光のもとでT

第三章 恋の入り口



第三章 恋の入り口 16話


「動揺」という言葉に、さらに動揺する。
 胸にものがつかえた感じがするのは今も変わらない。
 これ、なんなんだろう……。
 さっきから何度もスマホのディスプレイを見ている。でも、依然数値は変わらない。
 強いていえば、少し脈拍が落ち着いたくらい。
 車が停まったのは、家の裏にある運動公園の駐車場だった。
 不思議に思っていると、
「食後の運動。少し歩こう?」
 誘われて車を降りる。
 外灯が多いからか、夜でも辺りを見渡せる程度には明るかった。
 芝生が青っぽい光に照らされて、夜独特の光を放っている。
 途中にベンチがあり、そこへ座るように促された。
「寒くはない?」
「はい」
 本当は少し寒かった。でも、応えるための返事を用意することすらできなかった。
「その返事は嘘でしょう?」
 秋斗さんは少し笑って、自分が着ていたジャケットを肩からかけてくれる。
「でも、秋斗さんもシャツ一枚……」
「男のほうが筋肉付いてるから、寒さには強いんだよ」
 言いながら、私の隣に座る。
「司に見合い話がきてるって話は聞いていた。それが今日だったとはね……。通常、高校を卒業するまでそういう話はあまりこないんだけど、俺と楓が応じないからかな。そのとばっちりが司に行ったのかも。これは海斗も時間の問題だな」
 お見合い……。
 胸が、ぎゅってなる。さっきよりも強く、ぎゅっ、て……。
 苦しい――思わず胸元を手で押さえるくらいには。
「ここ、痛い?」
 秋斗さんが自分の胸を指差して問う。
「胸……? 心? どっち?」
「どっち、でしょう……」
「残念ながら、それは翠葉ちゃんにしかわからないことだ」
 私にしか、わからないこと……?
 さっきから、心臓を鷲掴みにされている感じがして、苦しい……。
「これ、なんだろう……」
 胸元を押さえたまま独り言のように零す。と、
「恋、だと思う?」
「え……?」
 秋斗さんを見ると、真っ直ぐな目が私を見ていた。
「恋って……。恋って、こんなに苦しくなるものなんですか?」
 小説にはもっと淡いピンク色をした世界が描かれていたのに。
 こんなに胸がぎゅってなるような本は読んだことがない。
「……翠葉ちゃん。試しに『恋』をしてみない?」
 いつもみたいに、なんでもないことのように提案される。
 何を言われたのか理解できずに秋斗さんを見返すと、
「僕と、恋愛してみない?」
「……また、そういう冗談を真顔で……」
 思わず視線を逸らしてしまう。
 すると、手を握られ「俺を見て?」と言われた。


秋斗×翠葉



 ゆっくりと視線を戻すと、
「冗談みたいな本気の提案だよ」
 顔は笑っている。でも、声と目が「本気だよ」と言っている気がした。
「どうかな? お望みとあらば、クーリングオフ期間も設けるけど」
 いつものように少しだけ茶化した話し方。
 私もいつものようにさらりと流せばよかったのに、どうしてかできなかった。
 手を引こうとしても、それすら許してはくれない。
「あのっ――」
「今答えを出さなくていいよ。ゆっくり考えて? 誰に相談してもらってもかまわない。でも、最後に答えを出すのは翠葉ちゃんだ。いいね?」
 そう言うと、握っていた手を放された。
「さ、送っていくよ」
 動揺したままに秋斗さんの顔を見ると、いつもと変わらない穏やかな表情だった。
 ほっとさせてくれる笑顔。
 思わず、今言われたことは冗談だったんじゃないか、と思ってしまう。
「あの……ここからなら歩いてひとりでも帰れます。ここまでで大丈夫です」
 今できる精一杯の笑顔を作った。
 このまま冗談のように終わらせたくて、ひとりで帰ると申し出てみる。
 肩にかけられたジャケットに手を伸ばすと、秋斗さんの手に遮られた。
「それは聞けないかな。きちんと送り届けることを約束したうえで、蒼樹から許可が下りているんだ」
 先ほど停めたばかりの駐車場へ戻り、結局は送ってもらうことになる。
 さっきまで――ついさっきまで、ずっと楽しくて嬉しくて、びっくりしてばかりだったのに。本当に楽しかったのに……。
 今は車内の空気すら変わってしまった。
 何よりも、自分に何が起きたのかがわからない。
 話もなく五分ほど走ると家の前に着く。
「今日は、ありがとうございました……」
 シートベルトを外そうとしたら、秋斗さんにその手を掴まれた。
「かなり態度には示してきたつもりだけど……。翠葉ちゃんはちゃんと言葉にしないと伝わりそうにないから」
 掴まれている手をたどって秋斗さんを見ると、真っ直ぐに私を見る目があった。
「僕は翠葉ちゃんが思っているよりはるかに、翠葉ちゃんのことを好きだと思うよ。さっきはああ言ったけど、恋愛お試し期間が必要なのは翠葉ちゃんだけだ。僕は本気だからね」
 言うと、手を放しシートベルトを外してくれた。
 音を聞きつけたのか、車の外には蒼兄が出てきている。
 蒼兄が近寄ってくると、秋斗さんが助手席の窓を開け、
「後部座席に翠葉ちゃんの荷物がある」
 秋斗さんは何事もなかったかのように蒼兄に声をかける。
 蒼兄はその言葉を受けて、後部座席から私の荷物を下ろしてくれた。
 秋斗さんになんて言ったらいいのかわからなくて、車から降りるときもお辞儀しかできなかった。代わりに、蒼兄が助手席の窓から、
「先輩、遅すぎです……。でも、今日は本当にお世話になりました」
「いや、今日は俺もすごく楽しかったから。帰すの遅くなって悪かった」
 短いやり取りを済ませ、「じゃ、翠葉ちゃん、おやすみ」と窓を閉め、車はあっという間に見えなくなる。
 今日、いったい何が起こったんだろう――

