理由は明快。こっちに帰ってくるほうが翠の情報を入手しやすいから。
「明日、午前中だけ翠葉が出てくるわ」
「ふーん……」
「海斗にも言ってあるけど、あんたもフォロー頼むわよ?」
「……俺、学年違うけど?」
「まぁね……。それに、翠葉のクラスなら何も言わなくてもしっかりフォローしてくれるんでしょうけど」
言いながら、意味深な視線を俺によこす。
「何……」
「別に? あんたが手助けしたくてしょうがないんじゃないかと思って」
姉さんは面白そうに口にする。それがわかった途端に姉さんの相手をするのが面倒になり、
「そろそろ寝たほうがいいんじゃないの?」
時計に視線を向けると、
「あら本当。美肌のゴールデンタイムが刻々と減っていくわ」
姉さんはソファから離脱して寝室へ向かった。
「明日、翠が学校へ来る――」
海斗たちが問題なくフォローするであろうことはわかっていた。けど、翠に会いたいという自我には勝てず、結果こうして翠が廊下に出てくるのを待っている。
海斗と簾条あたりが付き添っているかと思いきや、海斗ひとりだった。
ドアを閉める瞬間に簾条と目が合った。悠然と笑みを浮かべる様がむかつく。
たぶん、俺がここで待っているのを予想していたのだろう。
内心、舌打ちをしたい気持ちで翠の腕を取る。その腕が、ずいぶんと細くて驚いた。一瞬、腕と手首を間違えたかと思うほど。
「ふたりとも、ごめんなさい。本当は自習したい時間なのに……」
翠が申し訳なさそうに眉をひそめる。
「俺は問題ない」
海斗も似たり寄ったりの返事をすると、翠はほんの少し笑みを見せた。
「それより、翠……食べられているのか?」
「……かろうじて、かな」
「……そう」
嘘を隠すのが下手過ぎる。あまりにもバレバレな嘘で、その先を訊く気にはならなかった。
何より、この腕の細さが物語っている。
ストールをしているから、見た目にはあまりわからないとはいえ、掴んでしまえば目くらましはきかない。
さらには、翠はこの暑い中、長い髪を下ろしたままでいる。
気温のことは関係なく、ただ顔を晒したくないだけのような気がした。
髪が隠すその頬は、こけているのではないだろうか。
そうは思いつつも、確認するほどにじっとは見ることができなかった。
翠を保健室に送り届けると、行きの倍以上の速さで俺たちは歩く。それが俺たちの普段の速度。翠の歩みは、一般的なそれとはずいぶんと異なった。
「翠葉、かなり痩せたな……」
「あぁ……」
「今日の授業に出たら、今学期はもう登校してこないって桃華が言ってた」
「そう」
「湊ちゃんから何か聞いてる?」
「いや」
そんな会話をしただけで二階に着いてしまう。
「次、佐野が迎えに行く予定」
「……わかった」
階段を上がりながら考える。
翠は今ごろ頃点滴を打たれていることだろう。けれど、五〇〇ミリリットルを落とすのには時間が足りない。時間から考えれば二〇〇ミリリットルかと思う。でも、あの状態の翠には五〇〇は必要。だとしたら……姉さんのことだ、点滴をさせたままクラスへ戻すだろう。
「司ー! 次の授業自習だって!」
教室で嵐に情報をもらう。
自習、か……。
「……抜け出すか」
「なんか言った?」
尋ねられて、「何も」と返す。
俺は自習のプリントを終わらせると、終業チャイムが鳴る十二分前に席を立った。
「は? 司どこ行くん?」
ケンに尋ねられ、
「野暮用」
「あぁ、トイレか」
とくに訂正はしなかった。
廊下に出ると、授業中ということもあり人の気配はなかった。
自分の歩く音だけが廊下に響く。すると、巡回している警備員が渡り廊下からやってきた。相手は軽く会釈をしたが、俺は目を合わせることなく無視を決め込む。
礼をされる関係ではない。俺は藤宮の人間ではあるが、警備員の上司でもなければなんの関係も持たない。
なんで一学生に礼なんてするんだか……。
俺を藤宮の人間と意識してこその行動だとは思うが、バカらしくて何を言う気にもならない。
きっとあの警備員はまだ配属先が決まっていない新人だろう。
ここ藤宮学園は会長本宅の膝元といえる場所なだけに、ジョブランクの低い人間が配属される場所ではない。が、その一方、現場適正の最終判断をする場になっていることも事実。
