第二章 兄妹 19話
帰りの車の中では取り留めのない話をした。
テレビでこんなことをやっていたとか、大学でこんなことがあったとか。
本当に他愛のない話。私はただ相槌を打つだけ。
体調のことも訊かれなければ、何に気をつけろとも言われない。
それを言われることが普通になっていて、何も言われない今が気持ち悪い。
でも、それは自分が望んでいたことのはず。
心配そうに覗き込む蒼兄の顔を見たくないと、何度思ったかしれない。
なのに、今の蒼兄の表情もいやなんて――
上辺だけに見えるの。笑っているのに、笑っているように見えないの。
どうして……?
「どうか、したか?」
赤信号で停まると、蒼兄に顔を覗き込まれた。
蒼兄に向けていた視線を前へ戻し答える。「なんでもない」と。
訊くことが、できなかった。
いつもなら、今までなら、なんでも訊くことができたのに。
これが私の望んでいた距離なの?
心がざわざわする。
私、戸惑っているの?
気まずかったのは確かだけど、昨日、自分の思いと蒼兄の思いをきちんと話せたあのときのほうがまだよかった。
私、どこかで何か間違えた? 何をどこで間違えたの?
戸惑いの中、家の前に車が停まる。
玄関がすぐに開き、栞さんが迎えに出てきてくれた。思わず車を飛び出し栞さんに抱きつく。
「っ……翠葉ちゃん? どうしたの?」
栞さんの声を聞いたら、心のよりどころを見つけた気がして涙が溢れてきた。
そんな私を、蒼兄がどんな目で見ているかなんてわからない。
もう、振り向く勇気すらなかった。
「とにかく中に入りましょう?」
促され、リビングで止まることなく自室へ向かう。
「カモミールティー淹れてくるから、少し待っていてね」
私をソファに座らせると、栞さんは部屋を出ていった。
しばらくすると玄関が開く音がし、スリッパの音がどんどんこちらに近づいてくる。足音が止まると、
「翠葉……どうした?」
どこか不安そうに聞こえる蒼兄の声。
「……なんでも、ないよ。私、どうしちゃったんだろうね。なんか、涙腺が壊れてるみたい」
そう言ってごまかすと、
「あとは私が……」
栞さんの声がすると、蒼兄が階段を上る音が聞こえ始めた。
「どうしたの? 翠葉ちゃんらしくない」
栞さんはいつものように優しい笑顔を向けてくれる。
「自分がわからなくて……。どうしてこうなっちゃったのか、わからなくて……。栞さん、どうしようっ。蒼兄と普通に話せなくなっちゃった」
次々と涙が零れ、まるで小さな子どものように泣きじゃくる。
「何かあった?」
「私……口にしてはいけないことを言ってしまったの。ずっと、これだけは言わないって決めていたのにっ。でも、すごくつらくて、どうしようもなくて、口に出しちゃった。……それ、蒼兄は聞いていたのかもしれない。どうしよう……私、弱い子だって思われたかも。呆れられちゃったかもっ。いつも一番近くで支えてくれていたのにっ。どうしようっ、蒼兄が――蒼兄が遠くに行っちゃったら、どうしようっ」
「……それは、蒼くんに直接言ったわけじゃないの?」
コクリと頷く。
「湊先生と話していて、心の中のドロドロしたの、全部吐き出したの……。でも、やっぱり口にしちゃいけなかったっ。どうしようっ!? 私っ――」
「翠葉ちゃん、少し落ち着いて?」
栞さんの手が背中を上下にさすってくれる。それでも涙は止まらないし、呼吸が上がり始める。と、すぐに栞さんは呼吸のコントロールを始めてくれた。そして、呼吸が落ち着いても泣き止まない私を見て、
「ちょっと待っててね」
席を立つと部屋を出ていき、戻ってきたときには小さな錠剤を渡される。それは、見慣れたお薬。興奮した神経を抑えるためのお薬だった。
「これ、身体の痛みが出たときにも有効だけど、今みたいなときにも良く効くのよ」
薬に頼るのは抵抗がある。でも、感情をコントロールすることもできず、不安ばかりがエスカレートしていく今は――
私は薬を受け取り口にした。
「少し眠くなるかもしれないけど、大丈夫よ」
栞さんは優しく背中をさすってくれる。
だけど、涙は止まらない。しゃくりあげていて呼吸も苦しいし、泣き過ぎて頭が痛い。
合間を見てはカモミールティーが入ったカップを口もとに運ばれ、少しずつ口に含む。
十五分くらいすると涙も止まり、だいぶ落ち着いてきた。その代わり、抗いようのない眠気が襲ってきた。
栞さんに支えられてベッドで横になると、
「病み上がりなんだから、少し休みましょう? 起きたときにまた話を聞くから」
ぼんやりと視界に映る栞さんを見ながら、私は眠りに落ちた。
神様……自分が持っているもので、どうしても失いたくないものは何かと問われたら、私は迷わず「家族」と答えます。
ほかには何もいらない。だから、家族だけは私から取り上げないで――
もし、蒼兄が私の側からいなくなってしまったら、私は何を道標に進んだらいいのかわからなくなってしまう。
将来の夢なんてなくてもよかった。
ただ、私の歩くその先に、蒼兄の笑顔さえあれば私は歩いていける。
私、蒼兄から離れるなんて無理なんだ。
蒼兄を解放するなんて、一生してあげられないのかもしれない。
どうしよう……。
私は、こんなにも人の足枷にしかなれない――
目が覚めると、まるで知らない部屋にいた。
ここ、どこ……?
