
「本棚の一番下、右端から色別で分けてあるよ」
 私の写真は時系列順ではなく、色別でアルバムを作っている。
 それはお母さんのアドバイスだった。その代わり、バックアップデータはきちんと日付順に取ってある。
 分厚い写真集を取り出し、お母さんは真面目な顔つきで一枚一枚をめくっていく。
 それはなんとなく見ている、という感じではなく、完全に仕事モードだった。
「今の仕事、建物内に飾るものを数点探してるんだけど、いまいちピンとくるものがないのよね。こういうものが欲しい、っていうのはあるんだけど、それをプロの写真家にお願いして撮ってもらうとどうしても作られた感じになっちゃって……。自然なはずなのに、不自然なのよ」
 ブツブツと口にしながらページをめくる。
「こういうものを」とオーダーされたら、ある程度それに近づけるための環境設定をするだろう。すると、作られた世界が主張しすぎてしまうのかもしれない。それが違和感と捉えられてしまうのか……。
 プロのカメラマンって大変なのね、と他人事のように考えていた。
「これ、いつ撮ったの?」
 訊かれたのは、スマホのカメラで撮った画像だった。
「スマホを買ってもらった日だから、入学式の日」
「翠葉、とってもタイムリーだわ」
「え……?」
「スマホで撮った画像っていうのがあれだけど、ソフトで補正をかければいいわね。これ、使わせてもらえないかしら?」
「……使えるのなら、どうぞ?」
「ありがとう! じゃ、依頼主の了承を得たら使わせてもらうわね。建物が出来上がったら一緒に行こう!」
「うん。楽しみにしてる」

 お母さんはインテリアコーディネーターを仕事にしている。
 昔から、飾る絵が見つからないとか写真が見つからないとか言いながら、たくさんの本を漁って探している姿を見てきた。
 お母さんの仕事場には無数の写真集や絵画の本が置いてあり、幼いころから、私はそれらを見て育った。
 今も何冊か、お母さんの仕事部屋から持ち出した写真集が自室にある。
 中学のころから写真を撮ることが趣味となった私は、その都度撮ったものを見てもらってはアドバイスをもらっていた。
 そして、出来のいいものがあると、お母さんは決まってポストカードにして仕事先へ出すグリーティングカードに使ってくれていた。
 もちろん、そんなことは年に一度か二度あればいいほうで、私の写真は素人の域を出ない。
 今回もそんな気持ちで、「いいよ」と言ったつもりだった。けれど、のちにまったく違うことと知ることになる。
「それにしても、翠葉……接写が好きなのは知ってたけれど、ずいぶんと腕を上げたわね?」
「本当? 自分ではまだ満足いくように撮れなくて、納得いかないものが多いのだけど……」
「何事も積み重ねよ。最初からパーフェクトにできる人なんていないわ。試行錯誤を重ねて何度も撮って、そうやってうまくなっていくものよ。ピアノやハープと一緒」
 先日蒼兄に言われたこととほぼ同じこと。思い出しては笑みが漏れる。
「あら、何笑ってるの? お母さん、今ものすごくいいこと言ったと思うんだけど」
 お母さんがベッドに座り、くすぐり攻撃の態勢を取る。私は脇を締めてかまえる。
「入学式の日にね、同じことを蒼兄に言われたの。だから、蒼兄はお母さんの子なんだなって思っただけ」
「あら、蒼樹が……? そっか。蒼樹もそんなことを言うようになったか」
 お母さんは感慨深そうにくつくつと笑う。
「そういえば、蒼兄は今でも早朝ランニング欠かさないんだよ。すごいよね? 毎朝十キロって……。私にはどんなものか想像もできないけど、きっとすごくハードだと思うの」
「そうねぇ……。でも、それがあの子の礎になってるんじゃないかしら?」
「いしずえ……?」
「そう。自分の自信につながるアイテム」
 自分の自信につながるアイテム、か……。
「お母さんは蒼兄がなんで陸上を辞めちゃったのか知ってる?」
 今朝疑問に思ったことを訊いてみた。けれど、お母さんからはカラっとした答えしか返ってこない。
「知らないわ」
「……訊いたり止めたりしなかったの?」
「だって、訊く前に辞めてきちゃったし……」
「それがどうかしたの?」というような表情を返され、何も訊くまい……と思う。
「翠葉、事後報告は蒼樹の専売特許よ?」
「そうだった……」
 知りたいと思う気持ちに終止符を打つ。いつか、蒼兄本人に訊いてみよう。
「でも、そんな難しい理由じゃないと思うわ」
「え?」
「……ほかに興味を惹くものができたから、とかそんな理由」
「やりたい、こと?」
「そう、建築やインテリアデザイン。親がこんな仕事してるからかしらね? 興味を持ってくれるのは嬉しいけれど」
 うちはお父さんが建築家、お母さんがインテリアデザイナーをしている。
 自宅で仕事をしているので、それを目にすることは多々あった。蒼兄が興味を持ったとしてもなんら不思議なことではない。
「でも、興味を持ったら部活を辞めなくちゃいけないものなの?」
「一概にそうとは言えないけど、蒼樹はああ見えて不器用なのよ」
 蒼兄が不器用なんて信じられない。私が見る蒼兄はいつもなんでもそつなくこなしてしまう人だ。
「器用そうに見えて、意外に不器用なのよ」
 クスクスと笑うお母さんを信じられない思いで見ていると、
「あら、ショック? 蒼樹もかなりのシスコンっぷりだけど、翠葉のブラコンも大したものよね?」
 と、さらに笑われる。
 蒼兄のあれは、シスコンというよりも心配症なだけだと思う。でも、私のは間違いなくブラコン……。自覚しているだけに救えない。
 だって、今まで蒼兄以上の人なんて見たことがない。藤宮先輩は格好いいと思うけど意地悪だし……。
 ――「ひどいけど、格好いいよね」。
 先日言われた蒼兄の言葉が、どうしてか頭の中にこだましていた。



Update:2009/05/06  改稿:2019/12/31


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