やっぱりだめかな……。
そうは思いつつも順を追って立ち上がる。
軽い眩暈が襲うものの、そこまではひどくない。とりあえず、朝の支度をしよう。
外を見れば快晴。
下に出されていた簡易ベッドはもぬけの殻で、お布団もきれいにたたまれていた。
蒼兄はランニングへ出かけたのだろう。
昨夜飲んだ薬を今朝もまた飲む。
前回はそこまではなんとかなって、午前授業の板書をノートに取るくらいのことくらいはできていた。そのあとの、お昼の薬を飲んだあとが最悪だったのだ。
せめて午前の授業くらいは受けたい――
そう思いながら制服に着替え、部屋を振り返る。
いつもと何も変わらない、私の大好きな部屋。けれど、今夏はこの部屋を嫌いになりそう。
本格的に痛みが出てくれば、しばらくの間はこの部屋から出られはしないだろう。そうなったときのことを考えるとぞっとする。
閉所恐怖症というわけではない。ただ、病室もこの部屋も、外界と絶たれてしまうような気がするのだ。それが嫌なのだけど……仕方のないこと――
ドアを開けると蒼兄が窓際の応接セットでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。
これもいつもとかわらない光景。
「蒼兄、おはよう」
「おはよう。翠葉、身体は?」
「うーん……午前授業はなんとかなると思う。でも、午後はちょっとわからない」
「そっか。そしたら保健室な」
「うん」
ダイニングへ行くと、キッチンのカウンター越しに栞さんと挨拶をした。
「本当なら私が迎えに行けたらいいんだけど……」
と、顔を歪める。
「そこまでご迷惑はかけられませんっ」
「日中は実家の手伝いしているから難しいのよね」
と、思案顔。
「……実家のお手伝いですか?」
「そう、母が茶道を教えているのよ。藤宮でも週一で講師をしているはずなんだけど、会ったことない?」
藤宮の茶道で講師って――
「あの、もしかして……藤宮柊子先生のことです……?」
「そうよ。その人が私の母」
「栞さん、私、茶道部員なのですが……」
「あらっ! じゃぁ、母とも知り合いなのね?」
「世間って狭い……」
それが本音だった。
いや、藤宮学園における藤宮一族の占める割合が多いというだけなのだろう。
「湊には連絡入れておくわ。保健室で寝てるのもいいけれど――あとは湊の判断に任せましょう」
言いながらハーブティーを差し出してくれる。
今日はローズマリーを利かせたブレンドらしい。
血圧の数値がだいぶ悪いから、気遣ってくれてのことだろう。そんな優しさが嬉しくて悲しくて、少し怖い……。
カップを口にすると、緑っぽいローズマリー独特の香りがした。
もう、何も言わなくてもスープが出てくる。
蒼兄も栞さんも、かなり優秀な翠葉取り扱い説明書ではないだろうか。
スープを口にすると、食道を通り胃に落ちるのを感じる。
どんなにつらくても、経口摂取だけは怠らないようにがんばろう。
これからの二週間、自分に何を課せられるかというならば、このくらいのことしかないのだ。
鎖骨あたりにある血管から入れる、高カロリー輸液だけは嫌だもの……。
カップを手に取りながら思う。
栞さんは事細かな私の変化をよく見ていてくれる。
いつもならスープカップで出てくるけれども、今はスープカップよりも一回り小さなマグカップにスープが注がれている。
私が食べ切れる分量を的確に見極めてくれるのだ。
「栞さん、いつもありがとうございます」
「なぁに? 急に改まって」
「いえ。ただ、口にしたかっただけです」
そんなやり取りをしてから蒼兄の車で学校へ向かった。
車に乗り込むと、ローファーを脱いでシートに上がりこむ。そして、シートを少しだけ倒し、足を崩して座るのだ。
この体勢が一番楽。
「保健室でだって授業は受けられるんだからな?」
蒼兄の言葉に、いつだか湊先生が言っていたことを思い出す。
「うん。でも、その分課題が増えちゃうし。こんなぼーっとした頭じゃたくさんの課題はこなせないから……。だからできるだけクラスでちゃんと授業を受けたい」
「ギリギリまでの無理はするなよ?」
すごく不安そうな声で言われた。
「もうね、どこがギリギリのラインなのか自分でもよくわかってないの」
「じゃ、そこは湊さんに判断してもらおう。湊さんがこれ以上は、ってところまできたら迎えに来てもらえるようにしておくから」
「また、人に迷惑をかけるね」
「翠葉、きっと誰も迷惑なんて思ってないから。……大丈夫だよ」
「ん……ありがとう」
まるで心が伴わない中身のない会話。
これからのことを考えるだけですごく不安になるし、先が思いやられる。
せめて、普通に過ごしたい。
ご飯を食べてお薬を飲んで、横にならなくちゃいけないのは仕方ない。起きてられないのだからそれは諦めてる。
でも、お風呂に入ったり植物の世話をしたり、そういう本当に普通の生活の最低ラインは守りたいと思う。
ここまでくると、何をしたいという話ではなくなる。
ただ普通に過ごしたいだけ。
「QOL」――クオリティオブライフと言うけれど、本当にそのとおり。
人の尊厳をできる限り守るというもの。
私は自分の尊厳をどこまで守ることができるだろうか――
学校に着くと、蒼兄が昇降口まで送ってくれた。しかも、昇降口の中まで入ってきて靴を脱ぐから、
「蒼兄?」
「ちょっと湊さんと話してから行くから。階段、気をつけて上がれよ?」
「うん」
教室には一番のりだった。
席に着いて、そのまま机に身体を預ける。
机に当たる陽射しがだいぶ強くなってきた。
窓を開けてカーテンを閉めると、窓から吹き込む風の流れがわかる。
「風……」
