教室に着いても全然落ち着かない。
電話を誰にかけたらいいのかわからなくて、携帯を手にしたまま座っているだけ。
「翠葉、どうかしたの?」
飛鳥ちゃんに訊かれても、なんと答えたらいいのかがわからなかった。
挙句の果てには 「具合悪い?」
と、桃華さんに顔を覗き込まれる始末だ。
飛鳥ちゃんに起こされたばかりの佐野くんも不思議そうな顔をしている。
具合が悪いわけじゃない。でも、大丈夫とも答えられない。そこに、
「俺らセーフっ!?」
駆け込んできたのは海斗くんと高崎――空太くん。
微妙な空気に、
「どうしたどうした?」
海斗くんに元気よく訊かれた。
その勢いに押されて口を開くことができた感じ。
「少し気がかりなことがあるだけ。ごめんね、体調ではないの」
「そういやさ……若槻さん、昨日帰ってこなかったみたいなんだけど翠葉知ってる?」
「あ……えと、ゲストルームにいたの」
「……なんで?」
「あ……えと、その――」
状況を説明することはできなくて、どう返事したらいいのか、と悩む。
「……なぁ、翠葉。答えられないときは答えられないでいいと思わないか?」
海斗くんは椅子を後ろ向きに跨いで、褐色のきれいな目をじっと合わせてきた。
「……いいのかな」
少し気まずくてうかがうようにに訊くと、海斗くんは表情をくしゃっとさせて笑顔になった。
「バッカだなぁ……。いいに決まってんじゃん」
その言葉にまだ戸惑っている私の髪の毛を引っ張ったのは桃華さん。
思わず後ろに仰け反るような体勢になる。
「あら、翠葉ったら身体柔らかいのね?」
逆さに見える桃華さんがにこりと笑った。
「何をそんなに気にしているのか知らないけど、気分が沈んでるなら飛鳥のテンションもらってやってくれない?」
え……?
「飛鳥、無駄に元気だからちょっと迷惑なの」
桃華さんはこんな一言ですらきれいな笑顔でさらりと口にする。
「何なに!? 私の元気で良ければいつでも分けるよ?」
飛鳥ちゃんは桃華さんの言葉など全く気にもしていないようだ。
「……っていうか、相変わらず身体柔らかいよなぁ……」
佐野くんの言葉に体勢をもとに戻す。
「……どうして知ってるの?」
体育の授業はいつもレポートだし、身体が柔らかいことなんて知られているわけがないのに。
「だからさ、入学以前に見たことがあるって言ったじゃん」
あ――病院のリハビリルーム。
そんな話をしていると先生が入ってきて、ホームルームが始まった。
ホームルームが終われば私は保健室へ移動する。
廊下を歩いているときには先生とそれ相応に会話をしたはずなのに、私はなんの話をしていたのか、どんな受け答えをしたのかまったく覚えていなかった。
保健室では湊先生がいつものように窓際のデスクでノートパソコンに向かっていた。
「先生……唯兄、どうしているでしょう。蒼兄は大学へ行ったのかな……」
「気になるの?」
先生は椅子ごとこちらを向いた。
「気になります……。朝は頭がちゃんと回っていなくて、バタバタ流れ作業みたいに支度してご飯食べて出てきてしまった気がするので……」
家を出るのにゲストルームへ戻っていたら、きっとあんなふうに玄関を出ることはできなかっただろう。
きっと、家を出る前に蒼兄の部屋を見に行ったと思う。
……だから十階での朝食だったのかな?
静さんがいるだけでその場の雰囲気がまったく違うものになっていた。
いつもいる人ではないからなのか、本来そういう雰囲気を纏っている人だからなのか――
なんだか静さんと蔵元さんのトラップに嵌った気分だ。
「先生……ずる休みになっちゃうけど、でも、帰りたい――今すぐ帰りたい」
「……帰る前に電話してみたら? 今のご時世意外と便利なんだから」
先生は椅子から立ち上がるとベッドの上に置いてあったクッションを持ってきた。
ポスン、と床に置くと、
「ほら、座る」
肩に乗せられた手に力を加えられ、クッションの上に腰を下ろした。
「電話……誰にかけたらいいんでしょう?」
先生を仰ぎ見ると、
「気になるのが若槻なら若槻にかければいいでしょーが」
それはそうなのだけど……。
大丈夫、だよね? ……大丈夫。
だって、同じ部屋で寝ていたもの……。全然起きそうにもなかったし……。
それに蔵元さんも来ていたし蒼兄もいたし、静さんも午前中は休みと言っていた。
いくら保険になりそうな言葉を並べても気休めにもならない。
マンションに、いる、よね……?
