第二章 兄妹 11話
日曜日の朝、熱を測ると微熱はまだ下っていなかった。
「昨日、午後はおとなしく休んでいたのに……」
「慢性疲労症の熱は下りにくいものだわ。体調はどう?」
「多少の倦怠感がある程度で、筋肉痛や吐き気、頭痛はないです」
「そう。なら、今日もおとなしく過ごすこと。ずっと寝てなさいとは言わないから、一時間起きてたら、次の一時間は横になって休む。いい?」
言われて頷くと、栞さんはテーブルのスズランに視線を移した。
「お花、かわいいわね」
「それ、栞さんにです!」
「え?」
「いつもお世話になっているお礼です」
昨日の帰り、蒼兄にお願いしてお花屋さんに寄ってもらったのだ。鉢植えのスズランを買いたくて。
「わぁ、嬉しい!」
栞さんは顔を綻ばせスズランに近づくと、白く小さなお花に右手の人差し指で優しく触れた。
「実はね、五月一日が誕生日なの。しかも、誕生花はスズランなのよ!」
「すごい偶然! 少し前に学校でスズランが咲いていたのを見かけて、栞さんみたいだなと思ったんです。数日早いけど、お誕生日おめでとうございます!」
「ありがとう! 以心伝心とはちょっと違うけど、似たようなものよね?」
ふたり顔を見合わせクスリと笑う。
こういう偶然はなんだか嬉しい。
スズランの花言葉が「幸せの再来」というのは、お花屋さんで知ったこと。
正に、栞さんが来てくれるようになってから幸せのオンパレード。
「熱、明日には下るといいわね」
「はい」
栞さんが部屋を出る間際、ドアを閉められそうになって慌てて声をかけた。
「ん……?」
「ドア……開けていてもらえますか?」
「え?」
「この部屋……とても好きだけど、やっぱり……」
「……そうね。ひとりの空間って味気ないものね。掃除機かけたりするから少し騒々しいけど、いい?」
「はい」
「じゃ、開けたままにしておくわ」
栞さんはにこりと笑って、引き戸のドアを開けたままリビングへと戻った。
今日は蒼兄も大学へ行っているし、両親が帰ってくるのは夜だという。
家に誰もいないなら、部屋にひとりも仕方がない。でも誰か人がいるのなら、その人の気配を感じていたい。
ゆっくり起き上がると、ハープの前に座る。
調弦を済ませ、日課のスケール練習をしてから小曲に手をつけた。
今日は音が柔らかい……。
適度な乾燥が木に与える影響は、とてもいいのだ。
湿度が高すぎると少し篭ったような抜けきらない音になるし、乾燥しすぎるとキンキンと角の立つ音になる。
今日は音がクリアできれいに響く、楽器のコンディションがとてもいい日。
ここ一ヶ月を思い出しながら、思うままに弾く。
モチーフが思いついたら、忘れないうちに五線譜に記しながら。
気持ちは面白いくらい曲へ反映される。
今は楽しいことや嬉しいことばかりで、長調のフレーズしか出てこない。
自分のわかりやすさを笑いながら、幸せに満ちたフレーズばかりを五線譜に記し続けた。
言いつけどおり、一時間起きたら一時間休む。
次の一時間は課題をやろう……。
未履修分野の問題集はあと四冊弱。
残っているのは英語と世界史、日本史、公民。見事に苦手科目ばかりが残っている。
なんて正直なんだろうと思いつつ、仕方がないので横になりながら、問題集とセットになっている冊子に目を通した。
冊子さえあれば問題なく解けるのだ。が、それでは試験はパスできない。
暗記して、実力で問題を解けない限り、テストの対策にはならない。だから、課題を提出するギリギリまで待ち、最後に詰め込もうというこの魂胆……。
どこまでも苦手意識を地でいっている気がする。
英語に関しては、最近少し前向きに取り組んでいる。
それは、球技大会で海斗くんが教えてくれた英文がきっかけ。
文法はやっぱり苦手。でも、格言を英語にしたものやことわざを英語にしたものを、和訳英文セットで覚えることには面白さを見出すことができた。
興味さえ持てれば取り組めるのに……。
これは私の欠点だ。興味が持てないものにはなかなか取り組む姿勢がとれない。
でも、きっと誰も同じなんだろうな……。
そんなふうに、一時間ごとのオンオフを繰り返していると、あっという間に日の沈む時間になった。
そろそろ部屋の電気をつけよう。
リモコンのボタンを押すとピッ、と電子音が鳴る。それと同時に違う音も鳴りだした。
ローテーブルの上で主張し続けるのは、
「スマホ……?」
着信音がメアリーポピンズの「お砂糖ひとさじで」だからクラスメイト。
ディスプレイを見ると桃華さんからの電話だった。
「はい」
『翠葉、明日何時にどこにする? っていうか、家から近いってどのくらい近いの? 家まで迎えに行ってもいいわよ?』
「あ、本当に近くてね、徒歩三分で敷地内に入れちゃうの。それに、明日は蒼兄も行くって言っていたから、陸上競技場の入り口で大丈夫だよ」
『あら、本当に近いのね? それに蒼樹さんも一緒なら安心だわ。それ、佐野に言った?』
「ううん。内緒にしておこうと思って……。サプライズになるかな?」
『そうね。明日、会場で気づくくらいがちょうどいいんじゃないかしら? じゃあ、八時五十分に陸上競技場の入り口でどう?』
「あっ、あのね、入り口が何ヶ所かあるんだけど、短距離を見るなら右側から二番目がいいの。だからそこでいい?」
『わかったわ。じゃ、明日ね』
桃華さんは電話で長話はしない人。飛鳥ちゃんはそれなり。海斗くんや佐野くんも用件のみ。
実のところ、私は相手の顔が見えない電話というものがとても苦手だ。だから、メールでのやり取りのほうが気が楽だったりする。
スマホには互いの顔を見ながら話せる機能もついているけれど、自分にカメラを向けるのはもっと苦手。
時々、お父さんやお母さんからその手の電話がくるけれど、どうしても慣れない。でも、お父さんとお母さんの顔が見られると嬉しいと思うのだから、少し現金だ。
カーポートに車が入ってくる音がした。
蒼兄かな? それともお母さんたち?
