栞さんがキッチンから出てくると、それに飛びついたのは美鳥さんだった。
「彼女を呼びに行くのだね?」
どこか嬉々として問いかける。
「そうなんですけど……」
「その役は私にやらせてはくれまいか?」
美鳥さんから好奇心オーラが満ち溢れていた。
「妹は少々人見知りをする性質なのですが……」
御園生さんが言葉を添えると、
「妹君は美少女なのだろう?」
美鳥さんの言葉に栞さんが尋ねる。
「それ、どちらで聞かれたんですか?」
「マンション内の情報ソースは美波女史と決まっているであろう?」
胸を張って答える美鳥さんに皆が納得する。
「ただ、妹は現在篭り中と申しましょうか……」
御園生さんが申し訳なさそうに言葉を発する。
「おお、そうであった! 自分の気持ちと対峙しているのであったな。それは詰まるところどのような問題なのだろうか?」
誰もが言葉に詰まると思った。けれども、この場には口の軽い海斗がいた。
海斗は悪びれることなく、「キスマーク」と答える。
「ほほぉ……十七歳の悩める乙女というわけだね?」
美鳥さんは笑みを深め、ターゲットを海斗に絞った。
「相手は付き合っている人かい?」
「秋兄。一応、昨日から彼氏みたいだけど」
「ふむふむ……。秋斗氏との年の差は九つ。それにキスマークか……これは面白い」
怪しく目を光らせ、口元に笑みを浮かべる。
「ところで、キスマークはどこについているのだろう?」
隠すことを諦めたらしい御園生さんが口を開いた。「首の後ろです」と。
「そうか……。やはり私が行こうっ!」
美鳥さんはすくっと立ち上がった。
ここまでくると反対する人間は誰もいなかった。
もっとも、誰かがやらなくてはいけない役だが誰もがやりづらい役で……。
もし誰かが行くことになるなら、その役はきっと栞さんに割り振られていただろう。
その栞さんが「どうしようかしら……」と言う程度には、今の翠には踏み込みづらいものがあった。
こんな局面には美鳥さんのようなイレギュラーがいたほうがいいのかもしれない。
廊下の先で、
「自分、対馬美鳥と申す者だが……。翠葉くん、入ってもいいだろうか?」
翠が心配な傍ら、俺は美鳥さんがペースを乱されるときとはどんなときだろう、と考えていた。
自分もマイペースを自負する人間のつもりだが、例外ができてしまった。
自分のペースを守りたくとも、翠が相手だと少し難しい。
美鳥さんも、ご主人の
ここはかなりの年の差夫婦だったと聞いている。
「ここから見て察するに、中は暗闇であろう? じゃぁ、入るとすることにしよう」
そう言ってドアレバーに手をかけ中へ入った。
「うーわ! 美鳥さん、入ったよ」
海斗のみが口にしたけれど、リビングにいた四人の感想はそう違うものではなかったと思う。
物理的に鍵がかかっているわけではない。入ろうと思えば誰にでも入れる部屋だ。
けれど、そこに篭っているのが翠というだけで、誰もが犯しがたい空間になってしまう。
それがゆえ、本人に同意を求めてから入室するのが普通になってしまっている自分たちには、到底できない所業だった。
「美鳥さんってすごいな……。俺もあのくらいできなくちゃいけないんだろうな……」
御園生さんがソファの背もたれに上体を預けて嘆息する。
「でも、翠葉ちゃんっていう子を知ってしまえば知ってしまうほどにできなくなる行動よね。美鳥さんは翠葉ちゃんを知らないからできるのよ」
フォローのようでフォローになっていない言葉を口にしたのは栞さんだった。
「あのさ、美鳥さんと翠葉って話噛み合うのかな?」
海斗が首を傾げて誰にでもなく尋ねる。
「あはは、ちょっと不安……」
御園生さんが言えば、
「でも、美鳥さんは話を聞きだすのが上手だったりするのよ? 何せ好奇心の塊みたいな人だもの」
確かに、なんの成分でできているのか尋ねられたなら、「探究心五十パーセント、好奇心五十パーセントで形成されています」と答えても嘘ではない気がする。
独特な喋り口調に独自のペース。あれに乗せられてしまえば美鳥さんの手の平に転がされるも同然。しかも、相手は翠だ。
素直に導かれて美鳥さんワールドへ足を踏み入れるだろう。
沈んだ空気は美鳥さんの行動ひとつでずいぶんと軽いものへ変わっていた。
今、あの部屋でどんな会話が交わされているのか……。
気にはしつつも、美鳥さんが翠を懐柔して出てくることに不安は抱かなかった。
四人揃って翠の部屋を気にしつつリビングで待つこと数分。
ドアが開くと美鳥さんがひとりで出てきた。
