三十分もすると身体が軽くなるのがわかる。
水分が身体に染み渡って気持ちがいい。
今は蒼兄と秋斗さんがこの部屋にいて、若槻さんと湊先生はリビングでご飯を食べているらしい。
今日はポテトとハムのドリアだったと蒼兄が教えてくれた。
それはどんな料理かな。食べられるようになったら食べたい。
そんなことを考えていると、しだいに点滴が入っているほうの手首が痛みだす。
ズキズキとする痛み。輸液が漏れているわけではなく、点滴によって冷えたことによる痛み。
「蒼兄、体温ちょうだい」
「手首、痛いのか?」
「ん……」
「あとでカイロ買ってくるな」
と、大きな手で手首を包み込むように握ってくれる。
「俺が代わろうか? その間にカイロ買ってきたら?」
にこやかに笑う秋斗さんの申し出。
「いえ、結構です……。下心が見えまくりなので遠慮します」
蒼兄も同じように笑みを貼り付けていた。
私に向き直ると、
「翠葉、明日には買ってくるから」
「うん、ありがとう」
そこへ、「なんの話?」と廊下から若槻さんが会話に加わった。
後ろには湊先生も栞さんもいて、栞さんの手には少し大きめのトレイ。コーヒーの香ばしい香りがするから、みんなにコーヒーを持ってきたのだろう。
「カイロを買ってくるって話」
と蒼兄が言えば、
「それなら俺が行ってきます。普通の大きさ? 小さいの? それとも貼れるタイプ?」
「貼るタイプのはかぶれちゃうから普通のやつ。小さいのでも大きいのでもどっちでも大丈夫。それから手首に固定できるように包帯もお願いできるかな」
「了解。ってことはコンビニよりもドラッグストアって感じだね。栞さん、この辺にドラッグストアありますか?」
若槻さんが訊くと、栞さんではなく湊先生が口を開いた。
「うちにあるかもしれないわ。若槻荷物持ちで一緒にいらっしゃい」
「えー!? 荷物ったってカイロじゃないですかー」
「いいから来るっ! 食後の散歩は美容にいいのよっ」
「美容にいいったって一階上に上がるだけじゃないですか」
若槻さんはブツブツ文句を言いながら部屋を出ていった。
ふたりが出ていくと、栞さんがベッド脇に来たので蒼兄が場所を譲る。
栞さんは私の手首を取り、左手と右手のを交互に握った。
「こんなに冷たくなっちゃうのね」
栞さんの手は大きくない。けれど、ものすごく優しくてあたたかい。
「今までもそうだったのかしら……。気づかなくてごめんなさいね」
「あ……今まではお布団の中に手を入れていれば大丈夫だったんですけど、最近はタオルケットだから……」
「そうなのね。……そういえば、翠葉ちゃんお手洗いは大丈夫?」
「……行きたいです」
「うん、じゃぁ行こう」
いつもなら蒼兄か栞さんに言う。でも、ほかにたくさんの人がいて言い出せなかった。
栞さんに手を貸してもらって身体を起こすものの普通の体勢は維持できず、四つんばいになることで頭と心臓の位置をキープする。この体勢ならそこまでひどい吐き気に見舞われることはない。でも、女の子としてどうなのかな、とは思うの。
「貞子みたいでやだなぁ……」
ボソリと零すと、その場にいた三人が各々吹き出した。
ひどい……。
トイレから出ると吐き気のひどさに廊下で蹲る。すると、蒼兄がベッドまで運んでくれた。
「翠葉ちゃん、明日学校はどうする?」
学校――
そうだ、学校へ行くためにここに引っ越したのだ。
行けるか、よりは行かなくちゃ、という感じ。じゃないと、ここへ来た意味がなくなる。
「行きます」
「無理は良くないわよ?」
「数日休んだらどうだ? 今日みたいな調子じゃ椅子に座るどころか、身体起こせないだろ?」
確かに、身体を起こすことすら無理なのかもしれない。でも――
「翠葉ちゃん、そんなに焦らなくても大丈夫」
