途中、お昼ご飯に起こされて、お素麺を少し食べるとまた横になった。
サイドテーブルに置いてあった携帯を見ると三時半前。ディスプレイに表示されるバイタルは、体温が三十六度。血圧は七十五の五十八。
「脈圧がないな……」
これは慎重に動かないとすぐに眩暈に襲われることだろう。
それらを肝に銘じ、出かける準備を始める。準備といっても髪の毛を梳かして洋服を着替えるだけ。
今日はホテルでご飯だから、ワンピースが無難かな。水色のノースリーブに白いカーディガン。それに白いバッグと白いサンダルでいいだろう。
用意を済ませて時計に目をやると三時五十分。
リビングへ出ると、蒼兄が窓際の籐椅子でコーヒーを飲んでいた。
水色地に白いストライプが入ったシャツ。その上にはチャコールグレーのスーツ。薄いグレーのストライプが入っているけれどあまり目立たず、それでいて蒼兄の身長をより高く見せてくれるような、そんなスーツ。
「蒼兄、格好いいね」
手にしていた資料から顔を上げ、
「なんだ急に」
「ううん、なんとなく」
「体調は? 数値はかなり下がってきているけど」
「うん、気をつけて行動しなくちゃね。あと少しだから……」
「……少し早いけど出るか」
「うん」
日曜日の夕方ということもあり、国道は意外と混んでいた。
「ま、日曜日だし、こんなものだろうな。家を早くに出てよかったよ」
のろのろと走る車内で、
「ねぇ、蒼兄……」
「どうした?」
ちらりとこちらを向いて訊かれる。
蒼兄は九つも年下の女の子を好きになるだろうか……。
「翠葉?」
「……九つも年下って、やっぱり幼く見える?」
「秋斗先輩のこと?」
「……うん」
「それは人それぞれだと思うけど……。でも、好きになるのに年は関係ないと思うよ」
「そっか……」
「高校生や十代のうちは気になるかもしれない。でも、二十代三十代になると関係なくなっちゃうんだ」
「そうなの?」
「うん。俺の知ってる教授の奥さんは、十三歳年下だって」
「えっ!?」
「年の差がある夫婦なんてたくさんいるよ」
そういうものなんだ……。
うちは両親が同い年ということもあり、それが普通だと思っていた。
「ね、蒼兄……秋斗さんが不特定多数の人とお付き合いしていたっていうのは、本当……?」
「……翠葉、それ、誰に聞いた?」
運転中にも関わらず、蒼兄が私を見た。
「秋斗さん本人……」
「……そっか。自分で話したのか……。先輩らしい、かな」
視線を前に戻してそんなふうに言う。
「不特定多数の人と付き合ってたっていうのは本当だと思う。でも、今は間違いなく翠葉一筋だよ」
「……うん、そうも言われた」
「信じられない?」
「違う……。ただ、なんとなく訊きたかったの」
「……俺が先輩を牽制していた理由はそれ。翠葉にまで手を出されたら困るから。でも……あの人の本気を初めて目の当たりにしたんだ。だから今は静観してる」
そう、なのね……。
「翠葉、誰しも過去があってこその今の自分だと思わないか? 考えるべきは過去じゃなくて、これからの未来だと思うけどな。翠葉は自分の気持ちに素直になればいいだけだよ」
「……うん」
蒼兄に話しても拭いきれないこの不安はなんなのだろう。
考えているうちにホテルのパーキングに着いた。
ホテルから駅までは大通りに沿って十分ほど歩く。日曜日の夕方なのに、人が途絶えることなく歩いている。普段人ごみは避けているため、混んでいるところを歩くのは慣れていない。
「翠葉、手」
すぐ蒼兄に右手を取られた。そうでもしなければ間違いなくはぐれていただろう。
つながれた手を頼りに前へ進み、デパートの入り口に着いて息をつく。