自由気ままに吹く風になれたらいいのに――
そしたらひとりでどこへでも行ける。
森林の中をそよぐこともできるのだから、風になれたらどれだけ幸せだろう。
そよ風が癒しだとしたら、突風は気性が激しい感じ? 台風や竜巻は怒り、かな。
そんなふうに風の状態を感情にたとえていると、しだいに教室が賑やかになり始めた。
時計を見ると八時半まであと数分。
前の椅子が動くと声をかけられた。
「薬、飲み始めたって?」
海斗くんだ。
「うん、昨夜から」
「大丈夫なのかよ?」
「んー……午前中は大丈夫でありたいと思ってる、かな」
「因みに、俺の携帯と司の携帯にも翠葉のバイタルが表示されるように改良されたから」
と、携帯を印籠のようにずい、と目の前に差し出される。
ディスプレイには私のバイタルが表示されていた。
「え……?」
「秋兄がさ、自分がずっとついていられるわけじゃないから、近くにいる人間が知っていたほうがいいって。昨夜のうちに設定済ませてくれた」
「……そう」
「……結局、振っちゃったんだな」
「うん……」
「でも、そのくらいで諦める人じゃないから。だから落ち込まなくていいと思うぞ」
それはすでに昨日ご本人様から申し渡されているわけで……。
そのことに関しては、なるようにしかならないと思ってる。
だって、私にはもうそんな余裕はないのだから――
佐野くんは相変らず眠そうで、飛鳥ちゃんは相変らずハイテンション。桃華さんもいつもと変わらず落ち着いている。
それらを見るだけでもほっとできる。
自分の居場所がここにあると思えるだけで安心できる。
三限を終えしばらくすると、後ろのドア付近に座るクラスメイトが騒ぎ出した。
何かと思って後ろのドアを見ると、司先輩が立っていた。
どこにいても立っているだけで人目を引く人っているんだな、なんて思っていると、
「海斗、翠、簾条。ちょっといいか」
このメンバーに声をかけたということは生徒会関連だろうか。
席を立とうとしたら海斗くんに身体を支えられた。
眩暈というか、ぐらついたことにすら気づけないほどの状況に驚き廊下へ出る。
「翠、ここまでだ」
どうやら用件は生徒会のことではないらしい。
「俺もそう思うよ。血圧が七十切る前に保健室に連れていけって言われてる」
「翠葉、あなたの欠席日数なら私が管理するから。だから今は休むべきだと思うわ」
これが三竦みの状態、というものだろうか。
頭がぼーっとしていて、どこか別のことを考えてしまう。
こういうとき、廊下に生徒がいないっていいな……。
「うん、そうだね……。周りをびっくりさせる前に保健室に行くことにする」
不自然な笑顔で答えていることは自覚していた。
「どっちにしろ、保健室にいったらすぐ点滴だ。このあとはもう授業には出られないだろうから、簾条は七限が終わったら翠の荷物を保健室に持っていって」
「了解」
「じゃ、あとは俺と海斗で保健室まで連れて行くから」
と、右腕を取られる。
「司先輩、大丈夫。まだひとりで歩ける」
「……翠、階段見えてる?」
階段……?
「翠葉、目の前見えてないだろ。あと一歩で落ちるぞ?」
海斗くんの言葉にドキリとした。
家の中はともかくとして、まだ学校内での行動は無理か……。
学校は家と違って空間の目安となる家具がないため、感覚で歩くにはもう少し鍛錬が必要そう。
実のところ、席を立ったときから徐々に視界がきかなくなってきていた。
きっと立っている今も少しずつ血圧が下がっていっている。
つまり、時間に比例して状態が悪化するため、今以上に視界がクリアになることはないのだ。
「……何も言い返せないのって悔しいな」
「翠葉、使えるものは使いなさい? この藤宮司を使うだなんてめったにできることじゃないわよ?」
「そうだよなー。たいてい使う側にいるよなー。ずりーことにさ」
「先輩、すごい言われようですね」
「……どうでもいいけど、もう時間がないから、あまり強情だと抱え上げるけど?」
言われて口を噤む。この先輩はやると言ったら絶対にやる気がするから。
なんだか「有限実行」という言葉がとてもしっくりくる人に思えた。
仕方なく、素直に支えてもらって階段を下りることにした。
階段を下りながら言われる。
「翠葉ぁ、もう少し俺らのこと頼ってくんね?」
「……いつも助けられているのに、これ以上だなんて――」
「迷惑だなんて思ってないし、自主的行動のうちだから」
司先輩がそう言い切った。
「あぁ、それそれ。俺らやりたくてやってるんだよ」
司先輩の言葉に海斗くんが乗じる。
「因みに、特別扱いにも当てはまらないから」
「そうそう。友達が具合悪かったら手を差し伸べるのが当たり前」
そんなことも知らないのか、とふたりに言われている気分。
「……ごめんなさい……」
「「言葉間違ってる。こういうときは……」」
見事にふたりの声がはもった。
「……ありがとう?」
「「正解」」
答えはわかっても、どうしてかそれを自分が受け入れられない。
保健室に着くと、すぐにベッドへ寝かされた。
「今は余計なことを考えるのはやめて少し休め」
司先輩がそう言うと、カーテンを出ていく音がして、そのまま保健室のドアが開いて閉まる音がした。
「司の言うとおりよ。今は休むこと。点滴の用意するからちょっと待ってなさい」
湊先生の声を聞くと、そのまま眠りに落ちた。
このタイミングで連れてきてもらわなければ、四限の途中で気を失っていたんだろうな。
薄れ行く意識の中で、そんなことを思った。
Update:2009/08/01 改稿:2017/06/16
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