藤原さんの、声……?
「いえ、きっと疲れているんでしょうから……」
お母さんの声……。
「俺たちは時間がないわけじゃないんで……」
蒼兄の声……。
「そうですか?」
「あ……大丈夫。俺、起きるおまじない知ってるし」
唯兄……? おまじないってなんだろう……。
不思議に思っていると、耳元で唯兄の小さな声が聞こえた。
「リィ、瞼がヒクヒクしてる。そのまま目ぇ開けちゃいな」
えっ――。
「ほら、目ぇ覚ましたよ!」
得意げな唯兄がすぐ近くにいた。
「おはよ」
にっこりと笑われて、反射的に「おはよ」を返す。
「唯、そのおまじない、今度知りたい」
蒼兄が真面目な顔をして口にすると、唯兄は「企業秘密」と答えた。
なんだか、私の周りには「企業秘密」を標準装備している人が多い気がする。
そんなことを考えながら、ベッド脇にあるリモコンに手を伸ばす。
身体がきちんと起き上がるまでに目を合わせたのは唯兄だけ。
「気分はどう?」
藤原さんに訊かれ、
「大丈夫です」
「それも直しましょう」
「え……?」
「私は大丈夫かが知りたいわけじゃないの。体調や気分がどうかを知りたいの。それは良いか悪いか普通か、そういう返事が模範解答」
「……普通です。でも、少し緊張しているから脈拍は速いかもしれません」
「了解。今度からもそういうふうに答えるように」
藤原さんはそれだけで病室を出ていった。
ソファセットにはすでにお茶の用意がしてあった。
そんなどうでもいいことを確認してから、私はようやく蒼兄とお母さんを視界に入れることができた。
避けているわけじゃない。でも……こういうのも避けていることになるんだろうな。改めなくちゃ……。
「……ごめんね」
ほかに何を口にしたらいいのかわからなかったから、一言だけ口にした。
「お母さん、蒼兄、唯兄、ごめんね……」
「それは何に?」
間髪容れず、唯兄に尋ねられた。
唯兄のポジションは相変わらず私の真横で、しゃがみこんでベッドマットに顎を乗せているから、見上げるような形で私の顔を見ている。でも、さっきのような笑みはどこにもなかった。
「わがままだったこと。いっぱい傷つけたこと……」
「リィ、それじゃ抽象的すぎるよ」
「……うん、そうだよね。……会いたくないとか、仕事に行ってほしいとか、部屋から出ていってとか……たくさんごめんなさい」
泣いたらだめ――。
自分がいけないことをして今という状況があるのだから。
傷ついたのは私じゃない。私は自分を守るために人を傷つけたのだから、痛いのは私じゃない。
「はい、よくできました」
気づくと唯兄が立っていて、頭にポンと手が乗る。
「ほら、あんちゃんも碧さんも。いい加減こっちに来て何か話したら?」
蒼兄とお母さんはソファに掛けるでもなく立ったまま。ふたりは笑うでも怒るでもなく、無表情のまま立っていた。
そんなふたりを見るのは初めてで、私は歯の根が噛み合わなくなるほどガタガタと震えだす。
「リィ、大丈夫だから」
手を握ってくれたのは唯兄。
「側に行っても大丈夫なのか……?」
不安そうに訊いてきたのは蒼兄だった。
頷いたら涙が零れそうで、顔すら動かせない。でも、声が出せるような状態でもなかった。そして、合わせた視線も逸らせない。
お母さんは一サイズ以上痩せたように見えた。今日は普段着ないワンピースを着ているけれど、そのワンピースもどこかサイズが合っていない感じで、洋服の中で身体が泳いで見える。
コツ、と音がして、お母さんがこちらへ歩みを進めたことがわかった。
「治療、つらくない? ご飯、食べられてる?」
それが第一声。
「大丈夫……」
「リィ、不正解」
え……?
