ツカサは軽く頭を下げて通り過ぎ、今は私の歩調に合わせて歩いてくれている。
会話なくエレベーターホールまで歩き、
「あとで、電話するからねっ」
「待ってる」
ツカサが一言口にしたらエレベーターのドアは閉まった。
もっと何か伝えたかった気がするけれど、何を伝えたらいいのかがわからなくて、「電話するから」としか言えなかった。
携帯ゾーンのソファに座るとフリースを膝にかける。
「こういうのも、いつもなのかな……」
いつもこうやってフォローしてくれていたのかな。
確かに、記憶がなくても困ることはない。でも、なんだか寂しい。
その人とどんな会話をして、どんな関係を築いてきたのかがわからないのは、「思い出」というとても大切な宝物を盗まれてしまった気がする。
どうしてこんなことになっちゃったのかな……。
人の話を聞いても記憶が戻ることはなく、ただ「そうなんだ」と思うだけ。
だからかな……携帯に残されたメールのやりとりを見るのが怖かった。
見ればどんな関係だったのかはわかるかもしれない。でも、どうして私がこの人たちを忘れなくちゃいけなかったのか……。
「メールを見たら、それがわかったりするのかな」
もし、その理由がわかったとして、私は記憶を取り戻せるのかな。
不安が常につきまとい、どうしてもメールの受信ファイルや送信ファイルを開くことができないでいた。
「あ、十分……」
咄嗟にリダイヤルを表示させたけれど、リダイヤルの上位にツカサの名前があった。もしかしたら頻繁に電話していたのかもしれない。
そんなことを考えながら発信ボタンを押す。と、
『翠?』
「うん、電話したよ」
『……十、数えてくれない?』
「え……?」
『数、一から十まで数えてくれない?』
それって……私の携帯に入っている録音データと同じこと……?
『翠は録音していたのに俺は録音してない。……ずるいだろ?』
ずるい、のかな? ……よくわからない。だって、録音した理由もそのときの状況もわからないのだから。
でも、これが「お願い」なのだと理解はできた。
「じゃ、数えるよ?」
前置きをしてから、ツカサを真似るように一から十までの数を一定のリズムで数える。数回数えると、
『最後、一緒に数えて』
「うん」
何もかもが、私の録音データと同じだった。
ふたりの声が重なる。掛け声も何もなかったのに、一から十までの声がピタリと重なった。
私の少し高い声と、ツカサの低く落ち着いた声。ふたつの声はアンバランスにも思えたけれど、私はふたつの声が重なる音が好きだと思った。
「……ツカサ、大丈夫だから、がんばってね」
『ありがとう。じゃ、おやすみ』
通話が切れて、携帯を見つめる。
本当は、私が思うよりはるかに緊張しているのかもしれない。ただ、顔には出さないだけで……。
「……わかりにくい人だなぁ……もう」
でも、少しは心を許してくれているのかな……。だから、「お願い」をされたのかな。
人を頼らず、なんでもできちゃいそうな人から頼まれた。そのことも嬉しいのだけど、ツカサに頼られたことが何よりも嬉しく思えた。
携帯ゾーンにいるついで、と言ったら怒られてしまいそうだけど、唯兄に電話をしよう。
蒼兄やお母さんとは会っているけれど、お父さんと唯兄には会っていない。
そもそも、携帯のバッテリーを用意してくれたのは唯兄なのだ。
コールすると、二コールで出た。
「唯兄?」
『……まだ就寝時間前か』
「うん、まだあと数時間はあるよ。夕飯だってこれからだもの」
『んーーー……どうも時間の感覚が』
なんとなく、伸びをしながら発した言葉っぽい。
「お仕事忙しい?」
『ちょっとね。今は仕事量が多いからなぁ……』
「忙しかったら切るよ?」
『それはダメっ、俺の癒しっっっ。リィ、たまには気分転換も必要なの。なので、切るの禁止っ!』
「切らなくていいなら切らない」
クスクス笑いながら答えると、
『具合はどう? 少し落ち着いてるって聞いてるけど』
「うん、まだ大丈夫みたい」
『またひとつ安心』
声音が少し柔らかくなった。
「今日はね、午前中に髪の毛を切ったんだよ」
『あぁ、碧さんが言ってたね。早いところ新生リィを見に行かなくちゃ』
「あとね、学校の友達がアルバムを持ってきてくれたの。それからね、さっきはツカサが来てくれたよ」
なんでもないことをつらつらと話す。
『そっか、司くんはインハイ前ってあんちゃんが言ってた気がする』
「うん、あのね……」
『どうした?』
耳に響く唯兄の声が優しい。心配している声ではなく、普通に話して「どうかした?」と訊いてくれている感じ。
「ツカサの顔を見たら自分の顔が熱くなる……。すごく困るのだけど、対処法知らないかな?」
『……リィ、今、ものすんごく会って話を聞きたい気分。でも、それは物理的に無理なので、電話で我慢する。顔が熱くなるっていうのはさ、ドキドキしてるってこと?』
「……うん。だって、あの人無駄に格好いいんだもの……」
『……記憶がなくても受ける印象はあまり変わらないもんだなぁ……』
「……そうなの? 私、こんなこと言ってたの?」
『うん、言ってた。でも、そのときはドキドキするとか、顔が熱くなるってことはなくて、一感想って感じだったかな』
じゃ、どうして今はドキドキしたり顔が熱くなるのかな……。
「話をしているととても落ち着くのに、ドキドキし始めると居心地が悪くなって、心臓の駆け足がちょっと大変なの」
『でも、それじゃ死なないから安心していいよ』
それ、どこかで聞いたことがあるような気がする――。
左手でこめかみを押さえつつ、記憶を手繰り寄せる。
「唯兄、それ……湊先生にも言われたことがあると思うんだけど、それもツカサのことだったのかな……」
『さぁ、それはどうかな……』
それはそうだよね。唯兄に訊いてもわかるわけがない。これは湊先生に訊くべきだ。
『明日、お昼くらいに少し時間作っていくよ。そのときにまた話そう?』
「来てくれるの?」
『そりゃ、かわいい妹の新しい髪形を見に行かにゃなりませんからね』
「……無理してない?」
『無理どころか楽しみ』
これはそのまま受け取ってもいいのかな。
「じゃ、明日、楽しみにしてるね」
『うん、明日ね!』
電話を切って目の前に広がる空を見る。
ソファの前は全面ガラス張り。ここからだと藤山が見える。
「山は今、深緑の季節だね」
西日が当たる木々はオレンジ色の光を放つ。手を伸ばせば届きそうな気がするのに、手を伸ばしても届く場所にはない。
「まるで私の記憶みたい……」
ポツリと零し、私は病室へ戻ることにした。
Update:2010/05/15 改稿:2015/07/20
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