時刻は八時を回っている。
「連日試合なのに迷惑かな……」
やめたほうがいいだろうか……。
「かけるかどうかは別にして、携帯ゾーンまでお散歩に行こうっ」
治療が効いているのか、痛みはほとんどない。
ベッドから下りると、ツカサと話せそうな話題を探している自分に気づく。
相馬先生の第一印象と楓先生を呼んでくれたこと、ツカサならどう思うだろう。それを訊きたいな。
「これって理由のこじつけになるのかな……」
ただ電話をしたいだけ。それだけのような気がする。
「出たくなければ出ないだろうし、出られない状況でも出てはもらえないだろうし、出なかったら出なかったで、ただ話したかっただけってメールを送ればいいよね?」
自分にたくさんの言い訳を用意して病室を出た。
カラコロと音を立ててナースセンターに立ち寄ると、ナースセンターには相馬先生がいた。
「よう、嬢ちゃん。どこへ行くんだ?」
相馬先生の座っているデスクには山のような資料がある。じっと見て、それらが資料ではないことに気づく。
「それ……」
「あぁ、嬢ちゃんのカルテと検査結果の山だ」
なんてことないふうに言うけれど、恐ろしく膨大な量だ。傍目に見て、ちょっと目を通す、という分量ではない。きっと、私がほかの病院をたらいまわしにされたときのレントゲンコピーなども含むからだろう。去年の入院中はずっと心電図をとっている状態だったし……。
「先生はおうちに帰らないんですか?」
「まだ探してねぇんだわ」
えっ!?
「面白れぇな、全部顔に出やがる」
先生はくつくつと笑った。
「今日帰国したばっかだ。当分は病院に間借りさせてもらうさ。それは嬢ちゃんが気にすることじゃねぇ。俺の個人の問題だ」
大人、ではなく個人――
ひとつ気になると全部が気になって仕方がない。
「相馬先生っ」
「なんだ?」
「相馬先生は優しい人ですかっ!?」
先生は表情を固まらせる。
「……先生?」
声をかけると、先生はカウンター向こうにしゃがみこんで見えなくなった。
「……先生、貧血? 大丈夫ですか?」
カウンターに身を乗り出して覗き込むと、先生は床で脱力していた。
「貧血じゃねぇし……」
ドスのきいた声が返される。
少し怖くなってカウンターから身を引くと、
「嬢ちゃん、素直っつーか……正直すぎんのも問題だぜ?」
先生は立ち上がって白衣をパンパンと払った。
「この俺様が優しく見えるか?」
「いえ、とっても怖く見えました」
「そうだろーともよ……って、それも正直すぎるだろっ!?」
「だって、訊くから……」
「そもそも、なんでこんな話になってんだよ」
「……第一印象と人の本質について電話をしに行こうと思っていて……そしたら、相馬先生が私のカルテを見ていたから……」
「なんだ、それって俺のことか?」
呆れたように柄の悪いタレ目がこちらを向く。
向くというよりは、高い位置から見下ろされていた。私は一生懸命に上を向いて喋っている。
背の高い人は、できれば椅子に座っていてくれるほうが話しやすいのに、と思いながら頷く。
だって、当人が目の前にいるのだ。本人に訊いてしまったほうが早いし確実に違いない。
「最初、すごく怖い人だと思ったんです」
「まぁな、この面だ。たいていの人間がそう思うんだろうよ」
「でもっ、治療のとき、鍼を怖がったら爪楊枝を持ってきてくれたし、目に見えるところに打ってくれたし……」
先生は、「ほぉ?」といった感じでカウンターに肘を突いて私を見た。
少しかがんでくれたから、さっきほど上を見る必要はない。
けれども、顔が近くなれば別の緊張が生まれる。
「夕飯のとき……楓先生を呼んでくれましたよね?」
「あぁ、呼んだな。あの坊やには嬢ちゃんが気を許してるみたいだったからな。俺が夕飯に付き合うんでもかまわないが、それで食欲が落ちたとか言われたらしゃれになんねーだろ」
きっとこれも本音なのだろう。でも、だから――
「……優しい、ですよね?」
真正面から尋ねると、先生はふっと笑った。
「嬢ちゃん、騙されやすいだろ?」
「真剣に話してるんですよっ!?」
「あぁ、わかってる」
言いながら、先生はもといたデスクへと戻っていく。
大人の余裕、といった感じであまり相手にされていない。私の周りにはいつもきちんと向き合ってくれる人ばかりだったから、なんだか少し新鮮と思えなくもなく……。だからこそムキになってしまう、というか……。
「先生は口も顔も怖いけど、優しい人ですっっっ」
大きな背中に向かってそう言うと、椅子に座った先生に「だから?」と言われて困ってしまった。
だから? だから……えぇと――
「第一印象は怖い人でも本当は優しい人で――だから、もう怖くないですっ」
ムキになったら自然と声も大きくなっていた。
先生は面白そうに笑って、
「電話しに行くんだろ? 身体冷やすなよ」
それだけ言って私のカルテを手に取った。即ち、話は終了。
カラコロカラコロ――点滴スタンドの音が廊下に響く。
あんな膨大なカルテをいったいどのくらいの時間をかけて見るのだろう……。少し考えただけでもぞっとする。
携帯ゾーンに着くと、携帯を目の前に唖然とした。
「どうしよう……」
ツカサに電話する前に問題が解決してしまった。今の出来事を話したらなんと言われるだろう。
そのまま携帯をじっと見つめていたら、あっという間に十分が経過していた。
話す内容はなくなってしまた。でも、電話をかけてもいいかな……?
