「ちょっと待ってて」
コーヒー豆を買うだけだからそんなに時間はかからない。
カフェスペースを出てショップフロアに立ち入ると、カウンター内にいる店員に声をかけ、姉さんの好きな豆と自分の好きな豆をオーダーした。
うちの人間はコーヒーと抹茶を好む。どちらにも共通していることはカフェイン含有量が多いこと。
皆が皆、カフェイン中毒なのではないか、と思うくらいだ。
会計を済ませカフェに目をやると、翠が見知らぬ男と話をしていた。
男はずいぶんと親しげに話しかけるが、翠の知り合いとは思えない。
急いでテーブルに戻り、翠の腕を掴んだ。
「翠」
「あ、先輩……」
後ろから現れた俺に驚いたのか、翠は目を見開いていた。
「彼女に何か用でも?」
ホストのようななりをした男に視線をやると、
「ちっ、男連れかよ……」
男は近くの椅子を蹴り上げ、人ごみに紛れるようにして姿を消した。
警護が解除されたことを知っていたから翠をひとりにした。
迂闊だった。油断した――
昨日の秋兄ではないが、不覚と言わざるを得ない。
翠に視線を戻すと、俺の表情をうかがっているようだった。
翠は今のがなんなのかわかっているのだろうか……。
不安に駆られて尋ねる。
「翠、今の何かわかってる?」
「今の……? 今のが何かって、何がですか?」
「っ――世間知らずにもほどがあるだろっ!?」
自分でも驚くほどの怒声だった。
「ごめんなさいっ」
すぐに謝罪の言葉を口にした翠は身を小さく縮めていた。その肩はしだいに小さく震えだす。
「ごめん、なさい――でも、理由がわからない……。どうして? どうしてそんなに怒ってるんですか?」
理由を求める翠は本当に何も知らないのかもしれない。
ひとつ深呼吸をして自分を落ち着ける。
「……大声出して悪かった。今の、ナンパだから。もしくはキャッチ。ついて行くと痛い目みるよ」
「ナンパ……? キャッチ? それは何?」
言葉すら知らないとか、あり得ないと思う。……けど、翠ならあり得る気がして自分の常識が通じないことを痛感した。
「――要は、身体目当てに女を漁ってる連中」
途端に翠の目が泳ぎだす。その目に、じわりじわりと水分が浮かび始めた。
「ごめん……泣かすつもりはなかった。ただ、翠があまりにも無防備すぎるから」
「ごめんなさい……。でも、ちゃんと人を待ってるって伝えたし、ついていこうなんて思ってなかった――」
言われてみればそうだ……。翠は男が苦手だ。
それは今日、漣と話しているところを見て再認識したところだった。
声をかけられてもついていくわけがない。でも、翠についていく気がなくても連れていかれることは大いにあり得る。
「悪い……立って、少し歩ける? ここで話すような内容でもないから」
俺が大声を出したことや翠が泣き始めたこともあって、周囲の視線が集まりだしていた。そんなカフェをあとにし、街路樹の下にあるベンチまで手を引いて歩いた。
翠をベンチに座らせると、翠は涙を零しながら俯く。
きちんと顔を見て話したかったから、翠の正面に膝を付き下から見上げる体勢を作る。
「さっきみたいなの初めて?」
コクリと頷く。
「今まで一度もなかったわけ?」
翠みたいなのが歩いていれば適当に声をかけてくる輩がいても不思議ではない。そのくらいには人目を引く容姿をしている。
「ないです。だって……ここまで来るときは両親か蒼兄が一緒のときだけだし……」
「なるほど」
思わずうな垂れたくなる。この世間知らずは間違いなく御園生さんに育成されたものだ。
あり得ないと思ったけれど、御園生さんの過保護のもとにいた翠ならばあり得ることだった。
俺は諦めの境地で口を開く。
「この駅周辺、ああいうの多いから。翠の性格を考えると難しいかもしれないけど、ああいうのは無視するんだ。じゃないと付け込まれる。ひどい場合は力ずくで連れていかれる。――ひとりにして悪かった」
翠がこういう人間だってある程度わかっていたにも関わらず、ひとりにさせた俺も悪い。
翠は何かを考えているふうで、首を傾げながら、
「……人攫い?」
「……ちょっと違うけど、まぁそんなところ。少しえぐい言葉を使うならレイプ。連れていかれたら強姦されてもおかしくない」
「っ……!?」
翠の顔が、身体が再度強張りだす。止まった涙までもが再び流れ出した。
「ごめんなさい……。本当にごめんなさい」
「わかればいい……。二日も続けて泣き顔なんて見せるな」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていいから。少し落ち着いて……頼むから泣き止んでほしい」
泣かせたいわけでも泣き顔を見たいわけでもない。
つい一昨日、痛い思いをする前に誰かちゃんと教えろよ、と思ったところだというのに、なんで俺が一緒にいるときなんだか……。「ついてない」の一言に尽きる。
でも、翠が完全にひとりのときじゃなくて良かった。自分がついているときで、良かった――
泣いている翠は鼻をすすると、
「手……少しだけ貸してもらえますか?」
「……手?」
不思議に思いつつ右手を差し出すと、翠は俺の手に両手を添えた。
それはまるでカップを包むみたいな動作で。
華奢な手から伝わるのは冷たさ……。
「ひどく冷たいけど……」
「体温、少しだけ分けてください」
翠は涙が引かない目で、困ったように笑う。
「……寒気は?」
「いえ……ただ、手首まで冷たくなってしまってちょっと痛くて……」
翠の手首に触れると、あり得ないほどに冷たかった。
今、六月だよな……。
ふと、そんなことを考えるくらいの冷たさ。
