何も考えずに走りだし、気がつけばいつものランニングコース――運動公園に来ていた。
ゴールデンウィークに翠葉と桃華とインハイ予選を見にきて弁当を食べた場所――藤棚の下にあるベンチ。
あのときは芝生に座ったんだったな……。
そんなことを思い出していた。
走ったこともあり、汗がとめどなく流れる。
ベンチから少し離れた場所に水飲み場があり、頭からざーっと水をかぶった。
しばらくそうしているうちにだいぶ冷静になれた気がする。
「俺、何してるんだろ……」
感情的になったところで何も変わりはしないのに。
そんなこと、俺も翠葉もわかってる。つまり――翠葉もぎりぎりのところまで来ているけど、俺自身も限界ってことだ。
ポケットから携帯を取り出し父さんにかける。
五コールしても出なければ切る。それが約束。
「……出れない、か」
滴る水を腕で拭い、ベンチに座り込む。すると、携帯が震え始めた。
「父さんっ!?」
『悪い、今なら大丈夫だ』
きっと人のいないところまで移動してくれたのだろう。
「俺、限界――母さんを連れて現場に戻ってくれなんて言ったけど、本当に、もう無理……。あんな翠葉は見てられない」
『……いや、蒼樹はよくがんばってくれてる。父さんたちは蒼樹を頼りすぎた。悪い……』
「なんかさ、例年と違うんだ……。症状も翠葉の対応の仕方も……」
『あぁ、会話を聞いていて父さんも感じてはいた』
父さんたちが現場に戻った翌日から、楓先輩に渡されて持ち続けているものがあった。それは、秋斗先輩が何年も前に開発したというペンシル式のマイクロレコーダー。
ペンに内臓されているマイクロメモリに翠葉との会話をすべて録音しては父さんに送っていた。だから、ついさっきのやり取りも何もかも、父さんには筒抜けになる。
携帯は病院に入ると電源を落とさなくてはいけない。けれど、このレコーダーなら問題はない。そのため、病院でのやり取りもすべてが記録されていた。
加えて、病院へ運び込まれたときの一切は楓先輩や湊さんから逐一連絡を入れてもらっている。
「……母さんは大丈夫?」
『実は、二日前からそっちに戻ってるんだ。今はゲストルームにいる』
「……そう。じゃ、俺迎えに行くわ」
『あぁ、そうしてやってくれ。父さんも今日中にはそっちに戻る』
「お願い……」
電話を切って一息つく。
母さんもまいっているだろう。
「マンションにひとりかな……」
大丈夫だろうか……。
母さんの精神状態も気になり、しまったばかりの携帯を再度手にする。
「……母さん」
『蒼樹……』
「今から迎えに行く。……あぁ、でもその前にシャワー浴びたいから一時間くらい待たせるかも」
『私、今――』
「父さんから聞いた。迎えに行くから待ってて」
『ありがとう……』
母さんも声が掠れていた。泣いていたのか体調を崩しているのか――両方かもしれない。
家へ帰る前に唯にメールを送り、玄関にタオルを用意してほしいと頼んだ。
ドアチャイムが鳴らないようにドアを開けると、玄関には唯がいた。
「濡れ鼠……」
「はは……ちょっと水かぶってきた。翠葉は?」
「眠りは浅そうだけど、やっと寝た」
「そっか……。俺、シャワー浴びたら母さん迎えに行ってくる」
「え、碧さんって……」
「二日前からゲストルームにいるらしい」
「……そっか、そうだよな。これだけ連日病院に運ばれてたら、仕事なんてしてられないよな……」
「だから、その間翠葉頼めるか?」
「もちろん。今、秋斗さんがこっちに向かってるって」
え……。
俺は唯にジェスチャーを送り、外へ出た。
「湊さんが秋斗さんに連絡入れたみたい」
湊さんには今日までだと言われている。今日中に説得できなければ眠らせてでも入院させる、と……。
本当は今朝、家に帰ってこなくても良かったんだ。病院で、このまま入院させてくれるようにお願いした。けど、それはやめようと言ったのは湊さんだった。
意外だった。この人なら隙あらば、と入院させると思っていたから。
だけど、湊さんは「最後まで説得を試みよう」と言ったのだ。
「栄養状態が悪いことから精神のバランスが崩れているのはわかっている。身体がもう限界なのもわかっている。それでも、翠葉の意思で病院に入れたい」
そう言われたのだ。
こんな状態で何を言ってるんだ、とも思った。けれど、見え隠れする翠葉の心――解離性障害なのかどうなのかの見極め。そういうのもあるのかもしれないと思えば、それ以上何かを言うことは躊躇われた。
もちろん夜中だったけれど父さんに電話で相談した。父さんは長い沈黙の末、湊先生に任せよう、と一言吐き出した。
「娘の生死がかかっているのにっ!?」と食ってかかれば、
『こんな状態でも、説得しようとしてくれていることに頭が下がる』
父さんは苦しそうに口にした。
『翠葉はなかなか本音を言ってくれないからな……。心の奥底にあるものを引き出そうとしてくれているんだろう』
そんなふうに言われると、俺は何も言えなくなってしまった。
決して油断しているわけでも躊躇しているわけでも、ましてや見放しているわけでもない。ただ、今後の家族関係や何もかもを考えて、翠葉の意思で病院に入れたいと言ってくれている。それがわかってしまったのだ。
あのとき、目の前にいたのは藤宮湊という医師なのか、それとも先輩の従姉というひとりの友人なのかがわからなくなった。
「秋斗さん、来ても大丈夫なんかね?」
ヤンキー座りの唯がポツリと口にした。
「さぁ……もう、凶と出ても吉と出ても、大差ないんじゃないかな」
「それもそうか……」
生ぬるい風が頬を撫でていく。
「俺、シャワー浴びてくるわ」
「ラジャ」
なんとなく、人の爪を見るのが癖になっていた。
「唯……爪が白い。おまえもスポーツ飲料飲んでおけよ」
Update:2010/04/04 改稿:2017/06/27
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