すでに十分間も悩んだというのに答えが出ない。
相馬先生と話したことを聞いてもらいたいと思うけど、相手はインターハイ真っ只中なわけで、世間話をする相手には相応しくない。
「あ――桃華さん」
桃華さんなら聞いてくれるかな。今の時間に電話しても大丈夫かな。
でも、桃華さんも私と同じで用件を話したら切る人で……。
電話で世間話をするところが想像できない。
ほかにかけられるといったら蒼兄と唯兄、それからお母さんとお父さん。あとは佐野くんくらいなんだよね……。
栞さんは昇さんが帰ってきたばかりだから、ふたりの時間を邪魔したくはないし、湊先生は問題外というか、今日の状況から察するに、相馬先生のお話を振っちゃいけない人ナンバーワン……。
すぐに電話をかけられない私はワンクッション置くことにした。
件名 :電話
本文 :今、かけても大丈夫かな?
なんて短いメールだろう。でも、これ以上に書く言葉は見つからないのだ。
送信すると、すぐに電話がかかってきた。
『何、あのメール』
どうしてか、若干機嫌が悪そうだ。
私、何か怒らせるようなメールを送っただろうか。でも、一文しか送っていないし……。
『電話くらいかけたかったらかけてくればいいのよ』
言われて機嫌の悪い理由がわかる。
「ごめんね。なんだか、桃華さんに自分から電話したことないなって思ったら少し緊張しちゃったの」
苦笑いでごまかすと、「まったく……」と呆れたような声が返された。
『身体の調子はどうなの?』
「大丈夫。今日、新しい先生がいらしたの」
『蒼樹さんから聞いたわ。なんでも、ものすごく目つきの悪い人とか……』
あ、蒼兄もそう思ったんだ。
肩に入った力が自然と抜けた。
「見た目はすごく怖そうな人なんだけど――」
『おまけに口も悪いって言ってたかしら?』
「でもねっ、見かけも口調も怖い人なんだけど、優しい人かもしれないって思ったのっ」
『……ふーん。翠葉がそう思うならそうなんじゃない?』
「え……?」
『だって、私は会ったことがないもの。百聞は一見にしかず、って言うでしょ? 人からああだこうだ聞いたところで、実際には会ってみないとわからないって話よ』
そう言われてみればそうだ。
「なんだか桃華さんと話していると、ツカサと話している気分になる」
思わず笑いがこみ上げてきた。
ツカサに話したら、きっと同じ反応が返ってくる気がする。
『それ、ものすごく嫌だわ……』
「本当はね、ツカサにかけたかったの」
『あら、私は二番手さん?』
冷笑でも浮かべていそうな抑揚のある声が聞こえてきた。
「ツカサはインターハイ真っ只中だから、頻繁にかけるのはよくないかな、って。それでほかに電話をかけられる人を考えたのだけど、桃華さんしかいなくて」
『それは喜んでもいいのかしら……』
桃華さんは少し悩みつつ、
『藤宮司に電話すればよかったのに』
「だって、明日決勝でしょう? 邪魔にならないかなって」
『邪魔だと思えばあの男のことだから出ないわよ。かけてみれば?』
「……かけて、みようかな……」
『また近いうちにお見舞いに行くわ』
その言葉で締めくくられ、通話は切れた。
「……やっぱり似てるよね?」
通話を終えた携帯を見ながら思う。
必要以上の会話をしないところがというか、女の子らしからぬあっさりとした受け答えに切り返し。返答もズバズバと的を射たことを言われるし……。それが嫌なのではなく、ほかの女の子――たとえば飛鳥ちゃんとは一味違うというか……。一味も二味も違う気がするのだ。それに、「百聞は一見にしかず」はツカサにも言われそう。ためしに同じことを訊いてみようかな。
少しだけ電話をする勇気が湧いてきた。それでも、勇気総動員で通話ボタンを押すことには変わりないのだけど……。
ツカサに電話をするときのコール音は心臓に悪いと思う。すごくドキドキして、心臓が口から飛び出てしまいそうなのだ。でも、「翠?」とこの声を聞くと、とても落ち着く。
「今、電話してても大丈夫かな?」
『三分後にかけ直――』
「私からかけ直すっ」
『え?』
「この間もツカサにかけ直してもらったから」
『別に気にする必要はない』
「でも、気になるから。私が三分後にかけ直す」
『……わかった』
Update:2010/06/19 改稿:2017/06/30
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