光のもとで

第09章 化学反応 14話

「起こしましょうか?」
 藤原さんの、声……?
「いえ、きっと疲れているんでしょうから……」
 お母さんの声……。
「俺たちは時間がないわけじゃないんで……」
 蒼兄の声……。
「そうですか?」
「あ……大丈夫。俺、起きるおまじない知ってるし」
 唯兄……? おまじないってなんだろう……。
 不思議に思っていると、耳元で唯兄の小さな声が聞こえた。
「リィ、瞼がヒクヒクしてる。そのまま目ぇ開けちゃいな」
 えっ――。
「ほら、目ぇ覚ましたよ!」
 得意げな唯兄がすぐ近くにいた。
「おはよ」
 にっこりと笑われて、反射的に「おはよ」を返す。
「唯、そのおまじない、今度知りたい」
 蒼兄が真面目な顔をして口にすると、唯兄は「企業秘密」と答えた。
 なんだか、私の周りには「企業秘密」を標準装備している人が多い気がする。
 そんなことを考えながら、ベッド脇にあるリモコンに手を伸ばす。
 身体がきちんと起き上がるまでに目を合わせたのは唯兄だけ。
「気分はどう?」
 藤原さんに訊かれ、
「大丈夫です」
「それも直しましょう」
「え……?」
「私は大丈夫かが知りたいわけじゃないの。体調や気分がどうかを知りたいの。それは良いか悪いか普通か、そういう返事が模範解答」
「……普通です。でも、少し緊張しているから脈拍は速いかもしれません」
「了解。今度からもそういうふうに答えるように」
 藤原さんはそれだけで病室を出ていった。
 ソファセットにはすでにお茶の用意がしてあった。
 そんなどうでもいいことを確認してから、私はようやく蒼兄とお母さんを視界に入れることができた。
 避けているわけじゃない。でも……こういうのも避けていることになるんだろうな。改めなくちゃ……。
「……ごめんね」
 ほかに何を口にしたらいいのかわからなかったから、一言だけ口にした。
「お母さん、蒼兄、唯兄、ごめんね……」
「それは何に?」
 間髪容れず、唯兄に尋ねられた。
 唯兄のポジションは相変わらず私の真横で、しゃがみこんでベッドマットに顎を乗せているから、見上げるような形で私の顔を見ている。でも、さっきのような笑みはどこにもなかった。
「わがままだったこと。いっぱい傷つけたこと……」
「リィ、それじゃ抽象的すぎるよ」
「……うん、そうだよね。……会いたくないとか、仕事に行ってほしいとか、部屋から出ていってとか……たくさんごめんなさい」
 泣いたらだめ――。
 自分がいけないことをして今という状況があるのだから。
 傷ついたのは私じゃない。私は自分を守るために人を傷つけたのだから、痛いのは私じゃない。
「はい、よくできました」
 気づくと唯兄が立っていて、頭にポンと手が乗る。
「ほら、あんちゃんも碧さんも。いい加減こっちに来て何か話したら?」
 蒼兄とお母さんはソファに掛けるでもなく立ったまま。ふたりは笑うでも怒るでもなく、無表情のまま立っていた。
 そんなふたりを見るのは初めてで、私は歯の根が噛み合わなくなるほどガタガタと震えだす。
「リィ、大丈夫だから」
 手を握ってくれたのは唯兄。
「側に行っても大丈夫なのか……?」
 不安そうに訊いてきたのは蒼兄だった。
 頷いたら涙が零れそうで、顔すら動かせない。でも、声が出せるような状態でもなかった。そして、合わせた視線も逸らせない。
 お母さんは一サイズ以上痩せたように見えた。今日は普段着ないワンピースを着ているけれど、そのワンピースもどこかサイズが合っていない感じで、洋服の中で身体が泳いで見える。
 コツ、と音がして、お母さんがこちらへ歩みを進めたことがわかった。
「治療、つらくない? ご飯、食べられてる?」
 それが第一声。
「大丈夫……」
「リィ、不正解」
 え……?
 唯兄を見上げた拍子に涙が零れた。
 すぐに袖で涙を拭う。すると、いつの間にか近くに来ていた蒼兄にハンカチを握らされた。
「さっき藤原さんに言われてたじゃん。大丈夫っていうのは返事じゃないって」
 あ――。
「……治療はつらくないよ。ご飯も少しずつ食べられるものを食べてる」
「正解」
 唯兄はご褒美とでもいうかのように頭を撫でてくれた。
「お母さんは……? お母さんはもう身体大丈夫?」
 すごく心配だった。でも、電話すらかけられなかった……。
「今……」
「え?」
「今、平気になった」
 お母さんは涙を零しながら笑い、
「もう、やだ……」
 と、言いながらも止まらない涙をどうにかしようとしていた。
「これ、蒼兄のハンカチだけど……」
 自分に握らされたハンカチをお母さんに渡すと、お母さんはハンカチで目を押さえた。
「あんちゃん、どうする? そのハンカチ、かなりレアアイテムになったんじゃない? なんたってリィと碧さんの涙つきだよ?」