駅前のデパートということもあり、出入り口やホールでは待ち合わせをする人が多くいた。
「人、多いね」
「そうだな……。翠葉の好きなショップで待とうか」
「うん」
ここは先日蒼兄の誕生日プレゼントを買いにきたデパート。ウィステリアデパートというのだから、例に漏れず藤宮グループの傘下だろう。
このデパートにはお母さんとお父さんの御用達ショップが入っている。私が好きな雑貨屋さんは四階の一番端にあるお店。派手な売り出し方をしておらず、ひっそりとしたお店のため、前を通り過ぎる人のほうが多いかもしれない。その店内の一番奥にはお茶を飲めるスペースがあった。
ショップに入ると店員さんに、「いらっしゃいませ」と声をかけられる。
その人は、蒼兄のプレゼントを買うときにラッピングをしてくれた人だった。
「こんにちは。奥のテーブル、空いていますか?」
「はい、空いております」
店員さんに案内されてショップの奥へ行く途中、朗元さんの新作が目に入った。
「つい先ほど入荷したんですよ」と店員さんが教えてくれる。
その場に立ち止まったとき、蒼兄の携帯が鳴り出した。
「もしもし。――あ、今四階にいるんだけど。――わかった、じゃエスカレーターの前で待ってる」
蒼兄の顔を見ていると、
「翠葉はここにいていいよ。俺はちょっとそこまで迎えに行ってくるから」
蒼兄はすぐにショップを出ていった。
朗元さんの作品はレジの斜め前の棚にひっそりと置かれている。大々的にコーナーが作られているわけでもなければ、誰の作品である、と大きく書かれているわけでもない。ただただひっそりと存在しているその感じも好きだった。
朗元さんの作品は数ヶ月に一度入荷される程度で、品数も多くなければ、商品が動くことも少ない。
こんなにすてきなカップなのに、人に気づかれないなんて――
「もったいないな……」
そう思う反面、「自分だけが知っている」という優越感がないわけでもなく……。
今日入荷されたというカップを手に取る。
淡い藤色のようにも見えるし、淡い群青色のようにも見える。その、どちらとも言えない色味に強く惹かれた。
少しザラっとした表面と、ツルツルとした面を併せ持つカップ。取っ手は指を入れるところは丸く、形自体は四角い。一見して持ちにくそうに見えたけれど、持ってみるとそんなことはなかった。
今までにもこういう形のカップを買ったことはあるけれど、ここまで手に馴染むものは初めて。
「どうしてコーヒーカップだけなのかな……。ティーカップもあれば嬉しいのに」
「お嬢さんはコーヒーは飲まないのかの?」
後ろから声をかけられてびっくりする。
振り返ると、和服を着た白髪のご老人が立っていた。
「おや、びっくりさせてしまったかの?」
おじいさんはきれいに整えられた口髭をいじりながら話す。
「……いえ、少し驚いただけです。それと、私はコーヒーを飲みません。なので、このカップ&ソーサーは毎年兄の誕生日にプレゼントしています」
「ほぉ、毎年かの?」
「えぇ、先月買ったもので六客目でしたから、六年目ですね」
「では、お嬢さんが私のファン一号さんじゃろうのぉ」
にこりと笑われ、その言葉の意味にびっくりする。
「……おじいさんが、朗元さん……?」
「いかにも。ちょっと奥でお茶でも飲まぬか」
優しく微笑まれ、申し出を受けることにした。
「お嬢さんはいつも何を飲まれるのかの?」
「ハーブティーを。カフェインが体質に合わないので、コーヒーや紅茶は飲めなくて……」
答えると、おじいさんは店員さんに声をかけた。
「芦田さん、彼女にカフェインレスのコーヒーを」
カフェインレスのコーヒー……?
