「そろそろお風呂に入らない?」
お風呂、という言葉に思わずはしゃいでしまう。すると、
「湊には長湯しちゃだめって言われたけれど、上がるときにしっかり冷水を浴びてくるなら少しくらいゆっくりしてきていいわよ」
栞さんがウィンクを見せた。
「栞さん、大好きっ!」
私はいそいそとお風呂の準備をしてバスルームへ向かった。
なんてことのないシャワーがこれ以上ないほどに気持ちよく思える。
バスタブにローズの精油を落としてくれたので、バスルームにはローズの香りが漂う。
「いい香り……」
まずは髪の毛を洗い、洗い終わると頭をタオルでグルグル巻きにする。
次に身体を念入りに洗い始めた。
この一週間は拭いてもらうだけだったので、つま先からてっぺんまでくまなく洗いたい気分。
石鹸はフランキンセンスをベースにしたオリエンタルな香り。
す、と蒸気と一緒に香りを吸い込むと、ハイテンションだった神経に働きかけられている気がした。
石鹸の香りを楽しむ余裕があることが嬉しい。
久しぶりに湯船に浸かれることを幸せだと思った。
ふと首元に手を伸ばすと鏡に映る自分と目が合った。
そして、角度をずらすとくっきりと浮かび上がる赤い痣が目に入る。
「っ……」
途端に涙が溢れだす。
読んだことのある小説には、今の私とはまったく違うことが書かれていた。
好きな人につけられた印が嬉しく感じるとか、その印があるだけで身近に感じることができるとか――
でも私……全然嬉しくない。身近に感じたいなんて思ってない。
好きだけど、怖い――こんなもの、今すぐにでも消してしまいたい。
そう思ったが最後。
気づけば首が真っ赤になるほどウォッシュタオルで擦っていた。
「翠葉ちゃーん? 大丈夫ー?」
ドアの外から栞さんの声がした。
涙を流したまましゃくりあげていたため、声も出せない。
「開けるわよ?」
後ろのドアがスライドされた。
「翠葉ちゃんっ!?」
「し、おり、さん――」
栞さんは何も言わずに抱きしめてくれた。
しばらくそうしていると、
「身体冷えちゃったね」
苦笑されてコクリと頷く。
「まだ湯船に浸かってもいないんでしょう?」
私は再度小さく頷いた。
「じゃ、お湯に浸かって落ち着いたら出ていらっしゃい。具合が悪くならない程度なら何分浸かっててもいいから」
そう言ってもらえたことが嬉しかった。
「でも――これは持って出るわね?」
栞さんが手に取ったのはウォッシュタオル。
「はい……」
バスタブに浸かると、少し弱くなったバラの香りに優しく迎えられた。
蒸気に含まれる香りを吸い込むと少しずつ落ち着いていくのを感じる。
皮膚が真っ赤になるほど首を擦っていたため、首に手を伸ばすと、指先が少し触れただけでヒリヒリとした。
もう、キスマークの欠片もわかりはしないだろう。
ヒリヒリするのにどうしてかほっとしている自分がいて、どうしてこんな気持ちになるのかが理解できなかった。
秋斗さんは何を思ってキスマークをつけたの? 拓斗くんがいたから?
でも、拓斗くんの言っていたことなんて小さい子の独占欲みたいなもので――
……独占欲?
秋斗さんも……そうなの?
私は誰かのものになるとかそういうものではないと思っているけれど、それは違うのかな。
付き合うって何? 彼氏と彼女って、何? 恋人って?
「あとで辞書を引こう……」
冷水を浴びてからバスルームを出ると、栞さんが廊下で待っていてくれた。
「ハーブティーを淹れたの。あっちで飲もう?」
リビングへ行くように促される。
ラグの上にはドライヤーが用意されていた。
「乾かさせてね」
栞さんはドライヤーの電源を入れると少しずつ髪を乾かしてくれる。
栞さんには首が赤いのが丸見えだろう。
そう思いながらテーブルに置かれたグラスに手を伸ばした。
それは栞さんが淹れるにしては珍しい赤いお茶。
「……ローズヒップティー?」
「そう、美容にいいのよ? ビタミンCたっぷり補充!」
ビタミンは肌にいいから……?
