光のもとで

第07章 つながり 02話

 どのくらいの間同じ体勢でいただろう。
 ずっと首を押さえて蹲っていた。
 すると、少し強い調子でドアがノックされる。
 栞さんのノックとも蒼兄のノックとも違う。かといって司先輩でもない。
 海斗くん……?
 不思議に思っていると、もう一度ノックがあった。
「はい……」
「自分、対馬美鳥と申す者だが……。翠葉くん、入ってもいいだろうか?」
 あ……さっきの人?
「え、わ、あ……」
 話したことがない以前に会ったこともない人だ。それがどうして……!?
「ここから見て察するに、中は暗闇であろう?」
「……はい」
「じゃぁ、入るとすることにしよう」
 ドアが静かに開き、女の人が入ってきた。
 身長は桃華さんと同じくらいなのに、桃華さんよりも大きな印象を受ける。
 顔のつくりは逆光でよくわからなかった。
 ドアを閉めると再び暗闇に包まれる。
 窓の外から差し込む表通路のわずかな光が美鳥さんの顔を照らしていた。
 彫りの深いはっきとした顔立ちの人。
「きれい」よりも「格好いい」。その言葉しか浮かばなかった。
 湊先生や司とは種類の異なる格好良さ。肉体美とでも言うのだろうか……。
「おや、私の筋肉に目を奪われているようだね?」
 美鳥さんはニヤリと笑う。
「……すごい筋肉ですね」
「そうだろう? 鍛錬の賜物だ」
「……あ、私、御園生翠葉です。今週からこちらのマンションにお世話になっています」
「うむ、噂には聞いていたよ」
 美鳥さんはベッドサイドに腰を下ろした。
「で、翠葉くんはな何にゆえ篭っているんだい? 今、向こうでは夕飯を食べようかどうしようかと皆が悩んでいるんだが」
「……あの、私のことは気にせず食べてください、とお伝えいただけますか?」
「そうしたいのは山々なのだが……」
 ぐうううう、と空腹を知らせるには少々威勢のいい音が鳴った。
「失礼、私は腹ペコなのだよ」
 格好いい人が妙に情けない顔で言う。
「ごめんなさい……」
「謝る必要はないのだが、どうして篭っているのかを尋ねても良いだろうか」
「……見られたくないものを見られて恥ずかしいからです」
「うむ……。それで電気を消して暗闇なのか。なるほど」
 美鳥さんはまるで謎解きでもするかのように話を進める。
「その恥ずかしさとはどのくらいだろうか」
「……今までの人生で一番です」
「ほほぉ……それは興味深い。で、それはなんだろうか?」
「キスマークで――」
 ついうっかりと口を滑らせてしまった。
 どうしてだろう……。別に誘導尋問をされているわけではなかったのに。
「それはどれくらいのものだろうか」
 美鳥さんの質問はまだ続く。
「自分に見える場所ではないので程度問題はお答えしかねます」
「つまりは首の後ろか背中ということだな」
「首ですっ」
 背中なんてあり得ないっ。
 慌てて否定すると、
「よし、私が鏡を調達してこよう」
 美鳥さんはすっく、と立ち上がり部屋を出ていった。
 自分の意見を言う間もなかった。
 先輩が「独特な世界観」と言っていたのが少しだけわかった気がする。
 美鳥さんはすぐに戻ってきた。
「さぁ、見るかね?」
 鏡をふたつ私に提示し、
「現実はしっかりと受け止めなければならぬものだ」
 私はぐ、と歯を食いしばる。
「ほら、自分で鏡を持って」
 美鳥さんは小さな手鏡を差し出した。
「覚悟ができたなら照明を点けよう」
 私は震える手で鏡を受け取ると、それが合図となり美鳥さんが部屋の電気を点けた。
 ピッ、という音と共に明るくなる室内。
「背面の鏡とこの長い髪は私が持っていよう」
 言いながら、美鳥さんが髪を束ねてくれた。
 鏡に自分を映し、恐る恐る背後にある鏡へと角度を変えていく。鏡は真実を映し出した。
 目に飛び込んできたのはくっきりと浮かぶ赤い痣。これは一週間では消えないだろう。
 再度パタリ、とベッドに突っ伏す。
「ううむ……かなりくっきりとつけられたものだ」
 追い討ちのような一言を恨みがましく思っていると、首のあたりにひんやりとした感覚があった。
「よし、これで大丈夫」
「……え?」
 身体を起こすと、リップクリームのような形状のものを見せられた。
「コンシーラーという化粧品だ。たいていは、シミやソバカスを気にする女性がファンデーション前に使うアイテムだが、こんな使い方もできる」
 言ってはニヤリと笑う。
「もう一度鏡を見てみたまえ」
 鏡を覗くと、くっきりと赤い痣が浮かび上がっていたものが消えていた。
「……魔法?」
「世に言う、化粧という魔法だな。よし、これで問題はなくなった。夕飯も食べれるというものだ」
 あまりにも豪快に、そして嬉しそうに夕飯のことを口にするから少しおかしくなって笑った。
「うむ、君は笑っていたほうがかわいいと思うぞ?」
「……いつも笑っていられたらいいんですけど」
 言葉を濁すと、
「因みに、それをつけたのは翠葉くんの想い人か?」
「……そうなんですけど、どうしたらいいのかわからないことが多くて――怖い」
 言葉に詰まってしまうと、ポンポンと頭を叩かれた。
 それは蒼兄のものより数段力強く、ズンズンと首に衝撃がくるもの。
「いつの世も、女の子が歩く道は険しいものだな。こんな私にも君のような年頃があったわけだ」
 美鳥さんは過去を思い出しているのかくつくつと笑う。
「実はだね、相手が秋斗くんだという情報は得ているんだ」
