「あの、明後日からはインターハイなのでしょう?」
「そう」
「すごく疲れているみたいだし、来てくれなくても良かったのに……」
確かに、日参する必要はないと思う。
「あっ、あのねっ!? 来てほしくないとかそういうことではなくて、電話をしようと思ったし、あっ、そう電話もあるしねっ?」
思わずため息が出る。自身の行動と翠の言動に対して。
床に落とした視線のみ翠へ向け、
「信じられない……」
これだけで十分だろう。
日参している自分に対しても、電話で話せば「大丈夫」と返すであろう翠に対しても。
なのに、翠は「何が?」と訊いてくる。
「……翠の『大丈夫』ほど当てにならないものはない」
「……それ、蒼兄にもお母さんにもお父さんにも言われる」
翠は肩を落としたけれど、
「それだけ当てにならないってことだろ?」
つまりはそういうことだと思う。
図星だったのか、翠の視線が定まらなくなった。
「さすがに明日からは来られないから、今日は会っておきたかった」
あぁ、そうか……俺は翠の体調を気にして日参してるんじゃないんだな。ただ、会いたいだけなんだ……。なのに、翠はどこか申し訳なさそうな表情で「ありがとう」と口にする。本当に鈍い……。
「五日後は閉会式が終わったら真っ直ぐ帰ってくる。一度家に帰って夜には来るから」
「えっ!? いいよ、だって疲れていると思うしっ」
「でも、結果報告はしたいから」
「それなら電話でも……」
翠は途中で口を手で押さえた。
治療が打ち切られた今、五日後がどんな状態にあるのかなんて時間が経たないとわかりようがない。翠は言いかけてからそのことに気づいたのだろう。
「だから、来るつもり」
「……ありがとう」
翠は不安そうに笑みを添えた。
「……だから、もう一度言ってくれない?」
本当なら、不安がってる翠を安心させてやれたらいいのに……。俺は今、自分を優先させている。
「え? あ……大丈夫だから、がんばって?」
意味が通じないかと思った。でも、翠はこういうところできっちりと俺が欲する言葉を返してくれる。
「……ありがとう」
翠は俺の顔を覗き込むようにして、
「緊張してる……?」
「それ相応に」
去年も行っている。でも、去年は入賞はできなかった。だから今年こそ――と思っている分、気負いが大きいのかもしれない。
「翠、今日は痛み、どんな具合?」
顔を上げ、翠の顔を見る。
「少し痛いけど我慢できるレベル」
なら、いいだろうか……。
「お願いがあるんだけど……」
「私にできることならなんでも聞くよっ」
身を乗り出す勢いで言われる。
「……なんで頼まれる翠がそんなに必死なわけ?」
「え……?」
本人はまるで気づいてないようだけれど、かなり必死に見えた。
「……普段、人に何かをお願いされることも頼りにされることもないから、かな」
翠はどこか嬉しそうに、けれども恥ずかしそうに口にする。
頼られることが嬉しい……?
俺には面倒に感じることのほうが多いけど、もし翠に頼られたなら、嬉しいと思うのかもしれない。
事実、記憶をなくす数日前から何度となく頼られて、嬉しいと感じていた。けれども、翠の「頼りにされて嬉しい」というのは、俺の感じるものとは違うような気がする。ただ、人に頼られることが今までなかったから新鮮なだけ。
たかだかその程度のことで喜んでもらえるのなら、こんなお願いはしても許されるだろうか。
「俺が病室を出て十分したら電話してくれない?」
「……全然かまわないよ?」
「じゃ、よろしく」
「帰るのっ!?」
「そう」
「エレベーターホールまで送りたいっ」
「……だからさ、そんな必死にならなくても拒否したりしないから」
変な話、小動物に懐かれた気分だ。
携帯を手にベッドから下りた翠に、「これも」とフリースのブランケットを持たせる。
「どうせ、俺を見送ってから携帯ゾーンにいるつもりなんだろ?」
「……うん」
「なら、膝掛けくらい持っていって。……重さ、負担にならない?」
表情をうかがうと、
「フリースは軽いから大丈夫……」
普通の笑顔が返された。痛みが軽いというのは嘘ではないようだ。
良かった……。
ナースセンターで藤原さんに会釈をして通り過ぎる。
少し遅れてついてきた翠は、俺の見送りにいく旨と、そのあと携帯ゾーンに行くことを藤原さんに伝えた。
「冷えないようにするのよ?」
「ツカサにこれ、持たされました」
「さすがね」
後ろから笑いを交えた声が聞こえてくる。
エレベーターは五階に停まっていたため、思ったよりも早くに着いた。
扉が開いたそれに乗ると、
「あとで、電話するからねっ」
翠は相変わらず必死な様子で口にする。
「待ってる」
答えてすぐに扉が閉まった。
「なんか、調子狂う……」
四角い箱の乗り物、エレベーターの壁に寄りかかりこめかみを押さえる。
翠にペースを乱されるのはいつものことだ。でも、最近はことさらひどい気がしてならない。
あんなに必死な様を見せられると、思わず勘違いしそうになる。
別に置いていったりしないのに慌ててあとをついてこようとしたり、視線が合うだけで目を逸らされたり……。
「視線に関しては前からか……」
不意に、図書棟の仕事部屋で何度か接したときのことを思い出す。
男の免疫がなくて、視線を合わせるのも男が近寄るもの苦手、という顔をしていた。でも、さっきの翠はそういうのとは違って――。
何がどう違う、と明確にはできないけれど、何かが違って見えた。
「翠に関しては考えてもわからないことが多すぎる」
外のベンチに腰掛け数分すると携帯が鳴った。
「きっかり十分」
自分の頬が緩むのがわかる。
「翠?」
『うん、電話したよ』
「……十、数えてくれない?」
『え……?』
心底不思議そうな声。何を言われているのかわからないといった感じの声が聞こえた。
「数、一から十まで数えてくれない?」
まさか、翠の携帯に自分の声が録音されているとは思いもしなかった。
「翠は録音しているのに、俺は録音してない。……ずるいだろ?」
携帯の録音データを聞かされたとき、心臓が止まるかと思うほどに驚いた。
録音されている声は秋兄のものだと思っていただけに、虚をつかれた。
『じゃ、数えるよ?』
翠は戸惑いを帯びた声を発し、すぐに数を数え始めた。
以前、俺が翠に数えたときと同じように一定のテンポで。
俺が何度も言わされたように、何度でも聞いていたかった。でも、ずっとそこにいさせるわけにもいかない。
そう思って、振り返り病棟を見上げる。
携帯ゾーンがある場所は、ガラス張りの六角柱が飛び出したようなつくりになっている。その九階を見ながら、
「最後、一緒に数えて」
『うん』
ふたりの声が重なったとき、ふわりと優しく風が頬を撫でていった。
『……ツカサ、大丈夫だから、がんばってね』
「ありがとう。じゃ、おやすみ」
最後、少し強引な切り方だったかもしれない。そんなところもあの日の電話と変わらない。
携帯をポケットに突っ込み自転車に跨る。
ペダルを漕ぎ始めて数分で私道へ入り、緩やかな上り坂に迎えられる。
俺は、この坂を上り続けたらどこへたどり着くのだろう。俺はどこにたどり着きたいのだろうか。
ただ、たどり着いたその場所に、翠がいてくれさえすればそれでいい。
この俺が恋愛――? 人を好きになる?
……わからない。俺はそんな人間だっただろうか。
考えても出ない答えにイラつきながら、左右交互に何度も何度もペダルを漕いだ。
Update:2010/05/15 改稿:2015/07/20
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