光のもとで

第08章 自己との対峙 08 Side Kaede 01話

 またなのか――?
 ひとり会食を抜け、部屋へ戻ると言った彼女の姿が見えなくなっても廊下から目が離せなかった。
 細く、華奢な後ろ姿が残像となる。
 俺、聞いてなかったんだけど……。まだあの症状を持っているなんて。それとも、誰も気づいていないのか……? いや、まさか姉さんに限ってそんなことはないだろう。それに司の対応と姉さんの言動……。少し前にも同じようなことがあったとわかるものだった。
「姉さん、翠葉ちゃんのあれ……頻繁にあるの?」
「頻繁ではない。私の前では二回ね」
「一度目は?」
 尋ねると、姉さんではなく司が口を開いた。
「雅さんが絡んだときに一度。状態は今よりも悪かった」
「ハープ弾きっぱなしで一時間ちょっとだったかしら? 誰の声も誰のことも見えてなかった。身体を揺さぶっても何しても無駄。……解離性の可能性はなくはない」
 姉さんは声のトーンを落として話した。
 入院中にもそんなことが一度あったけど、
「……一過性のものだと思ってた。退院するころにはほとんど症状もなかったし……」
 俺の言葉に、蒼樹くんが不安そうに口を挟む。
「……なんですか、それ……」
 静さんと若槻くん、海斗は黙ったまま会話を聞いており、須藤さんは空気のようにカウンター内に控えたまま。
「蒼樹と栞がシャットアウト機能って呼んでるもののこと」
 姉さんは気が進まない様子で口にした。
「あれはただ単に神経集中しているときに人の声が届かないっていうだけで……」
 蒼樹くんが半笑いで答えると、
「さっきのくらいなら物思いに耽って周りが見えなくなる、っていう程度で説明がつく。でも、先日のあれは異常よ」
 姉さんの言葉に蒼樹くんは口を噤んだ。