髪の毛が乾くと、
「湊の言いつけひとつ破っちゃったから、もうひとつはちゃんと守らなくちゃね」
「……一時間起きたら一時間休む……?」
「そう。少し横になりなさい」
手を取られ部屋へ連れていかれる。
ベッドに横になると、
「ちょっと待っててね」
と、栞さんは部屋から出ていった。
戻ってきたとき、栞さんの手にはアロマライトが握られていた。
「オレンジスイートとフランキンセンスのブレンド。ゆっくり休みなさい」
アロマライトをコンセントに差し込むと、部屋を出てドアを閉められた。
トップノートのオレンジとベースノートのフランキンセンス。
オレンジは夜眠る前によく炊いてくれる安眠効果のある精油。フランキンセンスはストレスや不安、心に働きかける精油だ……。
何も訊かないでくれるけど、すごく労わられてる。
「今は何も考えないようにしよう……」
そう思う気持ちが拍車をかけたのか、意識を香りに集中させると、知らないうちに眠りに落ちていた。
ぐっすりと眠り目を覚ますと時計を確認する。
「……一時半。栞さん、もう出かけたあとだ」
けれど、何か違和感がある。
「なんだろう……」
もう一度時計の置いてあるサイドテーブルに目をやる。
メモ用紙がない――
栞さんは出かける際には必ずメモを置いていく。それがないのだ。
ゆっくり起きて部屋のドアを開けた。すると、リビングから笑い声が聞こえてきた。
声のする方へ歩いていくと、美波さんと栞さんがお昼の用意をしているところだった。
「あ、グッドタイミング! そろそろ起こそうと思ってたの」
栞さんに言われて不思議に思う。
今日、ご実家のお手伝いは……?
「どうかした?」
「あの……ご実家のお手伝いは?」
「あぁ、今日は母が風邪気味でお教室がお休みって連絡があったから、美波さんも呼んでランチにすることにしたの」
「翠葉ちゃん、これっ! 栞ちゃんが作った出し汁とっても美味しいのよっ。天かすと長ネギだけで十分美味しいと思うわっ」
おつゆの味見をしたらしい美波さんはとてもご機嫌だった。
「さ、食べましょう」
栞さんに背を押され、ラグの上へ誘導される。
……栞さん、本当に今日はお教室がお休みだったの? 私から目が離せなかったからじゃなくて……?
美波さんがここにいるのは、お買い物へ行く間私をひとりにさせないため?
「……翠葉ちゃん、なんて顔してるの?」
栞さんに声をかけられた。
「おうどん、伸びちゃうから早く食べよう?」
いつもと変わらない優しい笑顔で、「ね」と言われる。
「栞さん、ごめんなさい……」
「……もう身体に傷を作らないでね」
「はい」
「ほら、本当に伸びちゃうから」
と、ティッシュで涙を拭かれた。
「いただきます……」
目の前にある丼に入ったおうどんは本当にシンプルそのもの。けれど、口の中に広がるのはかつおの旨みと昆布の旨み。
かつおのえぐみが一切なく、色からすると薄口醤油で味付けしていることがうかがえる。
「美味しい……」
「でしょうっ!?」
美波さんが自慢げに話す。まるで美波さんが作ったかのように話すからおかしくて笑ってしまう。
「そうっ、笑うのよっ! 笑って免疫力アップを図るのよっ!」
隣から伸びてきた指に頬をぷに、とつつかれた。
もしお母さんがここにいたら同じように言ったかな……。
そんなことを考えていると、
「碧さんの代わりに翠葉ちゃんが食べ終えるまで翠葉ちゃんをじっと見ててあげるからね」
美波さんはいたずらっぽく笑った。
おうどんは朝ご飯よりも食べやすくて、残さずに食べられたことに達成感を感じた。
薬を飲めばまだ睡魔に襲われる。
「少し寝て、目が覚めたら起きればいいわ」
それに頷き、部屋に戻って横になった。
この薬を飲んでいる限り、お昼のあとの一時間は授業に出られそうにない。
そんなことを考えながら眠りの淵に落ちるのだ――
Update:2009/07/28 改稿:2017/06/18


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