私の視線に気づいたおじいさんは、
「最近ではカフェインレスのコーヒーも紅茶も珍しくないのじゃよ」
「知りませんでした」
「もしよろしければ、何を気に入ってこのカップを毎年求めてくれるのか、教えてくれぬかの?」
おじいさんは笑みを絶やさずに話しかけてくれる。
「……手なじみ、でしょうか。手にほっこりとおさまる形や質感がとても好きです。あとは色……。何色とは断定しがたい色に心惹かれます」
言いながら、先ほどのカップに目を向ける。
ベージュっぽい下地に藤色と藍色が混ざったような色味のカップ。
「あれがお好きかな?」
「とても……。色味が好きです」
「あの色は、妻がとても好きだった色なんじゃ」
「奥様が……?」
「六年前に他界したがの。……それをきっかけに陶芸を始めたんじゃ」
こういうとき、どんな言葉をかけたらいいのだろう。
黙りこんでしまうと、「気にするでないぞ?」と顔を覗き込まれた。その顔があまりにも穏やかで不思議に思う。
「大切な方が亡くなられるというのは、やはり寂しいものでしょうか」
気づけばそんな言葉が口をついていた。
「そうじゃのぉ……。わしは二十三で結婚しての、今年で八十八になる。八十一まで連れ添ったので六十年近く一緒にいたことになるが、思い出がたくさんあろうとやはり寂しいかのぉ」
訊くまでもなかったかもしれない。思い出があってもその人が隣にいなければ寂しくないわけがない。
「あれは、『うつりゆく時』と称した作品じゃが、お嬢さんは何かお悩みかな?」
顔を上げると、そこにはビー玉のようにきれいな目があった。
何もかも見透かされてしまいそう……。
「そう、見えますか……?」
「そうじゃな。何か悩んでおるのか……迷っておるように見える」
悩む、はたまた迷う――どちらであっても間違いではない。
大切なものを増やすのが怖くて、だけど好きになった人がいて、その人と一緒に過ごせるという選択肢を前に大きな不安を感じていた。
「大切な人が増えるのが怖いんです。かけがえのない人が増えていくことが――」
とても怖い……。
「それはまたどうしてかの? 世間一般的に考えればとても幸せなことじゃろう?」
そこへ、「失礼します」と先ほどの店員さんがコーヒーを持ってきてくれた。手際よくテーブルにカップを置くと、すぐにいなくなる。
どうやら、私とおじいさんのコーヒーはものが違うらしい。
「カフェインレスはあるが、やはりわしにはカフェインが必須での」
朗元さんは笑いながらブラックコーヒーを口に含んだ。私はお砂糖とミルクを入れていただく。けれど、口にして何かが足りない、と感じる。
この場合、抜かれているものはカフェインなのだから、カフェインの不在に物足りなさを感じているのだろうか……。
首を傾げていると、
「ふぉっふぉっふぉ、何かが足りないという顔をしておるの」
「それがカフェインなんでしょうか?」
「そうじゃろうの」
朗元さんは笑って答えてくれた。
「さて、先ほどの話じゃが……。どうしてそう思うのかの?」
「……失うのが怖いから、かな。両手で掬った砂が、少しずつサラサラと零れていってしまうような、そんな気がするんです」
「ふぅむ……。じゃがお嬢さん、手に入れる前から失うことを考えていたら、欲しいものは手に入らんぞ?」
「はい……。だから、今ならまだ間に合う。それ以上を望まなければいいと思う自分もいて……」
「……人間は欲する生き物じゃ」
欲する生き物……?
「欲することをやめたとき、その人は人生の半分を捨てたことになるじゃろうの」
人生の半分……。
「お嬢さん、たとえ失ってしまったとしても、じゃ。失うまでに得たものまで失くすわけではない。それは覚えておいたほうがよいぞ」
「……はい」
カップを掴んでいた私の手におじいさんのしわしわの手が重ねられる。その手はとてもあたたかかった。このしわひとつひとつがおじいさんの歴史なのか、と注意深く見る。
「あれのティーカップを作ろう。そして、いつかお嬢さんに届けよう」
そう言うと、「わしはこれから仕事での」と立ち上がった。
私も椅子を立とうとしたら、
「お嬢さんはもう少しゆっくりしていくといい」
私は静かに行動を制された。
おじいさんは、「いずれまた」と言い残してショップを出ていった。
なんだか不思議なおじいさんだった。まるで魔法使いみたいな人。そんな方が大好きな陶芸作家さんであることが嬉しい。
それに、普段なかなか人に話せないことを話せたからか、心が少しすっきりした気がする。
「一日早いけど、神様からの誕生日プレゼントだったのかな……」
私は幾分か穏やかな気分でカフェインレスのコーヒーを口にした。
Update:2009/07/09 改稿:2017/06/13
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