第二章 兄妹 13話
あのあと、私はお風呂に入ってすぐに寝てしまったのだけど、蒼兄や静さん、お父さんとお母さんはリビングでお酒を飲んだりなんだかんだとしていたよう。
今朝、一緒に朝食を摂ると、お母さんたちはすぐに三階へと上がった。
窓の外はとても天気が良く、試合日和といった感じ。
「洋服、何着ようかな?」
今日の日中は結構暑くなるみたいだから――白いノースリーブのワンピースに羽織ものを持っていこう。
このワンピースはシンプルなデザインながらも、裾がスカラップ素材なところがお気に入り。
桃華さんはどんな格好で来るだろう。
皆が同じ制服を着ている中では大人っぽく見えるけれど、私服だとまた印象が違ったりするだろうか。
「……ふふ、楽しみ」
ドアを開けると、蒼兄はいつものように新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
蒼兄は何を着てもかっこいいからチェック要らず。
それにしても――
昨夜は遅くまで飲んでいたはずなのに、目の前の麗しい兄に二日酔いの気配は見られない。
今朝も変わらず走りに行ったのだろう。
「体調は?」
「微熱は下らなかったけれど、体調が悪いわけじゃないよ」
「無理はするなよ?」
「わかってる」
「じゃ、そろそろ行くか」
「うん!」
家を出て、徒歩十五分で陸上競技場の入り口にたどり着いた。
「しつこいわね……友達を待ってるって言っているでしょう?」
「だからさ、その友達も一緒にどう? あとから来るのも女の子でしょ?」
「本当にしつこいわね……。自分の高校を応援するのに、なんで他校の人間といなくちゃいけないのよ」
「じゃ、まずはどこ高なのか教えてよ」
桃華さんは男子ふたりに絡まれ、麗しの顔を崩し始めていた。
「ナンパ、かな? 翠葉、ちょっとここで待ってな」
言うと、蒼兄は颯爽と走っていった。
「簾条さん!」
「蒼樹さんっ!」
「遅れてごめんね」
「いえ、まだ待ち合わせ五分前です」
ふたりはにこやかに言葉を交わす。しかし、男子ふたりが立ち去る気配はない。
すると、今気づいたような口ぶりで、
「あれ? 彼らは……簾条さんの友達?」
「いえ、まったく知らない人です」
「ふーん……」
蒼兄が剣呑な視線を向けると、ふたりは肝を冷やしたような顔色になる。
「こいつ、御園生蒼樹っ!?」
「まじっ!?」
「俺のこと知ってるの?」
「や、その――」
「そのジャージ、北陽高校だね。北陽といえば、トレーナーの神谷先生はお元気? あの先生、数年前まで藤宮にいてよくお世話になったんだ。でも、あの先生厳しいだろ。とくに風紀において」
そこまで言うと、ふたりは血相を変えて走り去った。
……この場合、「血相を変えて」よりも、「尻尾を巻いて」のほうがしっくりくる気がしなくもない。
そんなことを考えながら桃華さんたちのもとへ行くと、
「桃華さん、大丈夫だった?」
「私は大丈夫。あと少しでも近付こうものなら投げ飛ばすつもりだったし」
さすがは桃華さん。
感心する私の隣で、蒼兄はクスクスと笑っている。
「勇ましいのは認めるけれど、簾条さんは女の子なんだから、少しは危機感を持ったほうがいいよ」
「肝に銘じておきます……」
「っていうか、俺たちが少し早くに来て待ってれば良かったよね。ごめんね」
「いえ、助けていただきありがとうございました」
「さ、観覧席へ行こうか」
「はいっ!」
フィールド内ではすでにアップが始まっていて、佐野くんの姿を見ることもできた。
その場で軽くジャンプしている佐野くんに手を振ると、こちらに気づいて手を振り替えしてくれた。けれど、それはすぐに止まってしまう。
きっと、蒼兄が目に入ったのだろう。
直後、引き締まった顔になった。
これから神経集中に入る――そんな表情。
自分の気持ちを切り替え、神経集中に入るその瞬間が好き。
好きというよりも、目を奪われるというほうがしっくりくる。
ただその人が感じている空気を、一緒に感じたくなる。
……ないものねだりだけれど――
試合が始まるまでの短時間にちょっとした雑談タイム。
それはお互いが着ている洋服についてだった。
桃華さんの服装は、黒いポロシャツ風のワンピース。膝が少し見えるくらいの丈で、身体に沿うラインがとてもきれいで似合っていた。
そんな感想を述べていると、佐野くんが出る一〇〇メートル走のアナウンスがあった。
視線をトラックへ向けると、スタートラインへ移動する佐野くんが目に入る。
スタートラインに立つ佐野くんは、周りが見えないくらいに集中していた。
パンッ――音と共に走り出す。
速い……。
スタートから数歩で一気に前へ出た。
背の高い人は足の長さを利用して、後半でぐんぐん追い抜きにかかってくるから、ゴールテープを切るそのときまでは気を抜けない。けど、後半になっても佐野くんが抜かれることはなく、一位のままゴールテープをカットした。
すぐに大きな電光掲示板にタイムが出る。
「インターハイ、決まったな」
蒼兄が止めていた息を漏らし、口元を緩めた。
「うん、絶対に行くって言っていたから……」
長距離を走るマラソンもすごいと思う。でも、十数秒で勝敗が決まってしまうこの競技が一番好き。
蒼兄がやっていたらからそう思うのか――
普段何気なく過ごす時間にすら満たない秒数。コンマいくつの世界で戦っている人たち。
その一瞬とも思える時間に最大限の力を発揮する。
人が輝く瞬間――それがとてもダイレクトに見える競技だと思う。
ストレッチを終えた佐野くんがこちらへやってくると、右手の親指を立てて、「やったよ!」って顔。
飛鳥ちゃんに見せてあげたかったね。