ゆっくりと身体を起こし、室内に視線をめぐらす。
モノトーンで統一された部屋には、少し大きめのデスクにノートパソコンが二台。
ほかには私が寝ているベッドと、壁一面の本棚。
本棚すら黒で統一されている。
フローリングに敷かれたラグが淡いグレーで、その上に無造作に置かれたクッションは白と黒のストライプ。
どこまでもモノトーンに拘られた部屋。
ベッド脇の壁にかけられた額には、トランプをモチーフにした絵が飾られていた。
けれども、どれひとつとして記憶にあるものはない。
ここ、どこ……?
不安でベッドから下りることもできずにいると、ドアが開いた。
「湊、先生……?」
「起きたわね」
いつもの淡々とした口調で言われる。
「先生、ここ……」
「私の家の客間。……ま、客間といっても時々司が使ってるんだけど。場所を説明するなら、学校から歩いて五分くらいのところにあるマンションよ」
学校の近く……? どうして――私、自分の部屋にいたはずなのに。
「栞から連絡があって、すぐに来いって言われたの。でも、面倒だからそっちが来いって言ったら、蒼樹があんた抱えて栞と来たのよ。ドア開けてどれだけびっくりしたか……」
「蒼兄が――蒼兄が、ここへ連れてきてくれたんですか?」
「そうよ。……ひどい顔してた。まるで、飼い主に捨てられた犬みたいな顔」
先生は少し笑ってから、「何があった?」と訊く。
「先生……聞かれてしまったかも。蒼兄に……湊先生と話してたの聞かれちゃったかもしれない」
「で?」
「蒼兄が変なんです。いつもなら開口一番に『具合は?』『大丈夫か?』って訊いてくるのに、それもないし……。普通に話しているのに、普通に笑っているのに、そのどれもが仮面にしか見えなくて、いつも私の隣にいてくれた蒼兄じゃないみたい。『どうした?』って訊かれたのに、私、何も言えませんでした……」
「……あんのバカ」
「やっぱり、私は自分の思ってることを口にしちゃいけなかったんだと思います。あんなこと言わなければ、蒼兄が苦しそうな顔をすることもなかったと思うんです。昨日、紫先生と湊先生が入ってくる前に、『どうしたらいい?』って……。『どうしたら負担にならずにいられる?』って訊かれました。負担になっているのは私のはずで、蒼兄はいつだって一番に私を支えてくれていたのにっ」
「翠葉」
「蒼兄がどうしてそんなこと訊いたのかな、ってずっと考えていて――私が、消えたくなるなんて言ったから……? どうしよう、呆れられちゃったかな。こんなことで挫ける弱い子だって、呆れられちゃったかな。だから本音見せてくれなくなっちゃったのかな。距離、置かれちゃったのかなっ
――」
「翠葉、落ち着きなさい」
「でもっ」
「でもじゃないっ」
ピシャリと言い放たれ、水を打ったように静かになる。
「翠葉、そんなことないから安心なさい。蒼樹は蒼樹で迷走中なのよ」
先生はベッドに座ると深く息を吐き出した。
「蒼樹がおかしいのは翠葉のせいじゃない。私のせい」
「え……?」
「私が、蒼樹が過保護すぎるから翠葉に自由がないって言ったの。だから、蒼樹は蒼樹でどう距離を取ったらいいのか模索中。今日つけたバングル。あれがあれば自分が側に付きっ切りでいる必要もなくなる。だから、自分が側にいる理由を失って迷走中。わかる?」
「……蒼兄が、私の側にいる理由?」
そんなの、私がどこで倒れるかわからないから……。だから心配でずっと側にいてくれたのでしょう?
「あのバカは根っからのシスコンよ? たぶん、翠葉がこういう体質でなくても側にいたわよ」
「え……?」
「……面倒くさい兄妹ね。いい? 蒼樹はあんたがかわいくてかわいくて仕方がないの。それはもう、目に入れても痛くないほどにっ。だから側にいたいの、OK?」
……えと――
「翠葉と同じよ。ただ、翠葉が大切で、翠葉の笑顔を守りたくて、何者からも傷つかないように守っていたいだけ。そこにちょうど良く、あんたの体質があった。それが後付け、付加っ」
先生は立ち上がるとドアに向かって声を発する。
「蒼樹、いい加減入ってきたら?」
えっ!?
先生の言葉にびっくりし、ドアを見つめる。と、ドアがゆっくりと開き、困った表情の蒼兄が立っていた。
「今日は泊めてもいいかと思ったんだけど、蒼樹がどうしても家に連れて帰りたいって粘るもんだから、仕方なく我が家の廊下に滞在を認めてやったしだい。少しふたりで話しなさい」
言うと、先生は蒼兄と入れ替わりで部屋を出ていった。
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