「鏡をひとつ貸してもらえないだろうか?」
「鏡、ですか?」
栞さんは首を傾げながら、洗面所から割りと大きな手鏡を持ってきた。
「うむ、そのくらいの大きさがちょうどよかろう」
答えると、今度は自分の荷物の中から化粧ポーチらしきものを取り出し、いくつかのアイテムを持って翠の部屋へと戻った。
ドアが閉まってしばらくすると部屋の照明が点いた。
「何してんだろうな?」
海斗が立ち上がると栞さんも立ち上がった。
「とりあえず、夕飯を運びましょう」
俺と御園生さんはキッチンへ入る栞さんに続いた。
夕飯はハンバーグとサラダ、スープということもあり、そうたくさんのプレートが並ぶわけではなく、三人が数回往復すればあっという間に準備が整った。
運び終えると、海斗と栞さん、御園生さんがじっと廊下の先を見つめる。
……鏡ふたつを持ち込み照明が点いたともなれば、何をするのかは想像に易い。
翠にキスマークを見せるのだろう。
つまり、現実に目を向けさせる――
いかにも美鳥さんらしいやり方だ。
けど、それを目にした翠はどう思うだろう。
さらに動揺するのか、新たに違う思いを抱くのか。
なんでもいい。ただ、泣かないでくれればそれでいい。
心のどこかで美鳥さんが翠を笑わせてくれないだろうか、と思っていた。
本当は自分ができたらいい。でも、俺はどうしたら翠が笑ってくれるのかがわからないから……。
そんなことを考えていると、不意にドアが開き、美鳥さんに支えられながら翠が出てきた。
暗すぎてまだ表情は見えない。
しかし、美鳥さんがくつくつと笑う声は鮮明に聞こえた。
「ほら、見てごらん? あのバカ面を」
廊下を覗き込むようにして見ていた海斗と栞さん、御園生さんを指してのことだろう。
後ろから見ているだけでも、どんな表情をしているのかは想像できる。
リビングに近づくにつれて、翠の表情が見て取れた。
おかしそうに肩を竦めてクスクスと笑っている。
……良かった。
笑っている翠と目が合った。
「いい加減、篭るのはやめろ」
言ってはすぐに目を逸らす。
本当はそんなことを言いたいわけでもないのに……。
でも、いつもどおりといえばいつもどおりの自分で――
もしかしたら、この先は自分が変わらないと今以上には翠に近づけないのかもしれない。
もしくは翠が変わるか……。
いや、翠には今のままでいてほしい。
もう少し俺の中に踏み込んでほしいとも思う。でも、翠が人の中に踏み込む踏み込まないはリハビリしだいだと姉さんが言っていた。
若槻さんのリハビリに乗じて、翠のリハビリにもなるであろう兄妹ごっこを始めたと聞いたのはつい先日のこと。
ゲストルームから戻ってきた姉さんが教えてくれた。
教えてくれたというよりは、人が勉強している部屋に入ってきてベッドに寝転がり、自分勝手に話したいことを話すだけ話していった、というのが正しいけど。
姉さんはそれが俺への情報提供とでも思っているのだろう。
なんだかんだ言いながらも姉っていうか……。
別に姉さんが嫌いなわけではない。
兄さんも姉さんも尊敬はしているし、人間的に俺よりも全然まともだと思う。
ただ、素直になれない自分がいるだけ。
……やっぱり俺が変わるべきなのだろうか。
夕飯を食べ終え、美鳥さんが帰り支度を始めると、翠が咄嗟に立ち上がろうとした。
考える間もなく手が伸びる。
「不注意すぎ」
翠の右手首を掴み制すると、翠はとても気まずそうな顔をした。
あれだけ毎日御園生さんに気をつけろと言われていてこの様だ。
御園生さんの心配症が過剰になっても仕方がない気がしてくる。
「翠葉くん、ここでかまわないよ。あぁ、そうだ。これは君にあげよう」
美鳥さんから翠に渡されたものは、小さいスティック状のものだった。
「うまく活用するといい」
翠はキャップを開けてはすぐに閉めてしまった。
「それ何?」
俺と海斗が翠の手にあるものを覗き込むと、その視線から守るように握りしめ、「魔法のアイテム」と小さく笑って答えた。
気にはなるものの、翠が笑っている。それだけでいいと思えた。
そう思ったのは俺だけではないらしい。海斗も追随することはやめたようだ。
別に特別なことは望んでいない。
ただ、目に届くところで笑っててくれさえいればそれでいい。今は、それでいいんだ――
Update:2009/07/28 改稿:2017/06/19
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