この場所で秋兄が仕事をしているのは、最終判断を下すという意味合いもあるらしいけど、全部後付けの理由に思えた。
自分が学校でのんびり仕事をしたいがために、そんな仕事を請け負った。きっと、そんなところ。
軽くノックをしてから保健室に入ると、
「あら、気が利くじゃない」
「点滴したまま戻すつもりでしょ」
「大当たり」
「翠、嫌がったんじゃないの?」
「ま、いい顔はしなかった。でも、拒否もしなかったわ。自分の状態は自分が一番よくわかってるんでしょ」
姉さんは何事もなかったようにノートパソコンに視線を落とす。
カーテンの隙間から中に入ると、青白い頬を露にした翠が寝ていた。
血色なんてものは欠片もない。小さな寝息だけが、翠が生きていることを教えてくれる。
時計を目にすれば終業チャイムの十分前。どう起こそうか躊躇った。
身体に触れたら痛みが走るかもしれない。しかし、声をかけてびっくりさせるのも忍びない。
最終的に思いついたのは頬をつつくことくらいだった。
指先でつついた頬は、少しのぬくもりも感じず冷たいものだった。思わず、自分の手の体温を分けたくなるほどに。
翠は、「ん……」と一度身じろぎ目を開ける。
「……司先輩?」
「そう。あと十分で終業チャイムが鳴る。その前に教室まで移動」
点滴スタンドをカーテンの外に出したものの、翠はまだ目を白黒とさせている。
「今、授業中ですか?」
「そう。……うちのクラス自習だから」
「なかなか気が利く弟でしょ?」
姉さんが会話に加わると、翠はようやく身体を起こした。
かまいたがる姉さんを無視して保健室を出ると、今度は足音ではなく、点滴スタンドを転がす音が不規則に響いた。不規則な原因は、翠が左足をかばうように歩いているから。
痛みは足にも出ているのか……?
浮かび上がった疑問を明確にしたい気はした。でも、尋ねることはできなかった。
翠が、あまりにも必死に歩いていたから。
階段に差し掛かると、
「先輩、ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことはしてない」
「でも、ありがとうございます……」
「何度も言わなくていい」
「でも、ありがとうございます……」
「……何度言ったら気が済むの?」
「……何度言っても足りない気がするから、何度も言いたいんです」
そうして何度言われたところで返せる言葉がレパートリーに富むことはない。
俺は足を止め、ため息をひとつつく。
「俺はそのたびに返事をしなくちゃいけないんだけど」
別にかまわないけど、そんな様は傍から見たらバカっぽいと思う。
「先輩、ひとつ謝罪」
「何」
自分、謝られるようなことをされた覚えはないけど……。
「先輩は格好いいけど意地悪、じゃなくて、格好良くてすごく優しい人、です」
それはあまりにも不意打ちで、俺は目を見開き言葉を発することができずにいた。
「……先輩?」
若干顔が熱かった。それを隠すために下を向いて早くも後悔。
こんな行動とったら、どんな言い訳をすればいいんだか……。
ふと目に入ったのは今上がってきたばかりの階段。俺は、その階段を静かに振り返った。
「それはつまり……氷の女王撤回ってことでいいのか?」
俺は俺なりに階段を上がれているのだろうか。
「……そうですね。でも、あれは氷の女王スマイルだと思いますよ?」
そんな会話をしていると終業チャイムが鳴り、教室の前のドアから佐野が出てきた。
佐野は不思議そうな視線を俺に向けていたけれど、何を問うことも許さず点滴スタンドを押し付ける。そして、翠が教室へ足を踏み入れたのを確認してから教室のドアを閉めた。
三階へ続く階段を上る前に、今上がってきたばかりの階段に目をやる。
俺は翠の中でどのあたりにいるのだろう……。
翠が歩く速度のようにゆっくりでかまわない。少しずつでいいから、翠に寄り添えたらそれでいい。
教室に戻ると、
「長いトイレだったな」
ケンに声をかけられた。
「お腹壊してるの?」
嵐は心配そうに俺を振り返る。
そこで、「保健室に行ってきた」とだけ答える俺は捻くれているのだろうか。
Update:2010/03/30 改稿:2017/06/27
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