翠の隣に座りなおし、右手と左手、両方の手首を掴みあたためる。
自律神経失調症の患者は、精神的ストレスを受けるとそれがダイレクトに身体に現れることがある。翠のこれもその一種だろう。
「……悪い、すごい緊張させた」
「いえ……知らない人に声をかけられた時点で緊張はしてましたから……」
「だから、ひとりにして悪かった」
「……先輩、ごめんと悪い禁止です」
そう言って笑う翠は幾分か落ち着いたように見えた。
翠が泣く場面に居合わせたいわけじゃない。けど、泣き顔から笑顔に戻る瞬間が見れるなら、それも悪くないように思えた。
「ありがとうございます、もう大丈夫……」
赤く充血した目で笑みを添える。
確かに、いつまでもここにいるわけにはいかないし、最後の用も残っている。
「じゃぁ、最後の用事」
先に立ち、立ち上がる翠に手を貸す。と、翠はゆっくりと立ち上がり、一瞬だけ手に力をこめた。
翠は何も口にしない。けど、きっと眩暈を起こしているのだろう。
唇を見れば、きゅ、と真一文字に引き結んでいた。何かに耐えるように、負けないように……。
もしかしたら、かなりつらいところまできているのかもしれない。それでも投薬を遅らせるのは、秋兄と会うため――
デパートに入り、五階まで上がる。
このフロアは呉服売り場だ。その中の小物売り場へ足を向けると、
「呉服売り場、ですか?」
「そう」
「なんの用事……?」
「あとで」
着物が好きだというだけあり、翠の関心はフロアの端々へ向けられる。途端に歩くペースが落ちるほどに。
フロアを進むと、
重行さんは
「司ぼっちゃん、いらっしゃいませ」
「オーダーしたものはできてますか?」
「はい、届いております。バックルームから出してまいりますので少々お待ちください」
後ろから、
「先輩の着物です?」
きょとんとした目が俺を見上げていた。
「違う」
「……でも、着物、似合いそうですよね?」
それは弓道の袴姿から連想しているのだろうか。
着物がなら、毎年五月に本家で行う園遊会「藤の会」に来たら喜ぶかもしれない。藤の花はきれいだし、藤の会に来る人間は誰しも着物を着ている。でも、雅さんもいるか――
ふと昨日のことを思い出す。
俺も秋兄も、昨日の出来事は静さん以外に話してはいない。
せめて御園生さんと姉さん、栞さんには言うべきかと思った。でも、俺も秋兄も言うことができなかった。
そんなことを考えていると、自分の手から翠の手が離れそうになる。
翠が行こうとしていたのは小物売り場。しかも柘植櫛が置かれているショーケース。
思わず、「だめ」と口にして手をつなぎ直す。
翠はさっきのことがあったからか、抵抗はせずにおとなしく従った。
さすがにここで何かあるとは思っていない。ただ、これから自分がプレゼントするものを事前に見られたくなかっただけ。
そこへ重行さんが戻ってきた。
「商品のご確認をお願いします」
言われて、翠の手を離し箱の中身を確認した。そこには、桜の彫刻が見事な柘植櫛がふたつ入っていた。
「じゃ、これを包んでください」
包装を終えたものを手渡され、呉服売り場をあとにした。
バス停に着くと、
「夕飯、始まっちゃったかな?」
翠が時計を見ながら口にした。
「それまでには帰る予定だったんだけど……」
予定外なことがひとつ追加されただけで大幅に時間を押していた。でも、翠にとってはいい勉強になったんじゃないかとも思う。
翠は栞さんにメールを送ることにしたらしく、先ほどから携帯をいじっていた。その動作が恐ろしく遅くて目を瞠る。
嵐や茜先輩と比べたら雲泥の遅さだ。これでピアノやハープを弾かせたら鮮やかな指捌きを見せるのだから不思議でならない。
始発のバスに乗り、行きと同じようにふたり掛けの椅子に座る。
人は次から次へと乗車してきて、行きよりもだいぶ乗車率が上がった。
バスが走り出し、相変らず嬉しそうに外を眺める翠の膝に紙袋を乗せると、
「はい」
「え……?」
「数日遅れたけど誕生日プレゼント」
翠は膝の上に置かれた手提げ袋を避けるように、「小さく前へ習え」的な姿勢で俺を見る。
声をかけなければずっとそうしていそうだった。
「開けてみれば?」
「……ありがとうございます」
袋から箱を取り出すと、包装紙を破かないようにペリペリと小さな音を立ててそっとテープを剥がしていく。
和紙で作られた箱に、「柘植櫛」の文字が見えた瞬間、目をまん丸に見開いた。
白い指先がそっと箱を開ける。
柘植櫛を目にすると、じっとそれを見つめ、「桜?」と口にした。
「そう。ほかに撫子や梅、あやめがあったけど、なんとなく桜って気がしたから」
「……先輩、ありがとうございます。すごく嬉しい……」
ここまで嬉しそうに笑うのは初めて見たかもしれない。アンダンテの苺タルトに勝った気分。
それくらい、柔らかくふわっとした表情を見せた。
その表情のまま櫛を手に持ち、長い髪に通す。と、もっと嬉しそうに笑って、
「わぁ……本当に嬉しい」
「……喜んでもらえて良かった」
「本当にありがとうございます」
そう言ったあともずっと嬉しそうに櫛を眺めたり、髪を梳いたりしていた。
まるで外の景色なんてどうでもよくなってしまったように。
自分の用事を一番最後にして良かった。
その櫛で、怒鳴ったことも泣かせたことも、すべて帳消しにしてくれると嬉しい。できれば、雅さんに会ったことも……。
そんなことを願いながら、翠の横顔を見ていた。
Update:2009/07/21 改稿:2017/06/15
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