光のもとで

第08章 自己との対峙 34話

 どうして司先輩がっ!?
 先輩の声には何度も救われてきたけれど――今は困る。すごく、困る。
 戸惑う自分を叱咤して、「入ってこないでくださいね」と一言。
 発した声が震えていないことにほっとした。
「……入るから」
 携帯に録音された声より若干低い声がそう応えると、静かにドアが開いた。
 どうして入って来ちゃうのかな……。
 私は目も開けずに横になっていた。もう、起き上がる気力も目を開ける気力もないのだ。
 それでも、侵入者にはそこで留まるよう声をかけなくてはいけない。
「聞こえませんでしたか?」
 返事はない。でも、動く気配を感じた。
「それ以上近寄らないでください」
 きっと今はドアの前。
 静かにドアを閉める音がするものの、人の気配はなくならない。
「どうして出ていかないの?」
 仕方なく顔だけをドアの方へ向ける。と、そこには制服に身を包んだ先輩が立っていた。
「翠、何してんだよ……」
 いつもの低く静かな声ではなく、怒気をはらんだ声。
 臨戦態勢――先輩も説得要員か……。
「何って……具合が悪いから横になっているだけ。ただ、それだけです」
 だいぶ息が整ってきているとはいえ、やっぱり普通に話すのはつらい。
「ここでできる処置なんて限られてる。病院へ行け」
「……司先輩も説得要員?」
 もう、いつものように穏やかになんて笑えなかった。
 私、もう限界なのにどうして――どうして畳み掛けるように人を入れるのっ!?
「病院へ行ったほうが早く楽になれる」
「……それで?」
 ふざけたこと言わないで……。何も知らないくせに。
「勝手なこと言わないでっ。あそこに入ったらいつ出てこられるっ!? 何日!? 何週間っ!? 何ヶ月っ!? 一年っ!? ねぇっっっ」
 もう無理……何もかもが抑えきれない。悔しさと不安と恐怖――それらは、心の中で蓋を閉めていた箱から溢れ出す。溢れ出すものすべてが憎悪のように醜くて鋭くて、一度流れ出したものはマグマのように次から次へと流れ続ける。
 先輩は口を真一文字に結び、じっと私を見ていた。
「答えられないくせに……。なのにそんな無責任なこと言わないでっっっ」
 呟くでも話すでもなく、私は叫んでいた。
 力を振り絞って上体を起こしたものの、先輩は微動だにしない。
 こんなことで言葉に詰まるくらいなら、来ないでよ……。
 先輩を睨みつけていると、先輩の口端が少し上がった。
「あぁ……俺は医者でもなんでもないからな。いつ退院できるかなんて知るわけがない」
 冷笑を湛えたあと、目つきがいっそう鋭くなる。――来る。
 この人はこんなことくらいで引き下がる人じゃない。でも、負けたくはない。
「そんな人にとやかく指図される覚えはありません」
「……どうかな。相手が俺でも医者でも変わらないんだろ? 姉さんは免許を持った歴とした医者だけど、姉さんの言う言葉にも耳を貸さないって聞いた。……つまり、単なるわがままだろ」
「っ……」
 わがまま――その言葉に心臓が鷲掴みにされ、咄嗟に胸を押さえてしまう。次の瞬間に先輩が場所を移動した。
「お茶もらうから」
 先輩は簡易キッチンへ移動し、小さなケトルに手を伸ばしている。
「なっ……」
 先輩は肩越しに振り返り、
「何か文句でも? 翠がもてなしてくれるなら待つけど」
「無理なことばかり言わないでっ。早く出てって」
 私は手に触れたハサミと携帯を投げやった。けれども、それらはベッドから一メートルも離れない場所に落下する。さらには、投げたときの衝撃がひどく身体に堪えた。
「物に当たるな、部屋が傷つく。それから出ていけって要求は呑めない。どうやら俺が最後の砦らしいから」
 先輩は悠然と、挑発するように笑った。寸分の隙もない、絶対零度の笑み――
 最後の砦って何よ……。
 そう思った瞬間、ピーっ、と音が鳴りケトルが沸騰したことを知らせる。音はすぐに止まったけれど、あの音は凶器だ。頭が割れそうに痛む。
 手で額を押さえると、
「翠も飲む?」
 お茶に誘う要領で普通に尋ねられた。
「……いりませんっ」
「あぁ、そう」
 自分の声すら身体に響くのだからひどい。対して、先輩は動じずにお茶を淹れ始めた。
 先輩はいったい何をしに来たのか。説得要員のはずなのに、先輩の行動は説得のみに留まらない。
 こっちは身体を起こしているのも息をするのもつらいというのに……。
 先輩の背中をじっと見ていると、ふわり、とハーブの香りが漂ってきた。
 香りそのものに身をかまえる。しかし、不思議と吐き気は訪れなかった。
 そんなことに意識を奪われていると、先輩はお茶を注いだカップを持ってソファへと移動していた。