 翠葉ちゃんは精神的なストレスから、時々一定期間の記憶がなくなることがあった。
 精神疾患――その部類に含まれる。
 身体自体は起きているし行動もしている。けれど、その間の記憶がバッサリと抜け落ちてしまうことがあるのだ。
 解離性障害と一括りにしても症状は様々。解離性遁走――自分を知っている人がいない場所へ行ってしまう。けれど、そこまでどうやって来たかの一切を覚えていない。もっとひどいと自分の名前すら忘れてしまうことがある。よく知られるものだと解離性同一障害。つまりは多重人格。主となる人格のほかに別の人格が確立されてしまい、そちらの人格が表に上がってきているとき、主人格は睡眠状態にあるため、その間の行動を把握できない。
 彼女の場合は解離性健忘。ごく軽いもので、ただ、その間の記憶が抜け落ちてしまう、というもの。意識が飛んでいる時間帯も短時間で、本人からしてみたら、「ぼーっとしている間に時間が過ぎていた」というような認識しか持たない。そんな症状。
 脳波の検査やそのほかの簡易的な検査も試みたが、これといって異常は見られなかったこともあり、一過性と片付けられた。それが、去年の七月の話。
 今のは考え事をしていて周囲の声が聞こえなくなるという白昼夢程度のもので病気とは言いがたいが――
「それはストレスが原因ということか?」
 静さんが口を挟んだ。しかも、的確に的をついて。
「そうね、一般的には耐え難いストレスを感じたときにこういう症状が現れると言われているわ」
「翠葉の場合は――」
 言いかけて口を噤んだ蒼樹くんは、少し考えてから再度口を開いた。
「俺が最初に見たひどい状態は入院中です。高校の進級ができないとわかって自主退学を決めたとき。あのときは先日のハープを抱えていたときと同じような状態でした。先日のは、雅さんとの会話でショックを受けたからだと思います。どちらも、自分の体調によってものごとがうまくいかなくなったとき……」
「それがリィのネック?」
 若槻くんが顔を歪めて訊いてきた。
「そうかもしれないわ」
 誰ひとりとしてソファには座らず、さっきの状態のままラグの上にいる。
「ねぇ、なんで……? どうして翠葉だけがこんな目にあわなくちゃいけないっ!? あいつは少しでも友達と一緒に行動したいって思ってるだけじゃんかっ。勉強だってすごいがんばってて――なのに、どうしてっっっ!?」
 海斗が目を真っ赤にして、やるせない、といったふうに言葉を吐き出す。
「だからつらいんでしょ。つらいのにそれを我慢しようとするから余計に身体へ負担がかかる。身体に負担がかかることで防御本能が働く。結果、こういうことになるのよ……」
 姉さんは過ぎるほどに淡々と話した。
「んなの、納得できるかよっ」
 確かにな……。でも、それで一番つらいのはやっぱり本人なんだよな……。
 司は何も言わず、座り込んだままラグを見ていた。
 おまえもつらいよな……。
「精神科にかかったほうがいいんですか……?」
 蒼樹くんが不安そうに訊いてくると、
「いや、今はそれも含めて私が診るようにって紫さんから言われているの。翠葉は藤宮病院に落ち着くまで、痛みの原因がわからないってだけで精神科に回されてきたでしょう? きっとその言葉を聞くだけでショックを受ける。そういうのは避けるつもり」
 精神科、か――
 そこにかかるからといって、皆が精神異常者というわけではないが、世間ではまだ偏見の目で見られることが多い。
 日本人っていうのは不思議な人種だよな。「精神科」は受け入れられなくても「心療内科」や「メンタルクリニック」なら受け入れられるというのだから。中身はさして変わりないのに。
「蒼樹、少しずつ良くなるわよ」
「……どうやって?」
「翠葉の弱点は人とコミュニケーションを積んできていないことにある。だから、対人性におけるストレスに弱い。人と接することが増えればケンカをしたり嫌なことだって経験する。そういうことを積み重ねて心は強くなっていく。人間なんてね、挫折の繰り返しで強くなる生き物なのよ。だから、薬なんかに頼らなくても治せる」
「……世間の荒波にもまれることが薬ということか?」
 静さんが訊くと、姉さんは頷いた。
 そこで、今まで口を開かずにいた司が口を開いた。
「今、翠が持ってる不安要素って栞さんがいないことと秋兄のことなんじゃないの? 栞さんのことはともかくとして、秋兄のほうはどうにかなんないわけ?」
「秋斗のこと、か……。確かに気にしていたな」
 静さんが顎に手をやり、何かを考えているようだった。
 この場で秋斗の状態を知らないのは海斗のみ。海斗には出張と伝えてあるらしい。
「姉さん、このこと御園生夫妻には?」
「話してあるわ」
「そう……」
 俺たちの会話に蒼樹くんが目を剥いた。
「両親は知っているんですかっ!?」
「知ってるよ。紫さんが説明したとき、自分もその場にいた。だから、ご両親は通信制の学校に通わせて、常に目の届くところに彼女を置いておくつもりだったんだ」
 そのときのことはよく覚えている。翠葉ちゃんと御園生夫妻がどんなやり取りをしていたのかも……。
 精神状態が不安定にあることを知ったご両親は、通信制の学校へ入れなおし、仕事をしていても彼女を見ていられるように、と考えていた。
 今年は大きな仕事を抱えている都合上、自宅不在率が上がる。ならば仕事場に連れて行ってしまおう、とそこまで考えていたのだ。幸い、彼女は両親の仕事にとても興味を持っていたし、資料整理などは得意なのだという。
 目の届くところに娘を置いておきたい――親がそう思っても仕方がないくらいに体調が不安定で、精神的にも脆い部分を持った子だった。だが、意外と頑固で芯は強い。結果、彼女は新たに学校へ通う道を望んだ。
 それを最後まで反対していたのは碧さん。零樹さんの、「家から近い高校ならば……」という言葉で学校へ通うことを了承したそうだけど、彼女が選んだ高校は県外の高校ばかりだったという。
 再び両親が反対する中、蒼樹くんが送迎をするという条件付きで、藤宮を受けることを渋々OKした。それも、合格するかしないか五分五分であったから許可したのだろう、と俺は思っている。が、彼女は見事に藤宮へ合格した。