声をかけられ秋斗さんを見ると、秋斗さんがベッドサイドまで来てくれた。
「まだ高校は始まったばかりで翠葉ちゃんは日数が足りなくなるほど休んでるわけじゃない。だから、今は休むべきじゃない? 少しでも薬に身体が慣れたら一時間でも二時間でも授業に出るように努力する。それでいいんじゃないかな?」
秋斗さんの声音は優しい。けれども、今は休みなさい、と強く言われた気もする。
「ここに越してきたのは翠葉ちゃんが無理をするためじゃなくて、体力を使わないで学校へ通うためでしょう?」
そう言ったのは栞さんだった。
「でも、やっぱり……。ここにいるなら学校へ行かなくちゃ――」
「それが違うんだよ。行けると思ったときに学校までの距離が負担にならないようにここにいるのであって、ここにいるから学校へ行かなくちゃいけないわけじゃない」
秋斗さんが言っていることは正しい。でも、難しい……。
「翠葉ちゃん、人にはがんばらなくちゃいけないときとそうでないときがある。翠葉ちゃんはそれを間違えていると思うよ」
「がんばらなくちゃいけないときとそうでないとき?」
訊き返すと秋斗さんが頷いた。
「全国模試前、テストを受けるために君は薬を飲むのを遅らせてがんばって耐えていたよね? じゃぁ、今は? 今はどういうとき?」
今……?
今は六月半ばで――とくに何があるでもない。次の試験は期末考査だから七月頭……。
「あ……期末考査までには復調しなくちゃっ」
「そうでしょう? だとしたら今は?」
「……体調を立て直すことに専念しなくちゃいけない時期」
「当たり」
秋斗さんに言われるまですっかり忘れていた。
薬を飲むのを遅らせたときにはしっかりとそこまで考えていたはずなのに。
少し身体に余裕がなくなるだけで、そんなことにすら気づけなくなってしまう。
「秋斗さん、忘れていたことを思い出させてくれてありがとうございます」
「どういたしまして」
にこりと笑って頭を撫でられた。
秋斗さんは説明をするのか上手だと思う。
力ずくでは意見を通さない人、というか……。私が自然とそう思えるように誘導してくれる人。
人の扱いが上手だと思った。
「司が大丈夫かって心配してたわ」
十階から戻ってきた湊先生に開口一番で言われた。
司先輩が……?
「今日はこっちに帰ってきているんですか?」
「今、うちに戻ったらいたわ。翠葉の様子が気になって見にきたみたいだけど、人が多そうだからってやめたみたいね」
そうなんだ……。
「一週間くらい休ませるからその間に顔を出すように言っておいた」
あぁ、やっぱり一週間くらいは休まないとだめなんだ。
「先に湊に訊けば良かったわね」
栞さんの言葉に苦笑いを返すと、
「何よ」
湊先生が凛々しい眉をひそめて訊いてくる。
「今、明日学校に行くかって話をしていたところなのよ」
「翠葉、気持ちはわかるけど数日は無理よ? それは翠葉が一番よくわかっているでしょう?」
「はい、すみません……」
湊先生は若槻さんが手に持っていたものを受け取ると、手際よく手首に巻きつけてくれた。
「さ、長居は無用。秋斗も若槻も帰るわよ」
と、湊先生はふたりを立たせた。
「若槻さんっ、スープ飲ませてくれてありがとうございましたっ」
慌てて言うと、にこりときれい笑った顔が振り返る。
「どういたしまして、お姫さん」
「あっ、わ――ごめんなさい……おにいちゃん」
小さく口にして、しゅぅ、と顔が熱くなる。
「くっ、早速お兄ちゃんなんて呼ばせて、あんた図々しいわっ」
言って、湊先生が若槻さんの背中をバシバシと叩く。
「妹にお兄ちゃんって呼ばれるのは夢なんですよ」
若槻さんがぼそりと零した言葉を逃がさずに、
「何、おまえ妹さんになんて呼ばれてたの?」
と、秋斗さんが尋ねる。
「黙秘権を行使します……」
「唯、唯くん、唯ちゃん――」