彼女は今、テニスの応援でこの場にはいない。
なんてもったいないんだろう……。
その後、二〇〇メートルや四〇〇メートルの競技が続き、フィールド内では走り高跳び等、ほかの競技も着々と進んでいた。
すべての競技が終わるまで、選手はその場を離れられないものだけど、佐野くんは午後一番にある海斗くんの試合を見るために、少しだけ出てくると言っていた。
昼食は部活のみんなと食べるとのことだったので、私たちはお昼前に陸上競技場をあとにした。
「さて、お昼はどうする? 公園内でホットドッグも売っているし、体育館の中にはカフェもあるけど?」
蒼兄が言うと、桃華さんが手に持っている少し大きめの籐かごを持ち上げた。
「お弁当を作ってきたので、どこか日陰で食べましょう?」
言いながら、うっとりするような笑顔を向けられた。
「簾条さんはなんでもできちゃうんだな。言ってくれれば荷物持ったのに。重かったでしょ?」
「食べるときまで知らせずにいて、びっくりさせるのが楽しいんじゃないですか」
「でも、知ったからには持つよ」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
笑う蒼兄と桃華さんのツーショットがとても様になって、「お似合いだな」と思った。
そういえば、蒼兄の彼女さんの話とか聞いたことないかも……。
いつだったか、出かける蒼兄にどこへ行くのかたずねたら、「デート」という答えが返ってきたことがあるけれど、それがいつのことだったのかすら思い出せない。
陸上競技場から十分ほど歩くと、体育館のある区画に入った。
その区画の一番端に弓道場があり、その裏手に藤棚があるとのこと。
今が見頃だというので、そこで食べることにしたのだ。
藤棚は大きくないものの、その下に入るとちょうどいい木陰で芝生がひんやりと冷たくて気持ちが良かった。
上を見れば薄紫の房がいくつもぶら下がっている。
「きれい……」
思わずため息が漏れるほどの光景だった。
でも、藤を見るといつも思う。写真に撮るのは難しいな、と。
「翠葉、写真撮らなくていいのか?」
蒼兄に訊かれるも、私は首を振る。
一眼レフカメラは持ってきているけれど、これは撮れない……。
「構図が思い浮かばないの。私には表現できないと思う……。だから、カメラを構える気になれない。……見たままを撮れたらいいのに」
お弁当の用意をしてくれている桃華さんが、「そういえば」という顔をする。
「翠葉はどんな写真を撮るの?」
「主には植物と空と水」
「……らしいと言えばらしいのだけど、それ、どういう選択?」
桃華さんの返答に蒼兄が笑う。
「きっと、翠葉の前世は葉っぱだと思うんだ。だから空を見上げてばかりだし、水が好きだし、仲間の植物戯れたくて森林浴やら光合成が趣味!」
「蒼樹さん、かなりファンタジーな世界入ってますけど? でもそれ、なぜか納得できてしまって……」
クスクス、と桃華さんが笑う。
「ふたりしてひどいなぁ……。ただね、空を見上げるのは好きなの。たくさんの葉を茂らせた木の下から空を見上げて、その上にあるであろう光を感じるのが好き」
「「それ、光合成でしょう?」」
ふたり、示し合わせたように声を揃えた。
「……もう光合成でもなんでもいいですっ」
そう言って話を終わらせようとすると、
「でもね、いい写真撮るよ。翠葉の目にものがどう映っているのか、それがよくわかる。今度見せてもらえば?」
蒼兄が桃華さんに提案すると、「ぜひ見たいわ」と言われた。
「右から順に鰹節、梅、鮭です。こっちのおかずは適当につまんでください」
お重に俵型のおにぎりが五個三列に並び、一段目には彩り豊かなおかずが詰められていた。
卵焼きにから揚げ、生ハムできゅうりを巻いたもの、ミニトマト、ジグザグに切られたゆで卵、ほうれん草の胡麻和え。
飲み物はさっき、自販機で蒼兄が買ってくれた。
「うわぁ……おいしそうっ! いただきますっ」
「俺も、いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
蒼兄とお弁当を頬張る。どれも薄味でとても食べやすい。
「どう……?」
少し不安そうに訊かれたけれど、「とてもおいしいです」以外の言葉が出ない。
「桃華さんは薄味好み?」
気になって訊いてみると、
「そういうわけではないけれど、いつもよりは薄味になるようにしたから少し自信がなくて……」
そう言ってはにかむ桃華さんがとてもかわいかった。
「もしかして……翠葉のこと気にかけてくれたの?」
「少しだけ……。ほら、いつもお弁当は持参だし、学校の自販機でお水以外を買っているところを見たことないし、胃が弱いって聞いていたので……」
「あ……気を遣わせてしまってごめんなさいっ」
口に入っていたものを慌てて飲み込んで謝罪した。
「ちょっと! 食べ物はよく噛んでから飲み込むっ! せっかく薄味にしても意味がないでしょう?」
「ごめんなさい……」
「くっ……本当に、簾条さんには頭上がらないな」
蒼兄がくつくつと笑う。
私は頭が上がらないどころか、足を向けて眠ることすらできそうにない。
「翠葉? これは私がやりたくてやったことよ? ここで気に病まれたら意味がないからやめてよね」
桃華さんに先手を打たれる。
先日の言葉と相まって、私は嬉しさに頬を緩ませた。
「桃華さん、大好きっ!」
抱きつくと、
「飛鳥病が感染したのね……」
桃華さんは冗談ぽく眉をひそめて見せた。
ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。
↓コメント書けます↓