しばらく待っていると、三人同時に帰ってきた。どうやら帰ってきたタイミングが同じだったみたい。
栞さんとふたりで出迎えると、知らない人も一緒だった。
両親の影にもうひとり、男の人――
お客様? それともお仕事関係の人?
「やあ、翠葉ちゃん。初めまして」
男の人はにこりと笑みを浮かべた。
年の頃は両親と同じくらい。
「翠葉、以前話したでしょう? 翠葉の写真を使いたいって言っている人がいるって。この人よ」
お母さんにそのように紹介され、男の人が一歩前へ出た。
「ウィステリアホテルのオーナーをしている藤宮静(ふじみやせい)と申します」
肩書きと名前というとてもシンプルな組み合わせなのに、どうしてか、とても丁寧に挨拶をされた気がした。
それはきっと、洗練された身のこなしが付随するからそう感じるのだろう。
「娘の翠葉です。父と母がいつもお世話になっています」
すると栞さんが、
「玄関じゃなくてリビングに行かれたらどうですか?」
両親に声をかける。
「静兄様、今日はこちらに泊まられるのでしょう?」
え……? セイニイサマ……?
「おっ、翠葉の頭にクエスチョンマークが浮かんでるな!」
お父さんは笑いながら靴を脱ぎ、お母さんは私の背に手を添えた。
「栞ちゃんの言うとおり、とりあえずはリビングへ行きましょう」
栞さんがご飯の用意をてきぱきと済ませ、みんなでダイニングテーブルに着いた。
「じゃ、改めて紹介しよう。この人はね、栞ちゃんのお兄さんで父さんと母さんの同級生なんだ。でもって、今やっている仕事のオーナー、藤宮静さん」
びっくりして蒼兄を振り仰ぐと、
「俺もさっき知ったんだよ」
と、肩を竦めて見せた。
「この仕事が決まったとき、栞ちゃんを紹介してくれたのは静なのよ」
お母さんが、「本当にいい人を紹介してもらったわ」と嬉しそうに言う。
誰かの紹介であることは知っていたけれど、この人の――そうなんだ……。
「それにしても、蒼樹くんも格好いいけど、翠葉ちゃんはかわいいね。若いころの碧に生き写しじゃないか」
「ほらほら、早く食べないとシチューが冷めますよっ!」
栞さんの言葉に、みんながスプーンを手に持つ。
今日は大好きなビーフシチュー。
前回は具合が悪くて食べられなかったらから、今日はリクエストして作ってもらったのだ。
「相変わらず栞は料理がうまいな」
言いながら、静さんもスプーンを口へ運ぶ。
食べ方にすら気品を感じるのは気のせいだろうか……。
あ、でも、ホテルのオーナーというのだから、そのくらいのスマートさは必要なのかもしれない。
「翠葉ちゃんの視線が痛いな」
「ごめんなさいっ」
人をじっと見てしまうのは癖で、自分でも気づかないうちに観察を始めてしまうから、こればかりは直しようがない。
「いや、そのくらい見てくれてかまわない。仕事をするうえで、私がどんな人間なのかを翠葉ちゃんの目で見極めてもらいたいからね」
静さんはにこやかに笑うけれど、私は笑顔を返せない。
「仕事」という聞き慣れない言葉に、緊張し始めていた。
「じゃ、ご飯が食べ終わったら静と翠葉は打ち合わせね」
「打ち合わせ……?」
「そう、お仕事の話。翠葉の部屋でいいんじゃない?」
「それは、私ひとりなの……?」
「そうよ。だって翠葉のお仕事だもの」
「翠葉、大丈夫だ。父さんたちはこっちにいるだけだから。何かあれば呼べばいいよ」
お父さんにそう言われて小さく頷いた。
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