「医者は全能じゃない。どのくらい入院期間を要すかなんて入院する前からはわかるわけないだろ。それに、いつ退院できるかは基本患者のがんばりしだいだ。……まさかとは思うけど、翠はこのままがいいのか? だから病院へ行かない?」
 腹が立って言葉が出てこなかった。
 こんな状況、誰が望んでるっていうのよっ。
「俺は何もわからないけど、ただひとつだけわかっていることがある」
「何よ……」
「ここにいるよりは断然早くに回復できる場所。それが病院だ」
 もう――みんなして病院病院ってうるさいっ。
 あの部屋にひとりでいることがどれほどつらいのか、絶対に知らないんだ。治療の時間が迫ってくる恐怖や、夜の就寝時間後に訪れる不安――
「だから、嫌なのっっっ。白い部屋、四角い窓、窓から見えるだけの外。空調完備された屋内っ。全部嫌っ」
 息は上がるし、声を発するのもつらい。失神できるなら今すぐ失神してしまいたい。
「……壁紙変えてやろうか? それとも空調止める? この時期エアコンなしじゃかなり暑いと思うけど、熱中症になっていいならそうする。それから、たまになら俺が屋外に連れ出すけど?」
 この人、何を言っているの……?
「別に無理なことじゃない。それで病院へ行ってもらえるならお安い御用」
 さも、なんてことないように話す。
「先輩、本当にムカつく……」
 嫌いなものを並べたところで、足元を掬われた気分だ。
 藤宮の人ってみんなこうなのかな。優しいのか、強要するためにどんな手でも使うのか、よくわからない。
「……嫌い……嫌い、大嫌いっっっ」
「翠、理系なのは認める。でも、悪口雑言の語彙が少なすぎ。そこの国語辞書取ってやろうか?」
 先輩は壁に備え付けられている棚を指した。
「……嫌い嫌い嫌いっ。ムカつく、出てってっ。入ってこないでよっ、部屋にも、心にも――」
 ムカつくし悔しいしつらいし涙が止まらない。
「このままここにいたら学校にはもう出てこられないかもしれないな。そしたらまた休学でもするのか? それとも二度目の自主退学?」
「どうしてそういうこと言うのっ!? なんで、どうして、嫌い……」
「……今病院へ行けば二学期には間に合うと思うけど?」
「……間に合うもの――間に合わせるものっ」
 どれだけがんばって期末考査を受けて、足りない授業を受けに行ったと思っているのっ!? なのに、そんな簡単に休学とか自主退学とか言わないでよっ。
 悔しさに押されてそうは答えたけれど、この痛みは夏休み中に治まるのだろうか……。例年とは違いすぎる痛みに不安しか覚えない。
 その不安を抑えこみ、先輩をキッと睨みつけると、先輩はニヤリと笑った。
 組んでいる足が長くて、やけに様になる姿にもムカつく。
「それにはまずここから出ることだな。白亜の部屋のお姫様」
 シニカルな笑みが似合うとはいえ、白亜の部屋の姫だなんてひどすぎる。まるで、「わがまま姫」と言われてる気分だ。
 もうやだ、本当にムカつくっっっ。
「その代わりっ、さっき言ったこと守ってよねっ!?」
「……外に連れ出すって部分? それとも壁紙? 空調?」
 ……さっきのは売り言葉に買い言葉だったのだろうか。
 不安に思いながら、
「外……連れていってくれるっていうの……」
 返される言葉が怖かった。けれども、
「わかった……。その代わり、翠も守れよ?」
「……何、を?」
「二学期に間に合わせるってやつ」
 何度も同じこと言わないでよ……。私、自信なんて全然ないんだから。でも、先輩に嘲笑われるのだけは嫌……。
「絶対、間に合わせるもの――」
 先輩はまた余裕そうに笑って見せた。
「俺、口にしたことを履行しない人間が大嫌いなんだ。だから、くれぐれも有言実行でよろしく」
 先輩は組んだ足をほどき、ベッドのすぐ側までやってきた。何も訊かずに天蓋を開け、手に持っているカップを口元に近づけられる。
「……いらない」
 ……でも、これなら飲める気がした。
「いいから……一口でも飲め。まずはそこからだろ?」
 カップをじっと見つめ、吐き気を感じないことを確認する。
 やっぱり大丈夫……。
 カップに手を添えると、手に痛みが走って震えた。それを察してか、先輩はカップから手を離さずゆっくりと傾けてくれる。
 薬のせいで唾液が出づらくなっていた口の中が潤い、ハーブティーは少しずつ喉へ流れ込む。
 美味しいと思えた……。
「一気に飲もうとするな。咽るだろ」
 一度カップを取り上げられ、
「少し落ち着いたか?」
 声が優しかった。いつもの先輩の声だった。
 数を数えてくれた声と同じ――
 堰を切ったように溢れ出す涙はカサカサの肌を伝い落ちる。