 言われて顔が熱くなる。
「あの男は厄介だ。しかし、あの男に詰め寄られても操を守り抜いている翠葉くんはすごいと思うのだよ。あんな色男に詰め寄られたらなびかない女のほうが少ないというもの」
 何やらすごいことを言われている気はするのだけれど、普段聞き慣れていない言葉遣いに新鮮さを覚えてしまった私は、次はどんな言葉が出てくるのだろうか、とそちらのほうが気になってしまう。
「人は自分の時間を生きているのだ。それは赤子のときから老いるときまで変わりはしない。だから、翠葉くんは翠葉くんの時間を生きれば良いのだよ。男になど流される必要はどこにもない」
 その言葉に尋ねたいことが思い浮かぶ。
「でも、夫婦は寄り添って生きるものでしょう?」
「夫婦だって変わりはしないさ。人はしょせんひとりで生まれひとりで死ぬ。私の相方も死んだぞ?」
「え……?」
「おや、そんなに珍しいかね? 私は未亡人ってやつさ。いい響きだろう? 寡婦かふとも言うなぁ……。おぉ、そうだ。後家ごけという言葉もあったか!」
 面白そうに言葉を並べ、またニヤリと笑う。
「……美鳥さんって……変わってますよね?」
 ポロ、と言葉を漏らすと、美鳥さんは目を輝かせて喜びだした。
「変で結構! それは私にとって最上級の褒め言葉だ! さて、一件落着したところで、翠葉くん、あっちへは行けそうかね?」
「あっち」はリビングだ。リビングには間違いなくさっきの三人と栞さんがいる。
 でも、美鳥さんはお腹を空かせていて、それでも私の話を聞いて対処法まで教えてくれた。
「……美鳥さん、自分の時間を生きるって、どんな感じですか?」
「ううん? 何も難しいことなどないぞ? ただマイペースに生きればいいだけだ」
「……それで周りとペースが合わなくても?」
「もちろんだ。人とペースが違うことも個性といっていいと私は思うのだが?」
「……鈍感も個性?」
「ははは! そんなことを気にしていたのか。いいじゃないか、鈍感! なんてすてきな響きだろう。うん、実に素晴らしい!」
 なんだか不思議な気分だ。
 美鳥さんが自信たっぷりに口にすると、マイナスな印象が強かった言葉がプラス方面への大きな力を持っているように思えてくる。
 少し前よりも、うんと心が軽くなった気がした。
「……美鳥さん、ありがとうございます。リビングへ行けそう」
 そう言うと、美鳥さんはにこりと笑んだ。
「それでは、立ち上がりの儀式を行おう」
「……え?」
「この手が必要であろう?」
 訊かれてこくりと頷く。
 もしかしたら、この部屋に入る前に私の体調のことを少し聞いたのかもしれない。
 私は差し出されたゴツゴツとした手を取り、ゆっくりと立ち上がって部屋を出た。
 今までこんな手に触れたことはない。とても力強い手だった。
 廊下の先にはトーテムポールのように、一番下に海斗くん、次に栞さん、次に蒼兄の順で頭が並んでいた。
「ほら、見てごらん? あのバカ面を」
 美鳥さんは、「くくっ」と笑う。
 リビングに着くと、「いい加減、篭るのはやめろ」と司先輩にお小言を食らった。
 この人にこれを言われたのは何度目だろう。
 数えてしまうほどには何度も言われている気がする。
 テーブルに着くと、
「起きられるようになったって聞いていたし、お昼にはアンダンテのタルトを食べたって聞いていたから、今日はポトフにしてみたんだけど……どうかしら? 食べられそう?」
「栞さん、ありがとう。食べてみます」
「無理はしなくていいからね」
 栞さんは笑顔を返してくれた。
 みんなにはハンバーグとサラダ、それから私と同じポトフが並ぶ。
 それらの中で驚いたのは美鳥さんの食べる分量だった。
 海斗くんと同じ分量が盛り付けられている。
 でも、ロッククライマーというくらいだし、あの筋肉を維持するためにはそのくらい食べなくてはいけないのかもしれない。
「あぁ……これから帰ったら徹夜なのだよ」
 食事が終わると、美鳥さんはテーブルにうな垂れる。
「しかし、その前に人との会話という貴重な時間を得られて良かった」
 美鳥さんの視線が私を通過して栞さんへ向くと、
「栞くん、実に美味しい夕飯であった。申し訳ないが、片付けはせずにお暇するとしよう」
「そうしてください。美鳥さんの握力にかかったらお皿が全部割れちゃうわ」
 コロコロと笑いながら栞さんも席を立つ。
 私も見送りに行きたくて立とうとしたら、隣に座っていた司先輩の手が伸びてきた。
「不注意すぎ」
 きっぱりと言い切られて、「ごめんなさい」と思う。
「翠葉くん、ここでかまわないよ。あぁ、そうだ。これは君にあげよう」
 差し出されたのはさきほどの化粧品。
「うまく活用するといい」
 ニヤ、と笑うとスタスタ歩いていってしまい、あっという間に廊下の先に見えなくなった。
「それ何?」
 司先輩と海斗くんに覗き込まれる。
 私はふたりの視線から隠すように手に握りしめ、「魔法のアイテム」と答えた。
 食事中、再度キスマークの話題を出されたらどうしようかと思っていたけれど、幸いその話を話題に出す人はいなかった。
 ほっとしたはずなのに、身体に入った力が抜けない。
 そんな自分に気づいても、どうしたらいいのかはわからずにいた。



Update:2009/07/28  改稿:2017/06/18



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