 しかし、彼女の合格如何に関わらず、御園生夫妻が家を留守がちになることに変わりはなく、そこで看護師でもある栞ちゃんが急遽お手伝いさんに抜擢された。表向きは静さんの紹介ということになっているけれど、実のところは紫さんの紹介だった。
 そして、案の定、蒼樹くんと栞ちゃんが一手に彼女を引き受けている。
 ご両親の意向で蒼樹くんには解離性障害のことは知らされていなかったけれど、当時、彼が唯一あの状況を打破して彼女をこちら側へ戻せる人間だった。
 やっぱりあのときに話しておくべきだったのではないだろうか。でも、今さら、だな……。
 やるせない顔をしている蒼樹くんを見ても、なんと言葉をかけたらいいのかがわからなかった。
「知ってたら……そしたら無理に藤宮を勧めたりはしなかったのに」
「蒼樹、それは違うわ」
 姉さんがきっぱりと言い切る。
「人って外に出ないと強くなれないのよ」
 確かに……。
「それはひとまず置いておこう」
 静さんが話の腰を折った。
「雅の件でそんなことがあったという報告は誰からも聞いていないんだが?」
 静さんは射るような目で姉さんを見た。
「あら、雅に接触したことを訊くまで教えてくれなかったのは誰かしら? それに、医者には守秘義務ってものがあるのよ」
 まるで本職を付け足しのように口にする。
「ほぉ……で、今はその守秘義務とやらはお留守なのか?」
 やな感じの笑顔の応酬が始まる。と、
「ふたりとも、いい加減にしてくれない?」
 司が静かに口を挟んだ。
「さっきも言ったけど、栞さんは仕方ないとして、秋兄はどうにかならないの?」
「秋兄、出張中だろ? 今回長いよな? でも、帰ってきたら帰ってきたで翠葉は困るんじゃねーの?」
「海斗っちに一票」
 若槻くんが人差し指を立て、
「リィはまだ秋斗さんのことを怖がってるよ」
「でも、気にはなっているようだがな」
 実際、秋斗はもう退院してホテルにいる。しばらくは会うな、と言ったのは俺と姉さんだ。
「その件は私がどうにかしよう」
 いや――
「それは俺が――」
「それは私が――」
 姉さんと声がかぶり顔を見合わせる。
「なんだ、ふたりして。揃って秋斗をいじめでもしたのか?」
「「ちょっとね……」」
「湊ちゃんも楓くんも、相変わらず秋兄いじりが好きだなぁ」
 笑う海斗にごめん、と思う。
 なんだか非常に申し訳ない気分だ。この場で海斗だけが何も知らないなんて……。
「静さん、それから若槻と須藤さん。三人に話したのはこれからあの子がホテルに出入りするようになるからよ」
「あぁ、そんなことだろうと思った」
 静さんが口にすると、カウンター内で控えていた須藤さんが、「心得ておきます」と短く答える。若槻くんは何も発しないものの、「わかってる」といった顔だ。
 意味がわからない。翠葉ちゃんがホテルに出入りするようになるってなんのことだ……?
 この場にはその意味を解しない人間がもうふたり。海斗は「なんのこと?」というように面々の顔を見ていた。そして司は、「何」と単刀直入に切り込む。
「彼女にはウィステリアホテルへ写真提供をお願いしている。正式に依頼したのはゴールデンウィーク前で、すでに契約済みだ」
 静さんが簡潔に答えると、
「マジでっっっ!?」
 海斗が身を乗り出して静さんに尋ねた。
「あぁ、あの子の写真はいいよ。パレスガーデンでお披露目になる。楽しみにしてるといい」
 そうは言うけれど、俺は一抹の不安を抱く。
「静さん、大きすぎるプレッシャーは彼女にとって――」
「わかっている。当分の間はストックの中から使わせてもらうことが決まっている。慌てて作品を撮り溜める必要性はないんだ。それに名前も年齢も表には出さない」
 彼女が写真を好きなのは知っていたけれど、静さんが認める作品がそんなにもあるとは知らなかった。
「……なんか、楓さんがあんちゃんに見えた」
 きょとんとした顔をした若槻くんに指摘され、蒼樹くんのまじまじとした視線を受けることになる。
「俺も……。俺って、人から見たらこんなふうに見えるんだろうなって思いました」
「……まいったな。翠葉ちゃんてさ、こぉ、妹みたいな感じなんだよね」
 苦笑すると、その場の人間に笑われた。
 俺の中では患者というよりはどこか妹みたいな感じがしていて、守ってあげたくなるんだ。
 彼女を恋愛視していない俺がそう思うのだから、秋斗や司はこんな思いの比ではないのだろう。それから蒼樹くんも――
 御園生夫妻に関しては、少しでも数値に変動があるとすぐに姉さんに連絡を入れてくる始末らしい。
 本人にせっつきすぎて装置自体がストレスにならないよう、彼女へではなく自分のところへ連絡するように姉さんはあらかじめ御園生夫妻に伝えていた。そんなところが姉さんらしいと思う。
 あの装置をつけるように申し渡したのも姉さんならば、その後のフォローもしっかりとしているんだ。姉さんのそういうところ、尊敬する。
 俺も、アフターケアまでしっかりできる医師になれるようにがんばらないと……。
 その後、治療の必要はないのか尋ねると、
「今は様子見ね」
 という返答のみだった。
 変にカウンセリングを受けさせたり、解離性障害のことを本人に悟られてしまうと、余計に症状がひどくなるケースもある。だから、悟られないように見守る……。できる限り、ストレスに晒されないように。けれど、適度なストレスは適度な運動と同じくらい必要なもので……。
 精神的なストレスはともかく、身体的なものはどうにかしてあげたい。俺にはそちらからのアプローチしかしてあげられないのかな。
 医者になったといってもパーフェクトではない。やれることとやれないことがある。そのうえ、解明されていないことが多すぎる。
 病気の子どもを抱えた親なら誰もが思うのだろう。「どうしてうちの子が……」と。
 医者は、患者にいちいち感情移入なんてしていられない。毎回毎回、「なんでこの人が……」などと思っていたら精神崩壊してしまう。
 でも、どうしてかな……。どうして翠葉ちゃんなんだろう……。
 そう、思わずにはいられなかった。



Update:2010/02/07  改稿:2017/06/27



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