と、蒼兄が敬称を変えて呼んでいくと、そのどれにも反応を示した。
「くっ、まじで!? おまえ、相当かわいかったんだろうな」
秋斗さんはおかしそうに笑った。
確かに若槻さんはきれいだしかわいい。格好によっては女の人にも見えるだろう。
「とにかく、唯ちゃんだけは勘弁」
と、私を見た。
「さすがにそれは言わないです」
「なら良かった」
と、部屋を出ていく。
私はベッドから見送り、栞さんと蒼兄は玄関まで見送りに出た。
それにしても、唯ちゃん、か……。
あの反応からすると、「唯ちゃん」と呼ばれていたのだろう。
ユイちゃん――どこかで聞いたことのある響き。
記憶を手繰り寄せると、きれいなお姉さんがそう口にしているのを思い出した。
どんな顔だったのかは細かく覚えていないけど、とてもきれいな人だと思ったのは覚えている。
『ユイちゃんが来てくれないの』
寂しそうに口にしたお姉さん。
その晩、私はとても懐かしい夢を見た。
――「あなたはいつまでここにいるの?」
――「私は検査入院なので、明後日には退院します」
――「そう……何も異常がないといいわね」
お姉さんは儚くきれいに笑った。
――「通院の日に会いに来てもいいですか?」
――「お見舞いに来てくれるの?」
――「はい。お姉さんはお花は好き?」
――「好きよ。でも、お花屋さんで売っているようなものじゃなくて、庭先に咲いているハーブのほうが好き」
――「どうして?」
――「知ってる? ハーブって強いのよ。どんなに強く風が吹いても雨が降っても陽が当たればリセットされるの。ミントやローズマリーは水に挿しておけば発根するのよ? その生命力の強さに憧れる」
――「それじゃ、おうちに咲いているハーブを摘んできます」
――「楽しみに待ってる」
――「私、御園生翠葉です。お姉さんのお名前は?」
――「あら、きれいな名前。でも……私の名前は秘密」
――「どうして……?」
――「願掛け。あなたにも一緒に願掛けしてほしいから」
――「願掛け……?」
――「そう……ユイちゃんが来てくれるように。ユイちゃんが来てくれたらあなたに名前を教えるわ。だから、ユイちゃんが来てくれるように一緒に祈ってね」
――「ユイちゃんはお姉さんの姉妹? お友達?」
――「……とても大切な人よ」
――「どうして来てくれないの?」
――「家族だから、かな」
――「……家族なのに来てくれないの?」
――「あなたはいいわね。優しいお兄さんが来てくれて」
そう口にして、お姉さんは寂しそうに微笑んだ。
懐かしくて、どうしてか切ない思い出。
午前十時の中庭。それが私とお姉さんをつなげる唯一のキーワードだった。
私が退院したあと、私は三回しかお姉さんに会うことができなかった。
そのとき、ユイちゃんはまだお姉さんに会いに来ておらず、私は最後まで名前を教えてもらうことができなかった。
そんなある日、看護師さん伝いで四角い箱が届けられた。
箱を開けるとオルゴールであることがわかったけれど、いくらぜんまいを回しても音は鳴らなかった。
箱の中には小さな鍵が入っていて、どこかに鍵穴がないかと探してみたけれど、それらしき穴も見つからなかった。
あれはいったいどこの鍵なのだろう……。
今もそのオルゴールは自宅の引き出しにしまってある。
本当はなんの曲を奏でるオルゴールなのかな……。
手紙も何も入っていなくて、看護師さんに名前を尋ねても教えてはもらえなかった。
お姉さんの名前、最後まで知ることはできなかった。
お姉さん……ユイちゃんは来てくれましたか? 今、元気に過ごしていますか?
Update:2009/09/01 改稿:2017/06/16


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