起きた今でさえ、まだ少し眠いくらいで頭が朦朧としている。けれども、昨夜のことを思い出すのには十分な環境にいた。
見慣れない室内に放心していると携帯が鳴りだす。
着信音が秋斗さんではないことにほっとして、ディスプレイに表示された名前を見てさらに安堵した。
電話はツカサからだった。
「もしもし……」
『無事?』
「ん……でも、あまり大丈夫ではないかも」
『病室が十階に移ったことは藤原さんから聞いた』
「……そうなんだ。ごめん、まだ頭がぼーっとしてて……でも、ツカサの声を聞くと落ち着く……何か、何か話して?」
『何かって……』
「なんでもいいの。……ツカサ、今日のお天気は? 降水確率は?」
『今日は晴れ。降水確率十パーセント。最低気温が二十五度で最高気温が三十四度』
「明日は……?」
『明日は晴れのち曇り。そのほかは知らない。……今から行こうか?』
「ツカサ……部活」
『部活は九時から。まだ朝の六時半前』
「……会いたい」
『わかった。七時までには行くから』
「ごめん……」
『問題ない。じゃ……』
通話が切れると藤原さんが入ってきた。
「電話、司くん?」
「はい……。連絡してくれてありがとうございました。……部活へ行く前に来てくれるみたいで……どうしてだろう。すごくほっとしました……」
ホットタオルを渡され、それで顔を拭く。
「ご実家にも十階へ移ったことは連絡したわ。午前は上のお兄さんがいらっしゃるみたい。午後過ぎにはお母様がいらっしゃるわ。誰もいないときは私がこの部屋にいる。ひとりになる時間はないけれど、秋斗くんとふたりになる時間もないから安心しなさい。それに、神崎医師にも事情は伝えてあるから」
まるで秋斗さんが危険人物扱い……。
本当はこんなふうになる予定じゃなかったのに。
私はまた、どこかで何かを間違えてしまったのだろうか……。
以前、私に向けてくれていた優しい笑顔の秋斗さんと昨日の秋斗さん。いったいどっちが本当の秋斗さんなのかな……。
昨日の「怖い」は、少し前に感じ始めた「怖い」とは種類が別だった。人として「怖い」と思ってしまった。
「御園生さん、朝食」
気づくと、トレイがテーブルの上に置かれていた。
「上の空ね」
藤原さんに笑われてしまう。
「すみません……」
「でも、これから精神安定剤が来るんでしょう?」
「はい……――え?」
何を訊かれたのか、と藤原さんの顔をまじまじと見る。すると、藤原さんはおかしそうにクスクスと口に手を当てて笑いだした。
「やっぱりそうだったのね。携帯に録音されてるの、司くんの声だったのね」
「あ――」
私、墓穴を掘ったのかもしれない……。
「秘密にしておいてあげるわ」
藤原さんは肘つきの椅子に座ってもなお笑い続ける。
私はというと、不必要なくらい顔が火照っていた。
「茹でだこね」
頬をつつかれてさらに熱くなる。
恥ずかしい……誰にも知られていないことだったのに。
「どうして司くんと付き合ってないの?」
え……? どうして、と言われても……。
「ツカサは、やっと友達って思えるようになったところなんです」
「……参考までに、それまではなんだったのか訊いてもいいかしら」
藤原さんの顔から笑みが消え、真顔で訊かれる。
「えぇと……先輩以上友達未満の頼れる人。その前が格好いいけど意地悪な先輩……だったと思います」
正直に答えると、藤原さんがお腹を抱えて笑いだした。
「あの、私、何か変なこと言いましたか?」
居心地が悪くてそわそわしていると、
「そんなこともないわ。ほら、冷めないうちに食べなさい」
笑ったままの藤原さんに勧められ、私はようやくご飯に手を伸ばすことができた。
トレイの上には桃が乗っている。
「桃……」
「えぇ、デザートだけど先に食べてもいいわよ」
私は真っ先に桃へフォークを刺した。
「美味しい……」
「……御園生さんが泣いたら桃を出せばいいわね」
そんなふうに言われるくらいには嬉しそうな顔をしていたのだろう。
いつもの朝食よりも会話多めの時間を過ごし、部屋の中にある洗面台で歯磨きを終えたとき、
「翠」
後ろからツカサの声がした。振り返ると、本当にツカサがいて――。
「ツカサっ」
何を考える前に、ツカサに手を伸ばした。すると、ツカサの鼓動が耳元に聞こえてくる。
トクントクン――規則正しくて、とても安心できる音。
でも、どうして心音が聞こえるのかな……。
自分の取った行動を回想すると、自分がツカサに抱きついたから、という答えに至る。
「わっ……」
咄嗟に離れようとしたら、
「いい。落ち着くまではこのままで」
ツカサの手が背中に回され、ポンポンと軽く背を叩かれた。
その動作が止まり、「痛くない?」と身体を気遣われる。
その声すら、身体に響いて聞こえる距離にいた。
「うん、痛くない……」
「立ってるのは平気なの?」
「たぶん、あまり良くはない。でも、すごく心臓がドキドキしてるから、血圧は高めかも……」
「そう」
五分ほどそうしていると、不安はほとんどなくなり動悸も治まり始めた。
「もう大丈夫みたい」
ツカサから離れると、
「じゃ、ベッドに戻って」
言われてベッドに上がりこむ。
「今日、この部屋にカメラが設置される」
カメラ……?
「そのカメラは秋兄の声帯認証を察知すると作動する仕組みになっていて、藤原さんと警備室に送信される」
「……それは」
「秋兄が翠に変なことをできないように監視……って、遠まわしな言い方じゃ翠には伝わらないな。ストレートに言うなら、翠が秋兄に強姦されるようなことがないように監視する」
監視カメラをつける理由に絶句した。
「正直、今の秋兄が何を考えているのか全然わからないから」
そう口にしたツカサは少しつらそうな表情をしていた。
「カメラ、ツカサが頼んだの……?」
「違うわよ」
藤原さんの声が割り込んだ。
「私が昨日のうちに連絡を入れたの。段取りしたのは私とナンバーツーよ」
何もかもがおかしい……。どうして……どうして今まで仲の良かった人たちが相手を疑うような事態になっているのか――。
――私だ。全部、私から始まっているのだ……。
なんだかものすごく大変なことになっている気がする。
取り返しのつかないこと……? たかが私ひとりが関わっただけで、こんなに大ごと?
私――。
「消えちゃいたい……」
「翠っ!?」
「こんなことになるくらいなら――私……」
こんなこと、望んでいなかったのに――。
「湊先生や秋斗さんたちものすごく仲が良くて……ツカサとだって仲が良かったのに、どうしてこんな――私が、私がっっっ」
「御園生さん、落ち着きなさいっっっ」
「もう……やだ――」
両耳を塞いで蹲る。
自宅にいればよかった。そしたら、私が人を傷つけている事実が残ったとしても、その人たちの仲に亀裂が生じることはなかっただろう。
それに、あのまま自宅にいたら衰弱死できたかもしれない。
もういい、どうでもいい……。何もかも、どうでもいい――。
私は手に刺さっている点滴のラインを引き抜き、高カロリー輸液のシールを剥がしてラインを抜き取る。
側でツカサや藤原さんが何か言っていたかもしれない。でも、聞こえているようで何も聞こえてはいなかった。
突如、ひどい胸の痛みと息苦しさに襲われる。
心も身体も、何もかもが苦しかった。
そうして、私はあっという間に意識を手放した――。
Update:2010/05/02 改稿:2015/07/19
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