唯兄を見上げた拍子に涙が零れた。
すぐに袖で涙を拭う。すると、いつの間にか近くに来ていた蒼兄にハンカチを握らされた。
「さっき藤原さんに言われてたじゃん。大丈夫っていうのは返事じゃないって」
あ――。
「……治療はつらくないよ。ご飯も少しずつ食べられるものを食べてる」
「正解」
唯兄はご褒美とでもいうかのように頭を撫でてくれた。
「お母さんは……? お母さんはもう身体大丈夫?」
すごく心配だった。でも、電話すらかけられなかった……。
「今……」
「え?」
「今、平気になった」
お母さんは涙を零しながら笑い、
「もう、やだ……」
と、言いながらも止まらない涙をどうにかしようとしていた。
「これ、蒼兄のハンカチだけど……」
自分に握らされたハンカチをお母さんに渡すと、お母さんはハンカチで目を押さえた。
「あんちゃん、どうする? そのハンカチ、かなりレアアイテムになったんじゃない? なんたってリィと碧さんの涙つきだよ?」
唯兄は茶化すように話しては、「洗えないよね? ビンテージだよね」と口にする。
「唯、それは不衛生……」
「唯兄、それは不衛生……」
「唯くん、それは不衛生じゃないかしら……」
微妙に重なった声たち。
それを見て唯兄はクスクスと笑った。
「ほら、やっぱり普通に親子で普通に兄妹じゃん」
カラッとした声を聞いて、ここに唯兄がいてくれて良かった、と思う。
「……唯兄、唯兄も本当のお兄さんになってくれるのでしょう?」
訊くと、唯兄は一瞬目を見開いてすぐに細めた。
「リィが許してくれたら家族になる」
「どうして? 私、反対なんてしないよ」
「とりあえず、泣き止んでから言ってくれるかなぁ?」
唯兄は病室に置いてあるティッシュの箱を私に向けた。
蒼兄と唯兄はソファの方へ行き、お母さんはスツールに掛けた。お母さんはまだハンカチで目を押させている。
そんなふうにみんなを観察していたけれど、私も人のことを言える状態ではない。ティッシュで何度涙を吸い取っても止まらないのだ。
「困ったわね……涙腺って壊れるのかしら?」
「私も最近同じことを考えていたんだよ」
そう答えると、お母さんがふっ、と笑った。つられて自分の口角も上がる。
「やっと翠葉の笑顔が見られた」
「お母さんも笑ってる」
ふたりして笑うと、いつしか涙は止まっていた。
「あのね、今の治療、明日までなの……」
「……神崎先生からうかがったわ」
お母さんの表情が気持ち暗くなる。
「主治医になってくれる先生が帰国するまでの我慢だって」
六日って言ってたかな……。
正直、痛みは怖い。でも、六日でしょ……。入院するまでの地獄を思えばまだましだ。
そう思うしか道がない。
「その期間、来てもいいのかしら……」
お母さんが呟くように口にした。
「うん。でも――」
最後まで言う前に、「わかってるよ」と蒼兄が口にする。
視線を蒼兄へ向けると、
「父さんから聞いてる。どんなこと言われても一時間で忘れればいいんだろ?」
「ったくさぁ……人間そんな器用にできてたら苦労しないよ」
唯兄だけが咎めるような口ぶり。
「でも、それでも平気よ……。そのときはそれが本音だったとしても、時間が経てばそれは本音ではなくなるのでしょう?」
「お母さん……」
「側に、いさせてね……? お母さん、そのくらいの仕事はしてきたんだから」
どこか不安そうに笑う。
「……ありがとう」
ちょっと不安定な空気のところへ、トン、と音がした。
それは唯兄がカップをテーブルに置いた音。
「リィも飲みなさい」
カップにはハーブティーが入っていた。
家族でお茶を飲むのはどのくらい久しぶりだろう……。昨日、お父さんとも一緒に飲んだけど……。
お父さんも一緒に、みんなでお茶を飲めたら良かった。それも全部、私がいけないんだ……。
手の内にあるカップに視線を落とすと、
「悪いー、遅くなったー」
えっ……!?
病室の入り口に視線を向けると、そこにはケーキボックスを持ったお父さんが立っていた。
「なんだ? 翠葉、口をぽかんと開けて」
「……お父さん、現場に戻るって――」
昨日、確かにそう言っていたのに……。
「無理やりな、一日延ばしてもらった」
お父さんはにこりと笑ってベッド脇にやってきた。
「これなら食べられるんじゃないかと思って、静に頼んで作ってもらったんだ」
テーブルに置かれたのはウィステリアホテルのケーキボックス。
「お父さん……ケーキは――」
テーブルから身を引くと、
「ケーキじゃないんだ。桃のシャーベット」
え……?
「藤原さんが、毎日いろんな果物の香りを病室に持ち込んでいたそうだよ。それで、桃とメロンは大丈夫みたいだって教えてくれてたんだ。柑橘系はすぐに顔が真っ青になるって言ってたかな?」
嘘……。
「無理なら食べなくていいのよ?」
お母さんがケーキボックスを開くと、シンプルなグラスカップにシャーベットが入っていた。
蓋を開けるその瞬間までドキドキしていたけれど、漂ってくる自然な甘い香りに吐き気は感じない。
スプーンで掬い口に入れると、シャーベットは舌の上でシュワ、と溶ける。
「美味しいか?」
お父さんに訊かれ、すぐに「美味しい」と答えた。
「これ、須藤さんが作ったもの……?」
「あれ? 知ってるのか?」
「うん、お会いしたことがあるの。いつも食べやすいものを用意してくれる人」
静さんにも須藤さんにも、みんなに感謝しなくちゃいけない。「ありがとう」を伝えたい。
どうしたら伝わるかな……。でも、まだ私には謝らなくてはいけない人がいる。
秋斗さんに、会わなくちゃ――。
Update:2010/04/27 改稿:2015/07/19
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