「ほら、とっととかけるっ」
いつの間にか私の前に座り込んでいた湊先生に頭を小突かれた。
別にそれがとても痛かったわけではない。なのに、涙が零れそうになる。
手に持っていた携帯を取られ、先生がいくつかの操作をすると返された。
ディスプレイには唯兄へのコールが表示されている。
私は思わず切るボタンを押していた。
「……人の親切を無下にすると、ワンギリっていたずら電話になるのよ〜?」
先生はにやりと笑う。
……どうしよう。もう呼び出し音は鳴ってしまっていただろうか……。
ディスプレイにはすでに待ち受け画面が表示されている。そして、次の瞬間には携帯が震えだした。
表示されたのは唯兄の名前。
「出なさい」
先生はそれだけ口にすると、窓際のデスクへ戻った。
震える手で通話ボタンを押す。
携帯を耳に当てるも声が出せない。
『……リィ?』
唯兄の声だ……。
『どうかした?』
「……唯兄、元気? ……唯兄、今、マンション?」
『マンションだよ。十階のオーナーの部屋で朝食食べてる。あんちゃんもいるけど代わる?』
「うん……」
蒼兄の声を聞けば少しは落ち着くかもしれない。
どうしてこんなに不安なのかな……。
唯兄はマンションにいると言っているのに。
『翠葉? どうした?』
「……どうもしない。でも……すごく不安で、帰りたい」
『……唯のことを気にしているのか?』
「学校に来たら、すごく不安になってしまって……離れているのが怖くて……」
『……そんなんじゃ授業受けても意味なさそうだな。湊さんに代わって?』
「はい……」
先生を見ると、先生はこちらを見ていた。
「先生、蒼兄が電話代わってほしいって……」
先生はすぐに立ち上がり、真っ直ぐにこちらへやってきた。
相変らず足が長く、私のところまで四歩くらいでたどり着く。
手に持っていた携帯を渡すと、
「何? ――そのつもり。ま、いい機会でしょ? ――は? 何のご用かしら……。――あぁ、ちょっと待って?」
先生は携帯を耳から離すと、
「翠葉、少しくらい歩ける?」
意味がわらかなくて。「え?」と訊き返す。
「血圧は低いけどそのほかは割と正常。痛みがなければ少し歩いてみるかって訊いてんのよ。どうやら途中まで静さんが歩いてお出迎えに来てくれるそうよ?」
湊先生はどこか楽しそうに口にした。
「……歩きたい」
最近は外を歩くということをあまりしていなくて、自分の筋力がどのくらいなのかが全く把握できていなかった。
それに、外の空気や風を感じる機会も少なくて、いつも建物の中にいる気がして、自然とは無縁の暮らしをしていた。
今日は生憎の曇り空だけれど、それでも外を歩きたいと思った。
湊先生はいくつかのやり取りをすると通話を切った。
「今日は早退。学校医命令。……なるべくゆっくり歩いて帰りなさい。でも、道端で寝たりしないでよ?」
「さすがにそれはないと思います……」
「……冗談よ」
微妙な会話をして保健室をあとにした。
昇降口を出ると、桜並木を歩きながら校舎までの道のりを振り返った。
ちょうどうちのクラスが見えるから。
窓に見えてるのは海斗くんだけ。桃華さんは壁で隠れて見えなくなってしまうから。
でも、海斗くんが私に気づくことはなかった。
彼は授業を丸呑みしてしまうような人だから、先生から目を離すことがほとんどないのだ。
前を向こうとしたとき、視線を感じてどこか、と探した。
視線の主を見つけるのに時間はかからなかった。
三階の一番端の教室――後方に座っているのは司先輩。
どんな表情をしているのかまでは読み取れないけれど、少し口が開いている気がした。
ここでずっと見ていても仕方ないし、メールだけは送っておこう。
でも、なんて送ったらいいのかな。
考えているときに気づく。自分の首が傾いていることに。
これのこと……?
今朝、司先輩に指摘されたのはこれのことだろうか。
少し考え、軽く会釈をして帰途についた。
最近、私の心や頭はとても忙しい。
気になることがいくつもありすぎて、どれひとつとして答えを出すことができていない気がする。
ひとつを考えようとすると、また次のものが降りかかってきて、気がついたら読みかけの本があちらこちらに散らばった部屋のようになってしまっている。
実のところ、物事は降ってきているのではなく、私が一歩歩くたびに壁に激突してるだけなのではないだろうか、と思ったり。
とりあえず、散らばっている本に優先順位をつけるところから始めないとだめそう。
順番を決めている間にまた本が増えたらどうしようかな……。
そんなことを考えながら学園私道を出ると、目の前に公道が現れた。
マンションまでの道のりを見上げ、この坂を上るのか、とゴクリと唾を飲み込んだ。
坂の頂点――そこにはコンクリートと空の境界を邪魔するものはなく、まるで空へ続く道のように見えた。
ただ、曇り空のため、空へつながる道に蓋をされているような気がしなくもない。
「カーブがきれい……」
あのカーブの向こう側には何があるだろう。
そう思ったとき、「お姫様」と後ろから声をかけられた。
振り返ると、静さんがガードレールに腰を預け立っていた。
「あ……」
「目の前を素通りされちゃったからどうしようかと思ったよ」
おかしいな……。私道から公道を全体的に眺めたはずなのに……。
「親子みたいに手をつないで帰ろうか」
静さんの突然の申し出にびっくりしたけれど、間を置くことなく、差し出された手に右手を重ねた。
静さんの手はとてもとても大きくてあたたかい手だった。
「……こんな手が欲しいな」
「どうしてだい?」
「……あ、えと……このくらい大きな手だったらたくさんのものが持てそうだから」
「そう見えるかい?」
「はい」
「たくさんのものを持てたらいいんだけど、実際はそれほど多くのものを持てるわけではないんだよ」
私の説明不足の話に静さんは普通に返事をくれる。それが嬉しくて、次に踏み出す一歩は心なし弾んだ感じの一歩だった。
Update:2009/07/28 改稿:2017/06/19


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