 唯兄は茶化すように話しては、「洗えないよね? ビンテージだよね」と口にする。
「唯、それは不衛生……」
「唯兄、それは不衛生……」
「唯くん、それは不衛生じゃないかしら……」
 微妙に重なった声たち。
 それを見て唯兄はクスクスと笑った。
「ほら、やっぱり普通に親子で普通に兄妹じゃん」
 カラッとした声を聞いて、ここに唯兄がいてくれて良かった、と思う。
「……唯兄、唯兄も本当のお兄さんになってくれるのでしょう?」
 訊くと、唯兄は一瞬目を見開いてすぐに細めた。
「リィが許してくれたら家族になる」
「どうして? 私、反対なんてしないよ」
「とりあえず、泣き止んでから言ってくれるかなぁ?」
 唯兄は病室に置いてあるティッシュの箱を私に向けた。
 蒼兄と唯兄はソファの方へ行き、お母さんはスツールに掛けた。お母さんはまだハンカチで目を押させている。
 そんなふうにみんなを観察していたけれど、私も人のことを言える状態ではない。ティッシュで何度涙を吸い取っても止まらないのだ。
「困ったわね……涙腺って壊れるのかしら?」
「私も最近同じことを考えていたんだよ」
 そう答えると、お母さんがふっ、と笑った。つられて自分の口角も上がる。
「やっと翠葉の笑顔が見られた」
「お母さんも笑ってる」
 ふたりして笑うと、いつしか涙は止まっていた。
「あのね、今の治療、明日までなの……」
「……神崎先生からうかがったわ」
 お母さんの表情が気持ち暗くなる。
「主治医になってくれる先生が帰国するまでの我慢だって」
 六日って言ってたかな……。
 正直、痛みは怖い。でも、六日でしょ……。入院するまでの地獄を思えばまだましだ。
 そう思うしか道がない。
「その期間、来てもいいのかしら……」
 お母さんが呟くように口にした。
「うん。でも――」
 最後まで言う前に、「わかってるよ」と蒼兄が口にする。
 視線を蒼兄へ向けると、
「父さんから聞いてる。どんなこと言われても一時間で忘れればいいんだろ?」
「ったくさぁ……人間そんな器用にできてたら苦労しないよ」
 唯兄だけが咎めるような口ぶり。
「でも、それでも平気よ……。そのときはそれが本音だったとしても、時間が経てばそれは本音ではなくなるのでしょう?」
「お母さん……」
「側に、いさせてね……? お母さん、そのくらいの仕事はしてきたんだから」
 どこか不安そうに笑う。
「……ありがとう」
 ちょっと不安定な空気のところへ、トン、と音がした。
 それは唯兄がカップをテーブルに置いた音。
「リィも飲みなさい」
 カップにはハーブティーが入っていた。
 家族でお茶を飲むのはどのくらい久しぶりだろう……。昨日、お父さんとも一緒に飲んだけど……。
 お父さんも一緒に、みんなでお茶を飲めたら良かった。それも全部、私がいけないんだ……。
 手の内にあるカップに視線を落とすと、
「悪いー、遅くなったー」
 えっ……!?
 病室の入り口に視線を向けると、そこにはケーキボックスを持ったお父さんが立っていた。
「なんだ? 翠葉、口をぽかんと開けて」
「……お父さん、現場に戻るって――」
 昨日、確かにそう言っていたのに……。
「無理やりな、一日延ばしてもらった」
 お父さんはにこりと笑ってベッド脇にやってきた。
「これなら食べられるんじゃないかと思って、静に頼んで作ってもらったんだ」
 テーブルに置かれたのはウィステリアホテルのケーキボックス。
「お父さん……ケーキは――」
 テーブルから身を引くと、
「ケーキじゃないんだ。桃のシャーベット」
 え……?
「藤原さんが、毎日いろんな果物の香りを病室に持ち込んでいたそうだよ。それで、桃とメロンは大丈夫みたいだって教えてくれてたんだ。柑橘系はすぐに顔が真っ青になるって言ってたかな?」
 嘘……。
「無理なら食べなくていいのよ?」
 お母さんがケーキボックスを開くと、シンプルなグラスカップにシャーベットが入っていた。
 蓋を開けるその瞬間までドキドキしていたけれど、漂ってくる自然な甘い香りに吐き気は感じない。
 スプーンで掬い口に入れると、シャーベットは舌の上でシュワ、と溶ける。
「美味しいか?」
 お父さんに訊かれ、すぐに「美味しい」と答えた。
「これ、須藤さんが作ったもの……?」
「あれ? 知ってるのか?」
「うん、お会いしたことがあるの。いつも食べやすいものを用意してくれる人」
 静さんにも須藤さんにも、みんなに感謝しなくちゃいけない。「ありがとう」を伝えたい。
 どうしたら伝わるかな……。でも、まだ私には謝らなくてはいけない人がいる。
 秋斗さんに、会わなくちゃ――。



Update:2010/04/27  改稿:2015/07/19



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