 車が見えなくなっても、まだ目を離せずにいた。
「どうした?」
 蒼兄に訊かれ、
「あ……なんでも、ないの……」
「……少し冷えるから、早く中に入ろう」
 蒼兄のあたたかく大きな手に、背中を押されて玄関をくぐる。
 私がサンダルを脱いでいると、蒼兄がスマホのディスプレイを見ているのが目に入った。
 何か変だと思われているのだろう。でも、今の状態をどう話したらいいのかがまったくわからない。
 リビングを通り過ぎ自室に入ると、手を洗うこともうがいをすることも忘れてベッドに転がった。
 蒼兄は荷物をソファに置くと、
「何かあった?」
「……わからないの」
「ん?」
「何があったのか、どうしたのか、わからないの……。だから、何も話せない」
「……話ならいつでも聞くから、抱え込みすぎるなよ? もし、俺にも両親にも言えないなら、湊さんのところへ行くんだ」
 そう言うと、蒼兄は部屋を出ていった。
「私、どうしちゃったんだろう……」
 ホテルで司先輩を見かけてからおかしくなった。
 今はあのときほど胸も痛くないけれど、あのときに感じた衝撃はなんだったのか……。
 自分が何にショックを受けたのかが理解できない。
 あの場で起きたことを一生懸命思い返してみたけれど、どうしても答えが見つからなかった。
 答えが出るまでずっと考えていたかった。けれど、身体は相当疲れていたようで、気づいたら深い眠りについていた。


「翠葉ちゃん、朝だけど……起きられる?」
 栞さんの声で目を覚ました。
 どうやら着替えもせず、お布団にも入らずに眠ってしまったらしい。
「今ね、ものすごく熱が高いの。履歴を見ると、夜中からみたいなんだけど……。遊び疲れちゃったかしら」
 遊び疲れ……。
 そうかもしれない。昨日は本当に楽しかったから。
「とりあえず、洋服だけは着替えましょう?」
 言われてパジャマを渡された。
「……蒼兄は?」
「私が来て、しばらくしてから大学へ行ったわ。蒼くんも熱には気づいていたみたい。この毛布を掛けてくれたのは蒼くんよ」
 私に掛けられていたのは蒼兄の毛布だった。
 そっか……。お布団の上でそのまま寝ちゃったから、自分の毛布を持ってきてくれたのね……。
「血圧は悪くないけど、熱はすごく高いの。水分摂れそう?」
「たぶん……」
「じゃ、スポーツドリンク持ってくるから少し待っていてね」
 栞さんが部屋を出ていき、枕元に置いてある携帯を開く。と、ディスプレイには三十八度八分と表示されていた。血圧は八十二の五十八。
 確かに血圧数値は悪くない。脈拍も七十五、と正常値の範囲。
「……知恵熱、かな」
 自分でもわかってる。
 でも、誰かに話そうにも、何をどう話していいのかがわからない。
 こういうときはどうやって相談したらいいんだろう……。
 運動公園で持ちかけられた話にしても、シートベルトを外そうとしたときに言われた言葉にしても、秋斗さんがどういうつもりなのかがわからない。
 また、いつもみたいにからかわれているのかな、と思わなくもない。
 でもそれは、自分がそう思いたいだけな気もする。
 あのとき、秋斗さんの目は笑っていなかったから。
 あれ……? じゃあ、どうしたらいいのかな?
 だって、飛鳥ちゃんは秋斗さんが好きなわけで、佐野くんは飛鳥ちゃんが好きなわけで……。
 えぇと――
「だめだ……」
 頭が回らない。
 何をどう考えたらいいのかがまったくわからない。
 数学みたいに方程式で解けたらいいのに……。
 そんなことを考えていると、手の中にあるスマホが鳴り出した。
 誰、だろう……。
 でも、もうディスプレイを見る気力も話す気力もない。
 誰だかわからないけど、ごめんなさい。話せるようになったらかけ直すから――



Update:2009/06/17  改稿:2020/05/26



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