「先輩……私、病院に入っても治療できないのよ……?」
「緩和ケアは受けられるだろ?」
「でも……緩和するだけよ? ベッド待ちの患者さん、たくさんいるの知ってる……。なのに、私なんか入っていいの?」
 先輩は呆れたといった顔でため息をついた。
「あのさ……今の翠はどこからどう見ても重病人。このままだと死ぬけど?」
「死ぬ」なんて言葉を喋っているのに、世間話をするかのごとく普通に話す。そんな先輩に自然と笑みが漏れる。でも、かわいくもなんともない、単なる苦笑い。
「それでもいいと思った。……痛みから解放されるなら、もう、それでもいいと思ってる」
 バカげたことだと思われるだろうか。でも、もうこの際だ……。吐き出してもいいかな? 聞いてくれるかな?
「怖いの……。麻酔の治療が怖い……。病院に入ったらすぐに高カロリー輸液の点滴もされるのでしょう? それも怖い……。でも、痛みが襲ってくるのも怖い。もうやだ……全部やだ」
「……最初からそう言えばいいものを」
 羽根布団を握りしめて泣いていると、ふわりと抱きしめられた。優しく優しく背中を撫でてくれる。
「……みんな優しすぎる、だから、だめ……。近くにいられたら、私ひどいこと言っちゃう……」
 先輩の手がピタリ、と止まった。
「翠……俺、結構ひどいこと言われた気がするんだけど……」
「だって……司先輩は入ってきたところから容赦なかったから……。そのうえ、お茶飲むとか言いだすし、言い返さないと負ける気がするし……絶対零度の笑顔向けるし……」
 ぶつぶつと言い訳を述べると、
「翠、負けず嫌いって属性もあるのか……?」
 言われて少し悩んだ。悩んでいる間に、
「別に深く考えなくていいから……。とりあえずこれ、もう少し飲めば?」
 再度カップを口元に近づけられ、今度は注意されないように少しずつん飲んだ。
「飲めそうだな」
 顔を覗き込まれ、コクリと頷く。
「じゃ、全部飲んで……。そしたらここを出よう」
 途端に手が震え出す。
「……いいよ。泣き言でも八つ当たりでも、毎日聞いてやる。怖いなら治療だって立ち会う。だから、前に進め」
 このとき思い出した。司先輩も優しい人だということを。
 ただ、いつだってどんな方向を向いている私とでも向き合ってくれる器用な人で――
「……みんなになんて言おう……」
 先輩の顔を見ると、
「間違ったことをしたときは?」
「ごめんなさい……?」
「そう、それで解決」
「……でも、まだ無理そう……。ひどいことを言うのは嫌……」
「……わかった。それまでは俺が全部引き受ける」
 ずいぶんと優しいことを言う……。
「……また、余裕がなくなったらひどいことを言うかもしれない。……それでも?」
「だから、いいって言ってるだろ? その代わり、俺も言いたいことは言わせてもらう」
 最後にはきちんと自分も言いたいことは言う、と宣言するあたりが先輩だ。こういうことを言質取るって言うのかな。
「何?」
 訊かれて首を横に振った。
「司先輩はどこまでも司先輩だなって思っただけです」
 最後の一口を飲むと、途端に眠気が襲ってきた。
 身体が重い……。
「先輩、疲れた……」
「眠ればいい。痛いことは翠が寝てる間に全部終わらせてもらうように言っておく」
 先輩、ありがとう……。少し楽になれた気がする――



Update:2010/03/25  改稿:2017/06/26



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